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裁判の非情と人情   原田國男著    岩波新書

 
 本の紹介によると著者は、「有罪率99%といわれる日本の刑事裁判で、20件以上の無罪判決を言い渡した元東京高裁判事」だそうです。


 「無罪判決を続出すると、出世に影響して、 場合によれば、転勤させられたり、刑事事件から外されたり・・・」。人事権をもつ最高裁判所から冷遇されると「しぶしぶとしぶからしぶへめぐり  しぶのむしにもごぶのたましい」という支部勤務が待っているのだそうです。 


 毎日新聞の朝刊で連載が始まった高村薫の「我らが少女 A」にも、「公僕の誇りと、虎の尾を踏まない慎重さと、 日和見と忖度と見て見ぬふりで裁判官の熾烈な出世競争を生き抜いてきた男・・・」という表現が出てきました。


 裁判官に対する大方の見方は、そのようなものかと思います。


 そういう風潮を知っている著者が、「それだけではないよ」と書いたのがこの本です。


 裁判官の日常を、ゆったりと、大らかに、しかし、克明に書いています。


 著者は、アメリカの裁判官が、「日本では名もなく顔もない裁判官が理想とされる。裁判官が誰であるかはむしろ問題となってはいけない。というのも、判決というのは誰が裁判官として座っているかにかかわらず、同じであるものとされているからである」と論じていると紹介しています。


  アメリカでは「 そもそも、裁判官に対する敬意の度合いが我が国とはまったく違う。」のだそうです。でも「・・・ 我が国には、アメリカでいう悪徳判事はいないと思う。賄賂を要求し、賄賂をくれた側を勝たせる裁判官のことである。この点の廉潔さは、誇るべきことであろう。」


 真摯に仕事と向き合い、公正かつ慎重な判断を日々心掛ける裁判官たちの日常を描いています。


 でも、私は、最近、判決の内容によって、裁判官の名前を控えるようになりました。


 原発再稼働については、裁判官個人の判断を交えても良いと思います。

 

 原子炉の再稼働を判断する基準は、今ある法律ではないと思います。


 人としての倫理観の問題だと思います。


 三権分立の基本に立って、政治とは違う判断があっても良いのではないでしょうか。


 そう考える裁判官であってほしいです。 




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セヴェラルネス  中谷礼仁著    鹿島出版会

 

 柄谷行人が「憲法の無意識」の中で紹介していた「先行形態」という概念について、詳しく知りたいと考えて買って読みました。


 著者の中谷礼仁は、Profileによると歴史工学が専門の早稲田大学建築学科教授です。

 そういう分野の本を私が読んで理解できるのかと、こわごわ手に取って読み始めました。


 ところが、この本は、読み手をズンズンと惹き込む魅力をタップリと持った本でした。一気に読み終えました。

 「憲法の無意識」の中で紹介されていた「先行形態」は、大阪の南部、堺の周辺にある町並みでした。住宅の建ち並びが円弧を描いているのです。古地図を探って、そこにかつて前方後円墳があったことを探り当てました。古墳は掘削され平らにされ住宅地として売られた。住民はそれを知らないで住んでいた。「無意識」の「先行形態」というわけです。


 「先行形態論」に行き着くまでに、かつてあった「かたち」を探し当てる手法のいろいろが説明されます。

 そこで駆使される理論は、歴史工学という語感からは程遠い分野のものたちです。


 「序」に、田中純という表象文化論を専門とする東京大学大学院教授が文章を寄せています。 

 歴史工学と表象文化論という組み合わせは、一見不思議です。


 説明によると、『10+1』という建築雑誌に、中谷礼仁と田中純の2人が同時期に記事を連載して、お互いの文章が影響を与え合ったのだそうです。


 「影響を与え合った」という意味は、本を読んで直ぐに理解できました。

 哲学、心理学、認知科学、人類学、美術理論 等々、著者は、様々な分野を縦横無尽に飛び交って論を進めて行きます。かつてあった「かたち」をあぶり出す手法の説明として、銅版画家の駒井哲郎の本を説明に使っている部分には驚きました。経験したことのない人間には難解な銅版画の製版技法を、まるでその場で制作しているかのように説明しています。


 大きな「知の器」の存在を知ることになりました。

 新鮮な感動を与えてくれた本でした。


 要約不能の本ですので、これ以上の紹介は止めます。


 ただ、私の「超」のつく個人的な感想ですが、本全体から、「現代文明批判」を感じ取りました。


  第1章に置いてある「クリティカル・パス   桂の案内人」が、象徴的です。

 著者が、わざわざ第1章に置いた訳には、深い意味を感じてしまいます。


 「クリティカルパス法」とは、Wikipediaによると「プロジェクトの一連の活動をスケジューリングするための数学的アルゴリズム」だそうです。

 第1章で言うところの「クリティカル・パス」は、桂離宮の案内人を指すと思われます。


 「ブルーノ・タウト昭和8年、堀口捨己同27年、丹下健三同35年、磯崎新同58年。」・・・ 建築家が鑑賞者として桂離宮を訪れています。案内人に案内され、それぞれが評価を伝えています。


  桂川のほとりに「かろき茶屋」を造り上げた智仁親王は、「今夜みる月のかつらの紅葉ばの  色をばしらじ露もしぐれも」という歌を詠んでいる。

 「その時月は空になく、その楼の傍らの波面にゆらいでいた・・・」という情景を、桂の案内人の案内に従っていては、見ることが出来ない。・・・・・・  と、私には読めました。


 声高に主張するのでもなく、声高に断定するのでもない書き方なのですが、クリティカル(言葉そのものの意味の)な考え方が身に沁みついている私には、第1章は、痛烈なる皮肉と読めました。



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スノーデン  日本への警告  集英社新書  ④

  

第2章   信教の自由・プライバシーと監視社会   (  の続き  )


井桁      アメリカでは、プライバシーなどの人権と監視による安全のバランスを取るためにどのようなシステムを導入しているのでしょうか。法律や裁判所の監督、議会における監視システムなどいろいろあると思いますが、まず、地元警察の監視を監督するシステムについてマリコ・ヒロセ氏に伺い、その後に連邦政府についてワイズナー氏に伺います。 


ヒロセ   前提として、監視と日常的な法執行は異なることを意識する必要があります。地元警察の主な活動は発生した犯罪を解決することです。犯罪を捜査し、検察官に事件を送致し、最終的に事件が裁判所で審理されるという一連のシステムに基づくものです。うまく機能しないこともありますが、少なくともこの確立したシステムが警察に対する監督としても機能しています。

   監視はまったく異なります。警察が解決すべき犯罪は発生していません。監視プログラムに終わりはないわけです。そのため、地元警察が行う監視プログラムに関しては、監督のメカニズムに大きな問題が生じています。日常の法執行のためのシステムが、監視のメカニズムの文脈では必ずしもうまく機能しないからです。


ワイズナー    アメリカには連邦政府諜報機関を監督するメカニズムがあります。議会には独立委員会(PCLOB )が存在し、NSAとCIAを監督しています。また、法執行目的ではなく海外における諜報活動のための監視を承認することのみを職務とする諜報監視裁判所(Foreign Intelligence Surveillance Court)という特別裁判所も存在します。

   スノーデン氏は、これらのメカニズムがまったく機能していないことを教えてくれました。‐‐‐  2013年、スノーデン・リークの直後、オバマ大統領は「心配ない。NSAの活動は、三権、すなわち行政府、議会、裁判所のすべてによって承認されています」と述べました。確かにその通りです。そしてそれこそが問題なわけです。‐‐‐


井桁    ワイズナー氏のお話は、三つの国家機関がそれぞれ監督に失敗しており、そのことがスノーデン・リークによって暴かれたという話だと思います。具体的にどのように失敗をしていて、それがどのように暴かれて今修復されつつあるのか、宮下先生に補足いただければと思います。

