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それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ⑤

3章  第1次世界大戦  日本が抱いた主観的な挫折

--- この戦争は、セルビア、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国とオーストリア、ドイツ、トルコなどの同盟国が戦った世界規模の戦争で、開戦は1914(大正3)年7月28日。ドイツが休戦協定を受け入れ、戦争が終結したのは1918年11月11日のことでした。---

 まずは戦死者と戦傷者の数を、世界と日本の場合とでくらべてみましょう。世界全体で戦死者が約1千万人、戦傷者が約2千万人出ましたが、日本の場合は青島攻略戦での戦死傷者が1250人とだけ記録されています。ものすごく違っていますね。---

 ですから、この戦争でなにが変わったかという点について、世界の場合と日本の場合とで分けて考えてみましょう。まず、世界という点では、ヨーロッパで長い伝統を持っていた三つの王朝が崩壊してしまった。これが最も大きな変化といえます。一つ目がロシア。連合国の一員であったロシアでは、長引く戦争の混乱から国内に革命が起きてロマノフ王朝が崩壊します。--- 二つ目がドイツ。--- 18年11月、国内で労働者による武装蜂起が起き、皇帝だったヴィルヘルム2世が逃亡した結果、ホーエンツォレルン朝が崩壊します。三つ目がオーストリア。--- 敗戦によってハプスブルク帝国が亡くなります。---

  日本においては、天皇を中心とした立憲君主制による統治はゆるぎませんでした。けれども、幼少期にかかった病気の影響から元来病弱であった大正天皇の病状のさらなる悪化や、シベリア出兵(ロシアがドイツと単独に講和条約を結び、連合国を離脱したことで、戦線の崩壊を怖れた連合国側がロシアの内戦に干渉戦争をしかけたもの。日本は最も積極的に参加)が噂されるなかで起きた米価高騰に対し各地で起きた米騒動の状況を見て、元老・山県有朋が原敬を首相にする決意をしたことは最も大きな変化でした。これまで首相を天皇に推薦する際、最も力を持っていた山県は、政党内閣の誕生に反対していました。しかし、内外の状況の悪化を見て、原を首相とし政友会を与党とする政党内閣を誕生させることもやむをえない、と考えるようになったのです。---

--- あまりに犠牲の多かった戦争だったので、戦争が二度と起こらないような国際協調の仕組みをつくろうということで、1920年、国際連盟が設立されました。---

 戦争の影響の二つ目は、帝国主義の時代にはあたりまえだった植民地というものに対して批判的な考え方が生まれたことです。植民地獲得競争が大戦の原因の一つとなったとの深い反省からです。--- 旧ドイツ領植民地を連合国側が処分するににあたっては、国際連盟がそれぞれの連合国に対して、その地域の統治を委任するというかたちをとることにしました。事実、日本がこの戦争で獲得した赤道以北の旧ドイツ領の南洋諸島などは、委任統治権を日本に与えるというかたちがとられました。---

 日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島を、日露戦争で関東州(旅順・大連の租借地)と中東鉄道南支線(長春・旅順間)、その他の付属の炭鉱、沿線の土地を獲得し、さらに日露戦争の5年後の1910(明治43)年に韓国を併合しました。そして、第一次世界大戦では、山東半島の旧ドイツ権益と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を得たのです。あいかわらず着々とした獲得ぶりです。---

--- 欧米の帝国主義国であるイギリス、フランス、ロシアのケースを考えてみましょう。他の帝国主義国はどのような理由で植民地を拡大することが多かったのか。--- 海外の植民地を、国内の過剰人口のはけ口として、また国内の失業問題の解決策として用いるといった発想で、社会政策的な理由から植民地の獲得がなされる場合です。ビスマルクやヴィルヘルム2世時代のドイツなどがこのような政策をとりました。このような例にくらべると、日本の場合は、貿易のため布教のため社会政策のためというよりは、第一には安全保障上の考慮というものが大きく働いていたといえそうですね。このような発想で植民地を支配していた日本という国は、ピーティー先生のいうとおり、確かに珍しいのかもしれない。---

 実はこの第一次世界大戦から、みなさんが海外に遊びに行ったりするような島々が、列強の国々の念頭に置かれるようになるのです。アメリカはあまり植民地を持たない国だったのですが、1898年の米西戦争という、スペインとの戦争でフィリピンとグアムを獲得します。そしてハワイ、サモアも併合する。日本とアメリカでは、太平洋の反対側の国を恐ろしいと思うかどうかという点で、アメリカのほうが日本よりも早くそう思った可能性がありますね。---