宮下    私は、2012年から2013年にかけてアメリカのボストンにおりまして、‐‐‐ アメリカにおける監視活動のチェック機能を見てきましたけれども、アメリカにおいては先ほどお話がありましたように、一般には司法がまず大きな役割を果たしていると思います。ところが残念なことに、諜報監視裁判所ではチェック体制がほとんど機能しておりませんでした。令状がくれば右から左にそれを許可していたのです。アメリカ司法省の統計では、2012年に1789件の電子監視の令状請求が来たものの、1件だけしか却下しなかったというような調査結果もございます。‐‐‐


井桁    スノーデン・リーク以後は少しずつ改善されつつあるという話がありました。どのように改善されつつあるのでしょうか。 


宮下  ‐‐‐  アメリカ国民を対象とした電話のメタデータ収集プログラムついては、2015年6月に成立したフリーダムアクトという法律により停止になったということを先ほどワイズナー氏にも確認しました。

    ただ一方で、私たち日本人が気を付けねばならないのは、702条プログラム、これは外国人を対象とした別のプログラムなのですが、こちらはいまだに続いているということです。だからこそ、EUではセーフハーバー決定の無効判決という厳しい形で、外国人を監視の対象とするプログラムを止めるというような判決を出したという経緯があります。日本では残念ながら、立法府、司法府のいずれにおいても、日本人も対象となっているこのアメリカの監視プログラムについての活発な議論や審理がこれまでなされていません。


井桁     今まさに、アメリカ政府においても改善の途上だとは思いますが、ワイズナー氏から、監督のためのシステムのあるべき姿、あるいは重要な視点についてお話しいただければと思います。


ワイズナー    これは民主主義における難問です。正当な秘密というものが存在することを前提とし、他方で民主主義においては重要な決定は市民のインフォームド・コンセントに基づいて行わなければならないとすると、衝突が生じます。たとえば戦争は、政府が秘密とすることに確固たる理由がある一方、市民の名の下に政府が何をしているかについて市民が知らなければならないことの最たるものです。

 自由な社会がこれまでに生み出した唯一の有用な解決策は、独立したメディアです。自由な社会であれ権威主義的な社会であれ、政府は自らに都合の悪い情報を隠蔽する傾向があります。情報を公開すると困ったことになったり、説明責任を問われたりするので、情報を隠す傾向にあるのです。これは官僚が悪者だからというわけではありません。それが人間の性です。

 ここにこそメディアの役割があります。政府による情報の管理に対抗し、適切な形で情報を市民に伝えるという役割です。--- もちろん国家の統治機関も必要です。より効果的な議会、より効果的な司法も必要です。それはもちろんですが、しかし強力で独立したメディアがなければこれらの組織は効果的に活動できないでしょう。


井桁  日本において、メディアは警察の監視捜査を監督する役割を果たしているのでしょうか。


青木  私もそのメディアで禄を食んでいる身ですから、申し上げにくい面もありますが、日本メディアの権力監視機能について少しお話ししたいと思います。

 先ほどから申し上げている通り、日本には専門の情報機関がありません。これは戦後民主主義のそのひとつの成果というか、まだ制御が効いている部分ではあると思います。その役割を公安警察が担ってきたわけですけれども、実は公安警察という組織もある時期までは権力の行使にそれなりに謙抑的なところがあったわけです。---

 ところがオウム事件、あるいは9・11などの発生によって、そうした謙抑感が次々と取り払われてきている、というのが現状です。先ほどスノーデン氏もおっしゃっていましたが、特定秘密保護法というような悪法も成立してしまいました。多少は批判の声もあがりましたが、全国民的な批判にはならなかった。---

 政府の持つ情報は誰のものか。原則的には市民全員の共有財産であって、仮に一時的に秘密が必要な場面があったとしても、それはいずれ公開されて歴史の検証を受けなければならないという原理原則が日本社会にまだ根付いていない。しかも日本では、政府に任せて守ってもらえば「安心・安全」だというお上依存体質も非常に強い。

 その上で井桁氏からの問いかけに答えるならば、昨今の日本メディアは公安警察をはじめとする権力を監視する機能がますます弱っていると思います。公安警察、あるいは警察のディープな活動実態を知らせてくれるような新聞、テレビ、あるいはフリージャーナリストの活動というのは、正直言って皆無に近いのではないでしょうか。---


井桁  こうした状況に対する打開策はないのでしょうか。ジャーナリズムが警察の監視活動の透明性を高めるために、我々ができることあるいはジャーナリストができることはないのでしょうか。


青木  僕もメディアを舞台に働いているわけですから、僕らが踏ん張るしかないということに尽きるでしょう。と同時に、政治や市民社会がメディアとジャーナリズムの仕事をもっときちんと理解してほしいという気もします。

 今日の話題とは少しそれますが、先日、シリアで取材中だったジャーナリストの後藤健二氏が殺害されたと伝えられました。その直後、アメリカではオバマ大統領が声明を出しました。その声明の中には、こんな一文がありました。「後藤さんは勇敢にも自らの報道を通じてシリアの人々の窮状を世界に伝えようとしていた」と。ジャーナリストとしての後藤氏の仕事に対する敬意がそこには込められています。

 一方、我が首相もコメントを出しましたが、「テロは断固許さない」といった勇ましい言葉は口にしても、オバマ大統領のような後藤氏の仕事への敬意は一言もない。そればかりか、直後にはシリア入りしようとしたフリーカメラマンのパスポートを日本政府は取り上げてしまい、これに対する批判もほとんど起こりませんでした。

 同じ時期、僕はアメリカ国務省のホームページで知ったのですが、国務省は紛争地取材にあたるジャーナリストやメディア記者たちを集めて勉強会を開いていて、そこでケリー国務長官がこんな趣旨のことを言っているのです。「危険地で取材するジャーナリストの危険性をゼロにすることはできない。唯一の方法があるとすれば、それは沈黙することだ。しかし、沈黙は独裁者や圧政者に力を与えることになるから、それはするべきではない。政府にできることがあれば言ってほしい」と。

 僕はアメリカが全部いいなんてまったく思いませんけれども、こうしたアメリカなどの状況と比べ、日本ではジャーナリズムやメディアの仕事に対する理解が、政権レベルでも市民レベルでも非常に低いと思います。--- あえて攻撃的に言えば、この程度の市民があってこそ、この程度のメディアと言えるのかもしれません。---



井桁  宮下氏に伺います。日本では政府や警察による監視活動を制御するために、どのような監督システムがあるのでしょうか。

  

宮下  国連が2013年12月に決議をひとつ採択しております。デジタル時代のプライバシー権という決議でありまして、これには日本も賛同しています。この決議は、スノーデン事件を受けて行われたものです。決議内容には、国連のすべての加盟国は、監視活動に対して独立して効果的な監督機関を設けるべきであるとする条項が含まれています。--- 日本の警察捜査機関の監視活動を監督する機関はあるのでしょうか。今年(2016年)の1月にできたばかりの個人情報保護委員会です。--- 気を付けなければならないのは、この日本における監督委員会というのは、原則として、民間部門による監視活動に関するものについてのみ監督を行っているということです。では公的部門はどうでしょう。実は、ほとんどメディアで取り上げられておりませんが、つい先月(2016年5月)、センシティブな情報を保有する行政機関(警察、防衛、外務等)に対し、個人情報保護委員会の監督権限を及ばせることを可能にするため、行政機関等の保有する個人情報保護に関する改正案が成立しました。ところが、その法律の中では、あくまで匿名情報のみを監督することができるとされており、一般的な捜査活動に対しては監督活動が及ばないことになっております。国連の決議を履行するためには、すべての行政機関に対して第三者の監督機能を持つことが必要だと思います。---


青木 --- そもそも論でいえば、日本の警察機構に対する監視機関というのは、ないわけではないのです。代表的なのが公安委員会制度でしょう。--- 制度としては非常に優れているのですが、都道府県警察の公安委員会も、警察庁の国家公安委員会も、事務局の役割を警察組織が牛耳っているため、現在はほとんど機能しなくなってしまっています。公安委員の人選も事実上、各警察組織が行っていて、すっかり名誉職的な扱いになってしまっている。---


青木 僕はメディアの世界ですでに30年くらい仕事をしてきました。今日スノーデン氏やワイズナー氏もおっしゃっていましたが、一番強力な監視機関はマスメディアなのだという言葉を胸に刻んでおきたいと思います。フリーランスの記者にできることなど限界はありますが、所詮はそうした記者の努力の積み重ねでしかメディア状況は改善しません。---


宮下 --- プライバシー権などの人権に関する議論は --- 両者のバランスを考えなければなりません。どちらか一方を取るのは不可能なわけです。安全だけ、あるいはプライバシーだけを取るというのは不可能なことです。---


ヒロセ 繰り返しこのパネルで議論されてきたことは、透明性と監督だと思います。--- 強力な技術を用いているという情報について透明性を高め、コミュニティの人たちや市民が認識していけるようにならなければなりません。---




あとがきにかえて  ベン・ワイズナーとの対話 

                       2017年2月1日  聞き手=金昌浩


ワイズナー --- トランプ政権前にスノーデン事件があったのは、大変幸運でした。なぜなら、スノーデン氏は2013年に、監視の脅威に真剣に目を向けなけらば、いつか民主主義をおろそかにする指導者が選出され、監視機構の矛先を市民に向けるかもしれないと、すでに警告していたからです。この警告を聞いていたので、我々は警告を無視するのではなく、真の改革を実施できたのです。訴訟や法律によって政策を変えただけでなく、テクノロジー業界がスノーデン氏の告発に反応を示したのは同じくらい重要なことでした。テクノロジー業界は、暗号化やその他プライバシー技術の改良を進めることで、政府による大量監視をより難しくしたのです。---


──── --- プライバシーや民主主義を守るために、私たちは何をすべきで、何ができるのでしょうか?


ワイズナー もっともな質問です。活動家にとって、時としてこれはもどかしい質問です。なぜなら、人々が関心を持ってくれれば問題の解決法はあるのですが、一般市民が、問題の解決に必要な政治的な変化をもたらしてくれるほど、問題の解決にコミットしてくれるわけではないためです。私たちは、環境汚染を防いだり、市民権や平等権を保護するために、どのような運動を展開していけばよいかを知っています。プライバシーの分野でも何をやればよいのかを私たちは知っています。

 問題なのは、プライバシーや監視の問題に私たち一般市民がどれほど関心を持つのかということです。もし大いに関心があるのなら、私たちが選んだ議員にも明確に示さなければなりません。これが私たちにとって本当に優先順位の高い課題なのだとわかってもらわなければなりません。一方で、政府が行動に移すのを待たなくても、できることもあります。製品やサービスを提供するテクノロジー企業に対して、プライバシーの問題に真剣に取り組み、監視から私たちを保護するように求めることができます。誰が政権の座にあるとしてもきちんと機能し、私たちをハッキング以外の脅威から守ってくれるようなプライバシーのツールや暗号の使い方を学ぶこともできます。---

 私たちは世界の歴史の中でも最も安全で治安の良い社会に生きています。テロの脅威を適切に評価すれば、テロ行為に対する政府の関心や、テロ行為防止のために要求する金額、あるいはテロ行為を防ぐために必要とされる権力の大きさには、まったく正当性がないことがわかります。単に安全であることが問題とされているのではないのです。問われるべきなのは、今よりもどれほど安全になりたいのか、そしてそのために、どれほどの代償を払うのかということです。

 今アメリカでテロリストに殺される確率は400万に1つです。テロリストに殺されるより、浴槽で溺れ死ぬ確率のほうが高いのです。なぜ私たちは、世界大戦や冷戦下の際の脅威と同じような脅威に直面しているかのように行動するのでしょうか。---


--- 1970年代に比べてずっと犯罪発生率は低いにもかかわらず、メディアは犯罪に関するニュースに焦点を当てています。テロ行為があれば、必ず世界中で大々的に取り上げられます。--- このような行為に直面した時に、勇気を持つように促すよりも、脅威を誇張することに大きな政治的利益があるのでしょう。これは非常に難しい問題です。

 私たちは、このようなメディアのインセンティブを転換させる必要があると思います。アメリカでは、政治的リーダーがテロの脅威について言及すると、力強いと賞讃されます。穏やかな口調で、「この問題をいろいろな角度から分析してみましょう。我々は、戦争を始める必要はありません。新たな権限など必要ありません」と言えば、世間知らずで意気地がないと言われるのです。実際にはその反対なのにもかかわらずです。---


--- おそらく今言ったとは、日本とアメリカと同じように当てはまるのだと思います。今両国にとって特に強調すべき重要な点は、両国の制度が思っていたよりも脆弱かもしれないということ、ある程度安定していると思い込んでいた制度が、あっという間に脅かされることも十分あり得るのだということに今私たちが気付いているという点です。--- トランプ氏の就任翌日には、何百万人もの抗議する人が路上を埋め尽くしました。--- こうした抗議の様子を、新聞などのメディアも継続的に報道しています。報道機関は自由な社会を保持する上で極めて重要な役割を担っています。--- 過去の社会から受け継いだ自由な社会を守りたければ、私たちにはそれ以上の行動が求められているのです。物事が最悪の事態になり得るということ、そしてまた、最悪の状況になるのはあっという間であり得ることを、私たちは常に認識しなければいけません。民主主義社会では単に過去から受け継いだものの上であぐらをかいているだけではいけません。民主主義には行動する責任が伴うのです。---




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 「 この程度の市民があってこそ、この程度のメディアと言えるのかもしれません・・・・・・・ 」という指摘に、ぐさりと胸を刺されました。


 安倍内閣の「御用新聞」読売新聞の発行部数は、世界1だそうです。


 この事実を知った時、虚しさに襲われました。


 でも、でもです。


 メディアも、市民も、意志を表明し続けなければ、事態はもっと憂慮する方向へ進んでしまうと思います。


 私は、諦めません。


スノーデン 日本への警告   集英社新書  ③


第2章  信教の自由・プライバシーと監視社会 ── テロ対策を改めて考える


ワイズナー --- スノーデン氏の最も重要なメッセージは、監視に関するものでなく民主主義に関するものかもしれません。社会における極めて重要な意思決定は、限られた公職者により秘密裏に行われるべきではありません。市民の討議と議論によってなされるべきです。---


ワイズナー 具体的な数字をここで述べることはできませんが、NSAがすべての情報を集めることを戦略としていたことは確かです。--- これはNSAの職員が悪人だからではありません。政府機関の本能に基づくものです。--- これはすべての政府に共通する問題です。 --- スノーデン氏が述べた通り、このプログラム自体は難しいものではありません。近い将来、NSAがアメリカ国民に行ったような監視の能力を世界中の政府が持つようになるでしょう。--- さて、情報機関の職員や警察官に、電話の通話内容とメタデータのどちらの価値が高いか聞いてみたとしましょう。おそらく全員がメタデータを答えるでしょう。特にすべての人に関する情報であればまずメタデータと答えるはずです。

 スノーデン氏の話にもあった通り、メタデータとは、電話で話した内容に関する情報ではありません。私たちが会話をしたという事実、通話の日時、通話時間、通話時の場所などがメタデータです。これは私たちの交際関係のすべてです。メタデータは嘘をつきません。メタデータは真実だけを語ります。政府に電話を盗聴されている時、私たちは器用に会話の内容を隠すことができます。メタデータについてはできません。--- 