 どうしてこのような怖れが広がったかといえば、その根には、前年の1906年4月18日、サンフランシスコで起こった大地震がありました。サンフランシスコにはチャイナタウン(中国人街)がたくさんあって、大勢の中国人がいました。そして中国からアメリカへ渡った移民たちはアメリカ人労働者より低賃金で喜んで働くという点でアメリカ社会から敵視されていて、差別的な状況下で暮らしていました。大地震が起こったとき、アメリカ人は大きな恐怖に襲われて、チャイナタウンの中国人が襲ってくるのではないかと考えるのです。このような雰囲気のなかで大地震が起こったために、くわしい数値は不明ですが、チャイナタウンの中国人に対する暴行と略奪が起こりました。そして同じ現象が日本でも生じる。1923(大正12)年9月1日に起きた関東大地震の際、中国人や朝鮮人に対する虐殺事件が起きました。その背景には「ふだん虐げられている朝鮮人が日本人を襲ってくるかもしれない」との根拠のない流言がありました。数千人の朝鮮人と約200人の中国人が犠牲になったといいます。アメリカと日本はともに大地震によるウォー・スケアを体験した国だった。

 カリフォルニア州の白人から目れば、中国人も日本人も同じ東洋人です。--- カリフォルニアでは、日本人移民に対して、低賃金で働き、アメリカ社会の一体性を混乱させる者と決めつけ、06年には日本人学童の公立学校への入学拒否、07年には日本人移民を排斥する条項(ハワイ、メキシコ、カナダなど米国本土以外を経由した日本人移民を排斥する条項)を含む連邦移民法も可決されてしまいます。ロシアを打ち負かした好戦的な国家というイメージが、急速にアメリカ社会のなかでふくらんでいったことがわかるでしょう。---

 第一次世界大戦が日本に与えた影響は、おそらく第二次世界大戦の次、もしくは第二次世界大戦と同じくらい大きかった。---

 ヨーロッパは3千万単位の死傷者が出たのに、日本では千人単位。日本の死傷者は非常に少ない。--- ですがこの戦争の結果、日本国内においてはたくさんの「国家改造論」が登場して、とにかく日本は変わらなければ国が亡びる、とまでの危機感を社会に訴える人々や集団がたくさん生まれました。

 なぜ、このような強い危機感が戦後に生まれたのか。---

--- 日本が参戦する1914年8月の状況を、少しくわしく見てゆきましょう。第二次大隈内閣で、外相は加藤高明でした。--- 加藤外相は、幕末維新期から活躍していた政治家とは違い、東京帝国大学法学部を卒業し、まずは三菱に入り、その後に大蔵省を経て外務官僚となった人間です。つまり、明治国家が安定期に入ってからの世代でした。---

 駐英大使を務めたこともある加藤ですから、加藤が「日英同盟協約の予期せる全般の利益を防護する」との名目をドイツに対する最後通牒に書き入れ、ドイツとの戦争に飛び込んでいったとき、人々は、英国病の加藤だから仕方がない、と思ったのです。--- 実は日英同盟の名目で日本が参戦することに、イギリス側がまず反対するのです。---

---  イギリスにとって最も嫌なのは、対中貿易の利益が減ることです。日本が旧ドイツ領を占領するのは嫌ではない。---日本が中国に対してなんらか措置をとることで、中国に擾乱が起こることをイギリスは警戒した。---イギリスは、中国で南北の擾乱が起こることによって、上海・香港を拠点とする中国への貿易額が下がることが、なにより苦痛で心配だったわけです。---

 そしてアメリカも、日本の参戦にあたって、実はうるさいことをいっていたのです。日本がドイツに対して1914年8月23日、宣戦布告を行ったとき、アメリカはこういうことをいう。--- 「日本は戦争するのですか。わかりました。けれども、日本は中国でなにかしようとなどと思わないですね。領土拡張などはしない、とアメリカは考えていますよ」、と日本の行動を縛るコメントをしているわけです。また、--- 中国に内乱や革命などが起きたとき、日本はまずアメリカに相談してねと、こういっている。

 このようなアメリカ側の覚書が二国の政府間だけの秘密であればなんにも問題はなかったのです。しかし、ニューヨークからの特電として日本側の野党に知られてしまう。---

 自主独立、宣戦布告の権利、こうした基本的な日本の主権をアメリカが侵したのではないか、というのが政友会の政府批判でした。---

 野党であった政友会の議論は、むろん、政府を攻撃するための方策として、あえて宣戦布告をめぐる主権への、英米からの干渉と騒ぎ立てた側面はあります。ただ、1914年9月の臨時議会でのこの議論は、のちに、19年のパリ講和会議の際に、英米仏と日本との間で戦われた激論につながってゆくのです。---