井桁  これまでお話いただいた監視の実態を前提として、市民社会はどのように監視のリクスをコントロールしていくべきかという点についてお話いただきます。---


ワイズナー --- ほとんどの監視技術は戦争のために開発されました。深刻な危機が存在し、これに対応するために監視システムが作られるわけです。他方で、監視システムが存在するから危機を演出するということもあります。危機が去った後にも大規模なシステムの存在を正当化するために、新たな危機を生み出すわけです。ムスリムの監視に関して日本で行われていることはこのようなことかもしれません。テロを防止するという目的のために監視が始まり、その後、監視を継続するために正当化を必要とするわけです。


--- スノーデン以前は証拠の不在が最大の障壁となり、裁判所に監視の違憲性について判断を求めると、裁判所は「帰りなさい。あなたが主張する監視があなたに影響を与えているという証拠がないので、あなたにはその裁判を提起する権利がありません」と門前払いにされていたのです。

 監視プログラムの存在が国民に知らされないまま行われていたために、訴えが斥けられるという不当な状況でした。スノーデン氏が証拠を提供してくれたため、政府官僚ではなく裁判官にプログラムの違憲性を判断してもらうことができるようになりました。---


青木    ワイズナー氏に質問があります。アメリカには強大な情報機関が複数存在し、NSAという組織自体も以前からあったわけですね。その活動が9・11以前と9・11以降でまったく変わってしまったのでしょうか。‐‐‐


ワイズナー    9・11後、大きな変化がありました。NSAは外国に対する諜報機関として設立され、その技術を本国においてアメリカ人に対して利用することはできないと考えられていました。しかし1970年代、NSAやCIA、FBIが、国内で大規模な監視活動を行なっていたことが発覚しました。市民運動のリーダー、女性運動、黒人の学生団体、反戦活動家などが対象でした。これは大スキャンダルとなりました。その結果、NSAがアメリカ国内で監視を行うことは、法律で厳しく制限されました。

   アメリカ国内での監視について言えば、NSAはこれまでも長きにわたって、あらゆる情報を収集してきました。その理由はテロリズムではありませんでした。長期にわたり正当化事由は冷戦といういわば外部の脅威でした。照準を定めた核兵器が世界中に配備されているという事態が例外的な監視権限を正当化していたのです。冷戦後9・11が起こると、突然、テロ対策が巨大な予算のための新たな正当化事由となりました。確かに脅威が存在しないわけではありません。しかしスノーデン氏が指摘する通り、テロリストによって殺される確率よりバスタブで溺れる確率の方が高いのです。テロの脅威は、政府が毎年800億ドルを費やして対策すべきほどの脅威なのか、改めて考えるべきです。

   情報当局 にとってはテロの危険は大きければ大きいほど良いわけですが、私はこれを〝脅威という燃料〟と呼んでいます。諜報機関という装置が自らの存在を正当化するために必要とする燃料です。



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 「私のような一般人は、アメリカの情報機関がメタデータとして私の情報を保管していたとしても、特に問題ではない」と、私も思っています。
 が、世の中がすっかり変わってしまったとき、果たしてそのように思っていられるかどうか、不安です。

  

「国会」閉会中審査の件。


 昨日、今日と、閉会中審査を観ました、聞きました。

 昨日は出掛ける用があったため、聞いたのは(ラジオで)自民党議員の質問部分だけでしたが、今日はたっぷりの時間があったので、午前午後と観て聞きました(Ihoneで)。


 まず、面白いと感じたのが、公明党議員と日本維新の会議員の質問の姿勢です。

 安倍晋三に対する質問の中身が、微妙でした。微妙な距離感を感じました。安倍内閣と一緒に沈むことを避けている印象を受けました。

 政治家というものの、計算高さを見せつけられた印象でした。


 そして、安倍晋三の答弁です。

 私は、安倍晋三という人物を、まったく評価していません。

 首相の器ではないと思っていますし、政治家としても、その姿勢を評価できないと思っています。

 こんな人間に日本の将来を任せては、日本が危うくなると思っています。

 それでも、今回問題になっている「加計問題」は、周りの人間たちが「忖度」して進めてきたことで、本人は知らないうちに事が運んでしまったのだろうと、お目出度くも思っていました。

 でも、今回の閉会中審査を観て聞いて、私の勘違いだったことに気付かされました。

 これは、本人が中心となって進めてきたことだったと感じました。

 だから、嘘で固めた答弁しかできないのです。


 稲田防衛大臣も、山本地方創生大臣も、安倍晋三も、「嘘つき」です。

 

 これでは、子どもたちが可愛そうです。

 大人は平然と嘘をつくものと思って育ってしまいます。


 どうしようもない「嘘」はあります。

 でも、それは、子どもにも理由が分かります。

 

 稲田防衛大臣、山本地方創生大臣、安倍晋三の「嘘」は、子どもに理由が理解できない「嘘」です。


 こんな「嘘つき」たちを、国会に置いておくことはできません。


 たくさんの人たちに、気付いてほしいと思います。



蜂の巣。


 数週間前から、我が家の軒先で、ハチが巣を作り始めました。


 蜂の巣 1.jpg


 せっせせっせと働き続けるハチの姿を見ていると、追い払うことが出来なくて、そっと見守ることにしました。

 

 そして、1週間ほど経った頃でしょうか、蜂の巣のかたちが妙です。

 

 穴が縦に長いです。

 

 蜂の巣 2.jpg


 そしてまた、1週間くらいは経ったでしょうか、穴の口を白いもので塞ぎ始めています。


 蜂の巣 3.jpg


 巣の中の子どもたちが巣立つとき、どのようなことになるのかを考えると少々不安ではありますが、このまま見守ることにします。

スノーデン 日本への警告   集英社新書  ②


第1章  スノーデン  日本への警告 ( の続き )


スノーデン --- 現代のインターネット・コミュニティにおいては、我々の社会が何世代にもわたって享受してきた法的保護や人権保護が新たな方法により崩壊しつつあるということをひとりの技術者として感じています。秘密を守ることが難しいというこの問題は世界中で起きています。---


--- 法律を改正しても数学を変えることはできません。暗号化といった技術は、適切に用いられればすべての人を平等に保護します。しかし、私は技術的な軍拡競争を提唱したいわけではありません。テクノロジーの専門家たちのコミュニティはこの競争に勝てる可能性があるとは思いますが、そのような競争は望ましいものではありません。技術による人権保障は、最終手段だと考えています。むしろ政治的な状況や、私たち自身の無関心と知識の欠如がもたらす脅威に目を向ける必要があります。

 このテーマは現在の日本にとっても極めて重要な問題です。ここ数年の日本を見ると、残念ながら市民が政府を監督する力が低下しつつあるといわざるを得ません。2013年には、政府がほとんどフリーハンドで情報を機密とできる特定秘密保護法が、多数の反対にもかかわらず制定されてしまいました。---

 

 さらに監視の問題に限らず、日本でも少しずつ全体主義が拡大していると言えます。全体主義は軍国主義と同じではありません。確かに、軍国主義というのは日本で台頭しつつある新しい全体主義の最もわかりやすい形かもしれません。しかしこれらは異なります。

 より便利であるという理由だけで、政府の求めに応じて無制限の権力を与えることは大変危険なことです。民衆が政策に反対しているのに、政府が民意を無視することを何とも思っていない時にはとりわけ危険です。ここで私が問題にしているのは、日本国憲法九条の解釈のことです。

 安倍政権にとって、憲法を改正したいのであればそれもひとつの政策でしょう。しかし、改正をしたいのであれば手続きを踏む必要があります。安倍政権はその手続きを踏むべきでした。有権者の3分の2が、日本をより軍国主義的にするような憲法九条の削除、改正、そして再解釈に反対しているにもかかわらず、安倍政権は、憲法改正という正攻法ではなく、裏口入学のような法律解釈を行ってしまいました。これは世論、さらには政府に対する憲法の制約を意図的に破壊したといえます。

 もちろん私は、日本にとって何が正しいかということを言う立場にはありません。でもこれだけは言えるでしょう。政府が、「世論は関係ない」、「3分の2の国民が政策に反対しても関係がない」、「国民の支持がなくてもどうでもいい」と言い始めているのは、大変危険です。

 このような時こそ、ジャーナリストは政府が何をしているかを把握しなければなりません。にもかかわらず、すべての情報が特定秘密として閉じられてしまう。これは非常に危険です。こうした問題に関しては公共での議論が必要です。また、メディアも連帯を確保して、政府の政策や活動を批判しないようプレッシャーを掛けてくる政府に対抗する必要があるでしょう。


────   同じく会場からの質問です。「政府の行動を監視していくためには、メディア及び市民社会の連帯が重要であるとおっしゃいました。メディアや市民社会はどうすれば連帯できるのでしょうか。日本に住んでいる私たちに向けてアドバイスをお願いします。」


スノーデン   ‐‐‐  市民社会におけるジャーナリストは、本来は個人としての力量が問われるべきです。日本のメディア組織は連携して、市民社会ひいては日本を守るために、ジャーナリスト業界全体を守ることを核心に捉えるべきです。向こうの会社は打撃を受けるかもしれないが、うちの会社は大丈夫だろうという発想は近視眼的です。そんな考えでは、政府を批判することなど未来永劫できないでしょう。しかも明日には政府の抑圧の対象になってしまうかもしれません。‐‐‐


   メディアは政府のプレリリースを単に繰り返すのではなく、事実や記録を検討して、政府はこう主張するが私たちはこう考えますと発表するべきです。メディアは、記者の経験と判断に基けばこれが本当の真実であり、このことを国民に知ってもらいたいのだと伝えるべきです。‐‐‐



────   ‐‐‐  ジャーナリストでもなく具体的な政治活動にも参加していない普通の人にとって、プライバシーの重要性を理解することは簡単なことではありません。普通の人々からすれば、政府はテロ対策として監視しているのであって、危険な活動に関与していない自分は監視されても問題ないと思ってしまいます。このよう考えを持つ人々に、あなたのメッセージを伝える方法を教えて下さい。


スノーデン     ‐‐‐  自由で公平な社会を維持するためには、安全であるということだけでは足りません。権限を有する人たちが説明責任を果たさなければなりません。さもなければ社会の構造が二層化してしまいます。

   私のような一般人たちは法律を破れば処罰される一方、権力を持った官僚は同じように法を逸脱しても、国家安全保障のためであるなどと言い逃れできてしまいます。拷問をしても、国家安全保障のためであると免責されてしまいます。日本でも、たとえば犯罪と無関係にムスリム・コミュニティや神道関係のグループを監視しても、「監視する必要があった」という言葉のみで、結果について責任を問われなくなってしまいます。

   こういう傾向が続けば、すなわち、法律に反しても政府の関係者であれば免責されるということになれば、自由社会にとって回復できない打撃になるでしょう。坂道を転げ落ちていくように。‐‐‐



────   ‐‐‐  内部通報者の問題です。‐‐‐  あなたは、政府の内部通報者にどのようなメッセージを送りたいと考えていますか。


スノーデン    ‐‐‐   民主的なコントロールを実現するためには、内部通報者を適切に保護する法制度を整備しなくてはなりません。これはアメリカだけの問題ではありません。日本やヨーロッパその他すべての国において適用される国際的な基準が必要です。

   権力者が自らを罰することに積極的になるはずがありません。「これは恥かしい過ちだったね。是非記事にして下さい」 などという政治家はいないでしょう。しかし、市民は政府が違法行為をしていないか知る必要がありますし、政策が法律に違反している場合には責任者が説明責任を果たすよう追求できるようにしなければなりません。

   シンプルなことです。民主主義においては、市民が政府に法律を守れと言えなければならないのです。政府がベールに包まれた舞台裏で政策判断を下す限り、何もわからない市民には発言権がないわけです。もはや市民ではなく召使いです。対等なパートナーではなく、それ以下の存在でしかなくなってしまいます。‐‐‐


--- 市民が反対しているのに政府が意に介さず法律を成立させるような社会では、政府は制御不能となります。あらゆることのコントロールが失われます。人々は政府と対等のパートナーではなくなります。全体主義にならない保証はありません。--- たとえば、電話をする時には常に、政府のデータベースに集められる内容を思い患う社会には住みたくないでしょう。私は自分がしたすべてのことが追跡され、監視される社会には住みたくありません。--- 突き詰めれば、これは選択の問題であり、同意の問題であり、そして参加の問題です。

 人と話して下さい。価値観を共有して下さい。会話をして下さい。議論をして下さい。そして決して恐れないで下さい。リスクを認識すること、それが現実にあると認識することは大事なことです。

 手榴弾の上に身を投げ出しましょうなどと言っているわけではありません。誰もそんなことしたくありません。殉教者など必要ありません。

 けれども行動を怖がらないで下さい。過ちを見つけたならば、すぐに行動に移して下さい。既定路線になる前に動いて下さい。よく考えて下さい。受け身にならないで下さい。そして最後にこのことを忘れないで下さい。自由を享受できる社会は市民が主役になって初めて実現されるということを。---



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 第1部は終わりです。


 「 --- 過ちを見つけたならば、すぐに行動に移して下さい。既定路線になる前に動いて下さい。--- 自由を享受できる社会は市民が主役になって初めて実現される--- 」


 そうありたいです。



スノーデン 日本への警告   集英社新書  ①


 この本は、2016年6月4日に、東京大学本郷キャンパスで行われたシンポジウムの内容を書籍化したものです。

 第1章は、日本の会場から金昌浩さんが質問して、ロシアからスノーデンさんが答えるというかたちのインタビューです。

 第2章は、「信教の自由・プライバシーと監視社会 ── テロ対策を改めて考える ─── 」というテーマで行われた4人のパネリストによる討論です。


 私は、スノーデン・リークが世界に何を起こしたのか、何を起こさせたのかを知りませんでした。

 ということが、この本を読んでよく分かりました。


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第1章  スノーデン 日本への警告

                        2016年6月4日  聞き手=金昌浩


─── --- これから国家のナショナル・セキュリティとプライバシーについてのエキサイティングな議論に入る前に、あなたの生い立ちとキャリア、どのような経緯でインテリジェンス・コミュニティにかかわるようになったのかを説明していただけますか。


スノーデン --- 父親は30年間、軍隊の仕事をしていました。母親は今もアメリカの裁判所で働います。祖父は海軍提督でした。今やお尋ね者として世界中から追いかけられている身としては皮肉な家庭環境です。このような生い立ちでしたので、自分も最初から政府にかかわる仕事を見つけようと考えていました。国民の多くがイラク戦争に反対していた時も、私は戦争を支持していました。当時は政府を疑うなどということは思いもよらないことでした。アメリカという国に貢献するのだということを生まれながらに強く信じていました。私は自分の国の助けになりたいと思っていたのです。

 政府に入りまして、はじめは軍部に、続いてインテリジェンス・コミュニティに所属しました。インテリジェンス・コミュニティでは最初はCIA(アメリカ中央情報局:Central Intelligence Agency)に所属してイラクに対するスパイ活動に従事しました。その後、NSA(国家安全保障局:National Security Agency)に所属し、インターネットの電子通信や電話を盗聴する活動などに従事するようになって、次第に大きな権限を持つようになりました。