 戦争が終わり、1919(大正8)年1月18日からパリ講和会議が始まります。---

 日本が批判をあびたのは山東問題のことです。日本は、1914年8月、「中国に還付するの目的をもって」といいながら開戦したのに、15年5月、21ヵ条要求を袁世凱につきつけて、山東に関する条約というものを無理矢理でっちあげた、と。--- 手紙文からは松岡の苦悩が伝わってくるようです。自分は頑張ってプロパガンダをした。けれど、他の人だって強盗を働いているのだから自分が咎められる筋合いはないという弁明は、「人をして首肯せしめるは疑問」、つまり本当に人を納得させることはできないといっている。---松岡は、日本政府に対してかなり批判的な気持ちを抱きながら、パリ講和会議での自分の職務を任じていたことがわかる。世界を説得できていないことを自覚しつつ報道係を務める。これはなかなかつらいことだったでしょう。---

 日本で一番伝統のある華族に生まれた若き貴公子・近衛は、パリで大いにぼやき、憤慨していました。引用した部分を要約しますと、こうなります。パリ講和会議に出てみると、理想だのなんだのいっても、しょせんは力の支配という鉄則はここでも貫徹しているようだ。内容の立派な人種平等案は、実力不足の日本が提出したがゆえに否決され、内容的に見てあまり感心しないモンロー主義(ヨーロッパの政争などから離れてアメリカ独自の道を追求しようとする考え方)などは、力のあるアメリカが提出したから連盟規約の条文として実現してしまった、と。---

 アメリカ大統領ウィルソンは、大戦が終結する前から、第一次世界大戦後の構想を考えていました。連合国の一員であったロシアが国内の革命のために連合国から脱落し、ロシア革命を率いたボリシェビキのレーニンとトロツキーは、帝政ロシア時代の秘密外交文書などを暴露します。連合国のイギリスやフランスや日本が、いかに帝政ロシアとの間で、戦後の植民地の再分割などについて、えげつない取り決めをしていたのかを暴いてしまったのです。---

 そのような状況を目にしたウィルソンは、連合国の戦争目的をあらたあめて理想化しなければ世界の人々を幻滅させてしまう、あるいはボリシェビキに負けてしまう、との危機感にとらわれます。その結果が、1918年1月の年頭のアメリカ議会において発表された、戦後世界はこうあるべきだとの理想、いわゆる、ウィルソンンの「14ヵ条」でした。その箇条のなかで最も有名なものが、民族自決主義でした。--- ただ、ウィルソンとともにアメリカ外交を担っていたランシング国務長官(日本の外務大臣にあたる職)が、1918年12月30日の日記に「この宣言はダイナマイトを積んでいる。決して実現されない希望を呼び起こす」と書いたように、世界各地の植民地の人々に大きな希望を抱かせることになりました。

 大きな希望を抱いた地域の一つの例が、日本統治下の朝鮮でした。ウィルソンは朝鮮に対して民族自決の原則が適用されるとは考えていませんでした。ランシングの懸念が現実のものとなります。朝鮮独立運動が起こったのです。1910(明治43)年以降、日本の植民地とされた朝鮮では、ウィルソンの意図を拡大解釈することで独立への希望をつなぎます。

 同時期の1919年、高宗という、大韓帝国時代の皇帝だった人物が崩御します。3月3日に予定されたお葬式を外形的なカモフラージュに使いながら、同年の3月1日を期し、数千から1万人以上の人々がソウルで独立運動を起こしたのです。---

 このときのことは、2007年に刊行された、朝鮮軍司令官であった宇都宮太郎という人の日記(『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記』宇都宮太郎関係資料研究会編、岩波書店)に書かれています。---

--- 宇都宮は運動の主導勢力を、天道教徒・キリスト教徒・学生をはじめとする「新進有意」(前途が楽しみな優秀で若い)の朝鮮人であると判断しており、これは研究史的にも正しい判断だと思われます。また、宇都宮は独立運動の要因を、日本が「無理に強行したる併合」に求め、併合後の朝鮮人への有形無形の差別に起因すると率直に書いていました。---

--- しかし、アメリカが欧州の帝国主義国間の抗争に利用されるのを怖れたアメリカ議会はウィルソンの説得に耳を貸そうとはせず、連盟とともに歩もうとするウィルソンを強く批判します。ウィルソンを批判する際にアメリカ議会がとった方法は、アメリカの世論に訴えるということでした。ここで日本と3・1運動が唐突に登場するのです。

 なかなかに煽動的な内容ですよ。議会はこういいます。ウィルソン大統領は、パリ講和会議でヴェルサイユ条約をドイツ側に呑ませるのに必死になっている。しかし、そのヴェルサイユ条約というのは中国を犠牲にして山東半島に対する日本の要求をすべて呑んだ不当な条約なのである。日本は山東半島を植民地と同様に支配するだろう。だが、日本の植民地支配というものは、朝鮮で起こった3・1独立運動によって明らかになったような、非常に苛酷なものである。このような苛酷な植民地支配を中国本土に及ぼそうとしている日本に対し、日本をヴェルサイユ条約調印国とするため、ウィルソンは日本に妥協したのである ─── 。