 権限が拡大するなかで、国に貢献するとは一体どういうことなのだろと疑念を持ち始めました。トップ・シークレットとされる情報にアクセスできるようになり、政府が公表する内容とかけ離れた活動に従事していることに気付くようになったのです。政府は国が定めた法律に反しているのではないかと。国が掲げる価値観と正反対の活動がなされていることに気付いたのです。これで悩みました。そして国民の義務とは何か、民主主義とは何を意味するのかを考えるようになったのです。-------------------


 私は、私たちが内実を知り理解する政府こそが良い政府であると強く信じています。とはいえ政府はあらゆる情報を公開するべきだと言っているわけではありません。マフィアのボスややくざの親分、テロリストに関する捜査情報を公表するべきだなどと言っているわけではありません。

 しかし、オープンで自由な民主主義社会において、市民が政府と対等の当事者として社会に関与し、公的・私的・政治的問わず何らかの役割を果たすためには、政府が求める権限の概要と外延は少なくとも知らされなければなりません。

 政府の中にこのことに反対の人がいるならば、それがトップの安倍首相でああれ、自衛隊や防衛相の事務方であれ、地方自治体の職員であれ、協力企業の職員であれ、社会福祉法人の職員であれ、この民主主義の原則を信じていない人がいるならば、そこから政府の腐敗は始まるのです。2013年のリークが投げかけたテーマは監視だけではないと考えています。問われているのは民主主義の問題です。-----------------


 少し長い回答になってしまいました。元々私はスパイでした。直接政府の下でスパイをしておりました。でも今は公のために働いています。


スノーデン  アメリカでは、憲法修正第4条により、私人間の通信や、家宅捜索、物品の捜索・差押は、裁判所が発行した個別の令状がない限り許されないとされています。すなわち、政府が捜索・差押を行うためには、ある人が犯罪者であるという疑いをもっていて、その人がたとえば殺人者や放火犯であるかを調査するためプライバシーの権利を奪わなければならないことを裁判所に説明する必要があるということです。

   しかし、犯罪にかかわったという疑いのない人や一切の悪事に関与していない人に関しては、推定無罪の原則が適用されます。つまり、誰の権利も侵害しておらず、誰にも危害を与えていない市民は、国に詮索されない権利を有するということです。

   こうした権利が侵害されたのです。それこそが私が目撃したものです。9・11の同時多発テロをきっかけとして、少なくともアメリカにおいて、また多くの英語圏の国家において、監視政策の大転換がおきたのです。罪を犯したという疑いがある人だけではなく、あらゆる場所であらゆる人を監視対象とするようになったのです。これが可能になったのは、テクノロジーの進化によって監視が安く、簡単にできるようになったからです。また、恐怖が蔓延する雰囲気の中で、監視に対する政治的な抑制も働きませんでした。‐‐‐


───   メタデータの収集について伺います。一部の政府の関係者は、通信の中身は見ていないのだ、メタデータしか見ていなくて中身は見ていないのだと主張しています。政府関係者のこうした発言に関しては、どうお考えですか。

 

スノーデン    ‐‐‐  あなたが、アドレスバーに入力したすべての事項はメタデータであり、携帯電話会社に保管されています。 ‐‐‐ あなたがどういうニュースを読んだのかということも記録が残ります。あなたがどの政党に接触したのか、どの政党を組織しているのかということもわかります。信じている宗教や、愛する人、気にかけている人は誰かということもわかります。あなたが、誰とどのくらいの頻度で、接触したかということもわかります。

   こうした情報を総合すると、かつての私のようなインテリジェンスアナリストが、〝生活のパターン”と呼んでいたものになります。NSAの仕事というのは個人の〝生活のパターン”をつかむことでした。‐‐‐  すべての記録は自動的に収集され、傍受され、保管されているのです。

    アメリカ政府は、容疑を抱いた相手がアメリカ人でない場合には、裁判所の令状を得ずに監視できます。つまり、日本人やフランス人やドイツ人などの外国人に関するものであれば、フェイスブックやグーグル、アップルが保有する情報を裁判所の令状なしに得ることができたのです。


    しかし今、このような状況が変わりつつあります。監視の実態が公になって、市民は、こうした取り扱いが本当に適切なのか、また、果たして必要なのかを問い直そうとしています。政府は、私人とは比べ物にならない権力を有しています。人々を刑務所に入れることもできますし、生命を絶ってしまうこともできます。また、多くの場合には戦争を始める権限をもっています。

   しかし、合法的な政府はそのような権力を例外的な場合にしか使わないとされています。また、権力は本当に使うことが必要な場合に、脅威を軽減させるために必要な範囲でしか使ってはならないと想定されています。政府の目的達成のために最も侵害的でない手法を用いるものと想定されているわけです。

   こうした伝統的な考え方が、この10年程で変わってきました。そうした方向に進んだのはアメリカが最初でした。アメリカが最も技術的に進んでいましたからね。‐‐‐  他方で、アメリカではこうした活動を制限しようという流れになっています。みなさまに考えていただきたいのは、日本はどうなのかということです。



──   ‐‐‐    あなたは2009年に日本に来られてデルの従業員として横田基地で仕事をしておられましたよね。アメリカと日本との監視活動に関する協力関係はどのようなものなのでしょうか。


スノーデン    私は機密情報を私の手で一方的に外部に公表したことはありません。公表する情報に自分自身の政治的な信条の影響が及ばないようにするために、常にジャーナリストを通じて公表してきました。‐‐‐  このインタビューにはジャーナリストを関与させていませんから、この質問に答えるにあたり現在公開されている情報以上のものをここで提供することはできません。しかし、すでに知られている情報をもとに申し上げたいことは、アメリカと日本が、ほかの国々と同様に、インテリジェンス情報を交換する関係にあるということです。

 「ニューヨークタイムズ紙」とProPublicaが公表した記事によって、アメリカ政府がAT&Tなどの通信社を経由して実施するマス・サーベイランスの方法が明らかにされています。記事によると、フェアビュー(FAIRVIEW)というプログラムに基づいて、たとえば、ヨーロッパとイギリス、あるいはヨーロッパとアメリカといった国同士・大陸同士が、光ファイバーによってつなげられています。みなさんのインターネットのコミュニケーションは、海底ケーブルを使って伝達されていますが、ここを経由したほとんどの情報は最終的にはアメリカを通ることになります。アメリカの通信事業会社はこうした情報に関して、NSAに対し収集・利用などのあらゆる権限を与える無制限のアクセスを許可しています。通信事業者は、データを無許可でコピーし、監視目的で使用しているわけです。

 ここで重要なことは、この問題が合法かどうかではありません。一部の捜査活動は完全に合法です。けれども非道徳的な活動です。つまり政府は合法的に非道徳的な活動に従事することができるのです。---

 日本も、こういった国際的な光ファイバーをアメリカと共有しています。日本側の通信は、NTTコミュニケーションズなどによって管理されています。アメリカの通信会社はアメリカを経由する通信を傍受しNSAに提供しているわけですが、日本の通信事業者も日本を経由する通信については同じように傍受することができます。では日本の通信会社もこうした情報を政府と共有しているのでしょうか。私にはわかりません。---


 ただ横田基地という、アメリカと日本の情報機関の橋渡しをする施設で働いた経験から申し上げると、アメリカの情報機関は、常時、日本の情報機関とアメリカにおける情報を交換していますし、日本もしばしばアメリカに対して日本に関する情報を交換しています。政府同士が、潜在的なテロの脅威や軍事上の脅威、敵対的な行動の兆候や警報といった情報を交換することは、正常かつ適切なことです。--- NSAにとってイギリス側のパートナーともいうべきGCHQ(政府通信本部:Governmento Communications Headquarters)は、非合法の情報交換を7年以上にわたりアメリカと行っていたことが明らかになっています。新聞で報道されるまでこうした活動の存在は明らかにされておらず、裁判所の介入もこの間一切ありませんでした。--- GCHQは調査報道型ジャーナリストを国防上の脅威としてリストアップしていたのです。GCHQはジャーナリストについて、民主主義社会にとってテロリストよりも脅威ではないがハッカーよりも危険であるという、正しいとは思えない認識を持っているのです。---

 社会で最も凶悪な人間を弁護することができなければ、社会で最も弱い立場にある者を弁護することもできません。なぜなら、批判されている人や、脅迫を受けている人こそ、最も弁護することが困難な存在だからです。この権利は殺人犯にも保障されます。殺人犯に対しても公正な裁判を受ける権利が与えられます。そうして初めて、すべての人にとって公平な司法システムを実現することが可能になります。---




───────────────────────────────────────────────────────────────────────


 

 知ることのなかった話が続きます。


 一度、ここで切ります。


 



「天皇機関説」事件  山崎雅弘著  集英社新書 ⑧


第5章  「天皇機関説」の排撃で失われたもの ( の続き )

 

 1930年代後半の日本国内で、大きな思想運動となった国体明徴運動は、日本国民の思想を、政府の提示する「正しい通」へと統一することを実質的な目的としていました。そこでは、天皇機関説の憲法解釈は完全に否定され、一人一人の人間が生まれながらに個人としてそれぞれ固有の存在価値と権利を持つという人権尊重の考え方(天賦人権説)も「西洋式の発想であって日本には馴染まない」として認められませんでした。---


 天皇機関説の排撃に熱心だった神道思想家として、すでに何度か本書に登場した今泉定助は、『天皇機関説を排撃す』の中で、天皇機関説の背景には美濃部の西欧的な個人主義と自由主義の思想が存在していると指摘した上で次のような言い回しで、このふたつを「日本の国体に合わない思想」だと全否定していました。

 「美濃部氏の根本思想は、第一が独立なる個人が単位であって、その個人が相互に精神的または物質的な交渉を有する生活を、社会生活だとする個人主義思想、第二は人間の意志は本来無制限に自由なもので、法によって規律されるとする自由主義思想である。

 この個人主義と自由主義とが、一切の誤謬思想の根源であり、根本的な誤謬である」---


 つまり、美濃部と天皇機関説に尋常でないほどの敵意と憎しみを抱いた「排撃派」の目に映っていたのは、美濃部達吉という個人や、彼の語る憲法学説だけでなく、その背景にある「個人主義と自由主義の思想」でもあったのです。

 このふたつの思想は、蓑田胸喜らがとりわけ強い敵意を剥き出しにした、共産主義の革命思想と同様、すべての国民が天皇を中心として有機体のような国家を形成し、必要ならば喜んで犠牲になるという「国体」の前提を、根本から揺るがしかねないものでした。---



‐‐‐  美濃部は、‐‐‐  当時の日本が陥りつつあった「国家主義への過度な傾倒」についても、次のような言葉で警告を発していました。

    「国策としての国家主義は、その最も極端なかたちにおいては、国家を単に戦闘団体としてのみ観察し、国防すなわち国家の戦闘力を強くすることが、国家の唯一の目的であるとし、国家のすべての編制および活動をして、ひとえにこの目的を達するための手段にしようとするところにある。

    こういう考え方の下においては、国民は単に国家の戦闘力を構成する手段に留まる」‐‐‐



    天皇機関説排撃の流れから生じた国体明徴運動は、実質的には美濃部の指摘した「過度の国家主義」をますます隆盛させるものでしたが、その一方で、論者によって「国体」の定義が違っているなど、多少の混乱も生じていました。

   そこで、文部省は1937年3月30日、国体とは何かについての政府の公式見解をまとめた国民教育用の教材を刊行し、全国の学校などに配布しました(5月31日には内閣印刷局が同書の市販本を刊行)。

   それが『国体の本義』と題された書物です。‐‐‐


   「 天皇は統治権の主体であらせられるのであって、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関にすぎないという説のごときは、西洋国家学説の無批判的の踏襲という以外には何らの根拠はない」‐‐‐


   「なお、帝国憲法の他の規定は、すべからくのごとき御本質(西欧的な君主や元首を超越した現人神)を有せられる天皇御統治の準則(規則)である。なかんずく、その政体法の根本原則は、中世以降のごとき御委任の政治ではなく、あるいは英国流の『君臨すれども統治せず』でもなく、または君民共治でもなく、三権分立主義でも、法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である」‐‐‐



   文部省の『国体の本義』が刊行されてから4か月後の1937年7月7日、中国の北京近郊で盧溝橋事件が発生し、8年にわたる日中戦争が勃発します。

   それから4年後の1941年7月21日、文部省の教学局は『臣民の道』という新たな国民教育用の教材を出版しました。‐‐‐

   「およそ国防は国家の存立上必須の要件である。国防のなき国家のごときは空想の世界のことに属する。国防が完全か否かは、実に国家存亡の分かれるところであり、これを忘れて国家の生成発展は到底望むべくもない。されば新体制確立の具体的目標は、高度国防国家体制の整備にあり、国家総力戦体制の強化にある。」‐‐‐

    「皇国臣民は、国体の本義に徹することが第一の要件である。人は孤立した個人でもなければ、普遍的な世界人でもなく、まさしく具体的な歴史人であり、国民である。従って、我らの中では、人倫すなわち人の実践すべき道は、抽象的な人道や観念的な規範ではなく、具体的な歴史の上に展開される皇国の道である」‐‐‐



   以上のように、天皇機関説事件と国体明徴運動は、美濃部の憲法学説(天皇機関説)だけでなく、美濃部が価値を認めていた個人主義と自由主義をも「西欧由来の思想で日本の国体に合わない」として、日本社会から実質的に抹殺するものでした。‐‐‐


   ここまで書き記してきた歴史的な経過が示す通り、天皇機関説事件は1935年10月に一応の収束を見たものの、その政治的・社会的影響は、10年後の1945年8月の敗戦まで、さまざまなかたちで尾を引いていたと言えます。

    天皇機関説の排撃により、日本における立憲主義は実質的にその機能を停止し、歯止めを失った権力の暴走が、日本を新たな戦争へと引きずり込むこととなりました。‐‐‐


‐‐‐  天皇機関説事件と国体明徴運動が生み出した深刻な問題は、「国体」という概念が持つ政治的支配力を、際限なく膨張させる風潮の出現でした。

    国体思想は本来、神の子孫で、なおかつ現人神でもある天皇の意向を絶対的に尊重する「天皇大権至上主義」のはずでした。ところが、実際には天皇の意に沿わないことでも、「国体」という大義を前面に押し立てれば、軍部を含む政府は自分たちの行動を正当化でき、国民にもそれを押し付けることが可能でした。‐‐‐



   国体思想と天皇機関説が「共存」できた時代、つまり天皇機関説事件が起きる前の日本では、物事を観察したり評価する際、主観と客観の両立が認められていました。‐‐‐  日本にとって大きな不幸だったのは、そんな「主観だけが極端に肥大した思想的環境」の中で、太平洋戦争という大きな戦争を始めたことでした。‐‐‐ 軍隊は医学や科学と同様、徹底した合理的思考が求められる世界です。その軍隊教育の中核に、このような主観的な「信仰」あるいは事実上の「宗教」とも言うべき観念論を置いていた事実は、太平洋戦争で日本軍がくり返した数々の「非合理的な行動」を生み出した背景をも、雄弁に物語っていると言えます。‐‐‐



    1935年に天皇機関説の排撃が盛んに行われていた時、中心的な役割を果たした貴族院議員や在郷軍人、右翼活動家誰一人として、それからわずか10年後の1945年に、日本が戦争に敗れて独立国としての主権を失うことを予想していませんでした。

    そして、ある意味では「天皇機関説事件の仕掛け人」とも言える蓑田胸喜が、失意のうちに首を吊って自らの命を絶ったのは、日本がその永い歴史上初めて「 国の主権」を他国に奪われてから5か月後の、1946年1月30日のことでした。




──────────────────────────────────────────────────────────────────────────


   終わりました。


   読み終わった後の、気持ちが釈然としない状態が今も続いています。


   学者 、軍人、政治家、右翼活動家、、、、、、、「権力」に近寄ろうとする野心家たちが、身勝手な自分の都合だけに従って発言し行動する。


   これって、今の日本でも、アフガニスタンでも、シリアでも、ロシアでも、中国でも、起きていることと変わりませんね。


   それを想うと、簡単には気持ちを整理することができません。


  「 歴史から学んで、失敗は繰り返さない」と、言うのは簡単ですが、現状はどうでしょう?


   それでも、私は、諦めないことにします。


   繋がることの「強さ」を知った現代の私たちです。


   繋がる「強さ」を、見せようではありませんか。


   そう、考えます。

「天皇機関説」事件  山崎雅弘著  集英社新書 ⑦


第5章 「天皇機関説」の排撃で失われたもの


   9月18日に貴族院議員を辞任したあと、美濃部は帝国学士院会員として、学術書の編纂などに関わりましたが、政界からは完全に身を退き、彼の著作と憲法学説は、日本の憲法学の学会から事実上追放されたかたちとなりました。

   天皇は、この4か月前の5月3日に鈴木貫太郎侍従長に対し、「今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることは、すこぶる惜しいもんだ」と述べていましたが、事あるごとに「天皇」の名を持ち出して「美濃部は不敬だ」「国体への反逆者だ」「学匪だ」と口汚く罵倒していた在郷軍人や右翼団体の運動家は、そんな天皇の美濃部に対する思いやりなど、まったく想像もしていませんでした。

   そして、美濃部への攻撃で始まった天皇機関説事件は、より広範囲にわたる思想統一を目指す国体明徴運動へとかたちを変え、引き続き岡田内閣への圧迫を強めていきました。‐‐‐


   文部省と司法省、内務省からの報告を受けて、10月1日の閣議では、各省の今後の処置について、さらに具体的な指示を与える「国体明徴のため執りたる処置概要」が満場一致で承認されました。

   その中で、文部省は憲法講義の担当教授がどんな学説に拠っているのか、著書や講義内容、論文などを詳細に調査して確認し、必要と認められれば思想内容の調査も行うことが認められました。

   言い換えれば、天皇機関説に少しでも理解を示すような教授は、国家に反逆する思想の持ち主であるとされ、政府の監視下に置かれることとなりました。‐‐‐



   約1週間にわたる緊迫した協議ののち、国体明徴に関する2番目の政府声明は、次のような内容にまとまり、同年10月15日の午後4時半に発表されました。‐‐‐ この第2次国体明徴声明により、天皇機関説は名実共に、学説としての息の根を止められたかたちとなりました。そして、この声明は、国家法人説を排撃対象から外すのと引き換えに、岡田内閣がなんとか避けようとした「政府が特定の憲法学説に違法の判決を下すようなかたち」、つまり憲法学説の国定という措置を認めるものとなってしまいました。‐‐‐


   しかし、10月15日に発表された第2次国体明徴声明を機に、それまで美濃部や天皇機関説を「共通の敵」と見なして連携していた現役軍人と、 在郷軍人およびそれにつながる右翼団体各派の間に、足並みの乱れが生じ始めます。

   その背景には、倒閣という次なる政治目標に対する、両者の認識の違いがありました。

   在郷軍人とそれにつながる右翼団体は、美濃部と機関説に対する大勝利に乗って、このまま岡田内閣を打倒し、一木と金森も現在の職から放逐したいと考えていました。‐‐‐


   一方、川島陸軍相と大角海軍相は、これ以上軍が政治運動に深入りすることは、逆に国民の不信を招く可能性が高いと考え、自らも閣僚として参画する岡田内閣を打倒するまで攻撃を続けるのは、やりすぎだと理解していました。‐‐‐


   つまり、現役軍人と在郷軍人は、共にエキスパートでしたが、攻撃停止のタイミングあるいは「退き際」の見極めに関して、完全に意見が割れていたのです。‐‐‐


   また、現役の陸軍内部においても、依然として皇道派と統制派の対立は続いていましたが、在郷軍人や右翼団体と同様、重臣グループを敵視する皇道派の軍人は、矛を収めて収束する方向に転じた陸軍指導部の方針に不満を募らせていました。‐‐‐


   2月21日、吉祥寺の自宅にいた美濃部を、 元教え子と名乗る人物が面会に訪れました。2人は、応接間で2時間ほど会話しましたが、美濃部が機関説について自説を変えていないことを知ると、男は「天誅  逆美濃部達吉」で始まる書面を見せ、身の危険を感じて戸外に逃げた美濃部に、背後からピストルを発砲しました。

   弾丸は、美濃部の太腿を貫通しましたが、命には別状なく、犯人は美濃部邸を警備していた警官に取り押さえられました。‐‐‐


   美濃部が暴漢に襲われた4日後の1936年2月25日、永田鉄山を斬殺した相沢中佐を裁く第10回公判が開かれ、真崎甚三郎大将も証人として出廷しましたが、その翌日の2月26日、帝都(帝国の首都)東京で新たな大事件が発生します。

   皇道派の若手将校とその部下約1500人が、東京の政治の中枢を占拠し、天皇親政への体制変更(昭和維新)を求めるクーデターを決行したのです。

   のちに「二・二六事件」と呼ばれることになる、この決起に参加した皇道派将校は、岡田啓介首相と斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長ら政府首脳と、教育総監の渡辺錠太郎、三井・三菱両財閥の当主などを殺害して、天皇の周りにいる「 君側の奸(君主=天皇を利用して悪政をもたらしたり私益を求める邪悪な側近)」を取り除くことを目的のひとつとしていました。

   彼らが岡田首相を憎んだ理由は、天皇機関説事件の際、美濃部らを弾圧する手法が手ぬるかったというもので、斎藤内大臣は汚職(帝銀事件)の疑惑、高橋蔵相は軍事予算の緊縮を図ったことにより、それぞれ皇道派軍人の不信と恨みを買っていまし。‐‐‐


   行動初日、決起の将校たちは部下の下士官兵を率いて各地で襲撃を行い、高橋是清と斎藤実、渡辺錠太郎らを次々と惨殺しました。‐‐‐ 


   しかし、事態は彼らの思惑通りには進展しませんでした。

   天皇は、一部の陸軍将校が自分の命令もなく、勝手に東京の中心部を支配下に置いた上、斎藤や高橋など自分が信頼していた重臣を冷酷に殺したことを知って激怒し、すぐに鎮圧せよと命令したのです。‐‐‐


   決起将校が「天皇親政」を目標に掲げていたにもかかわらず、その天皇の好意を得られず、逆に「反乱を起こした逆賊」として討伐の対象となってしまう。この皮肉な展開を見た陸軍上層部の皇道派は、もはや決起将校に同情的な態度をとれなくなりました。‐‐‐


   二・ニ六事件は、一般的には北一輝や西田税(共にニ・二六事件の裁判で死刑)などの国粋主義(右翼)の理論家から思想的な影響を受けた若手将校の「暴発」として説明されることが多い出来事です。けれども、このクーデター未遂事件は、天皇機関説事件と国体明徴運動につながる一連の流れに位置するもので、当時の日本陸軍という組織が内包していた問題点や歪みを、凄まじい勢いで噴出させた現象に他なりませんでした。‐‐‐



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 二・二六事件は、そういう流れの中で起きた事件だったのですね。
 第5章も長いので、ここで一度切ります。



    



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