 このような批判がアメリカ議会でなされていることを知った日本側は、ひどく衝撃を受けました。--- パリ講和会議で日本側が負った衝撃や傷は、1930年代になってから、深く重くジワリと効いてくるのです。

 


 

 その当時の、首相や外交官や国民の気持ちは分かりましたが、だからといって、武力による力の誇示に走るのは思慮に欠けると思います。

 歴史の勉強が、不足していたのでしょうね。

 それは、日本だけでなく、世界の他の国々も含めて。 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ④

2章  日露戦争 朝鮮か満州か、それが問題
 
--- ロシアを相手に戦争をした日本は、この戦争にぎりぎりのところで勝ちました。その結果、日本は、欧米をはじめとする大国に、大使館を置ける国となったのです。当時のような時代では、大国に対して不平等な地位にある国は大使館を置くことはできず、公使館どまりです。--- 日清戦争の結果、アジアからの独立がまずは達成され、日露戦争の結果、西欧からの独立も達成された、ということができるかもしれません。日清戦争が1984年から始まり、日露戦争が1904年から始まったのですから、その間、ちょうど10年ということになります。10年の間に2回の戦争を行って、一つひとつ、独立という目標を達成していったというイメージでしょうか。いかにも真面目ですね。 
 
 さて、アメリカのスタンフォード大学にマーク・ピーティー先生という方がいますが、ピーティー先生は『植民地』という本のなかで、日本の為政者の間には、戦略的な思考とか、安全保障観の一致が広く存在していたと書いています。不平等条約を一つひとつ力で撃破してゆく、そうした方策への、政府の為政者の考え方の一致ということですね。ただ、ここで忘れてはならないことは、山県とシュタイン先生との間で話題となっていた、あの、日本にとっての朝鮮半島の重要性という点です。日清戦争で朝鮮半島の問題は解決したのではなかったか、普通は思いますよね。でも、解決されたのは朝鮮をめぐる中国と日本の関係であって、朝鮮をめぐるロシアと日本の間の問題ではなかったのです。
 
 日露戦争への過程を見ると、再び、朝鮮半島の問題が日本にとって悩ましい、島国としての安全保障観を大きくゆるがす問題となって迫ってくることがわかります。---
 
 日露戦争によって不平等条約の改正などが達成されるわけですが、戦争の結果としていちばん大きいのは、戦争の5年後の1910年(明治43)年、日本が韓国を併合し、植民地としてしまったことです。このことは、島国であった日本が、中国やロシアと直接接する韓半島(朝鮮半島)を国土に編入し、ユーラシア大陸に地続きの土地を持ってしまったことを意味します。---
 
 なお、ここまでのお話で朝鮮と呼称してきましたのは、朝鮮の正式の国号が大朝鮮国であったことから、これを略してこう呼んできたものです。朝鮮は、1897年に国号を大韓帝国と改めます。日清戦後、日露戦争前の時期においては、朝鮮というよりは韓国、朝鮮半島というよりは韓半島というように、当時の日本側でも呼んでいたのです。
 
 日露戦争はどのくらい大きな戦争だったのかということを、まずは確認しておきましょう。データの出典によって、数値はまちまちです。ほぼ1年半の間に、日本側もロシア側も約20万人以上の戦死者を出しました。---
 
 日清戦争後に、ロシア・ドイツ・フランス三国による三国干渉がなされ、日本側は下関条約で獲得した遼東半島を清国に返すという事態になった--- 三国干渉は日本にとってメンツがつぶれたというだけでなく、朝鮮と清、二つの国家が日本に対して、今後どういう態度をとるかという点で、大きな意味を持っていました。
  
 簡単にいえば、「日本は弱いじゃないか。ロシアのいいなりじゃないか」ということですね。朝鮮の朝廷内では、日本側に不満を持っていた勢力が閔妃(明成皇后)のもとに集まるようになります。また、朝鮮政府内にもロシアに接近しようとする親露派が多くなりました。このような転換は、1895年7月、日清戦争が終わって3ヵ月後にはもう起こってくるのですね。実にシビアに転換がなされる。---
 
 ということで、日清戦争の勝利で、朝鮮国内に日本の圧倒的な優位が確立されたかに見えたのは一瞬で、その後に続いた事態は、韓国の、近代国家への模索と、日本とロシアが韓国をめぐって均衡しているという状態です。
 
 日本に対して三国干渉をしてくれたロシアですから、日清戦争後の中国が、ロシアとよい関係に立ったことは予想できますね。このときの中国、つまり、清国ですが、その政治を動かしていたのは李鴻章でした。---
 
 1896年、ロシアの皇帝、ニコライ二世が戴冠式を行います。そこに李鴻章を招いて、どうも賄賂を贈った。その額がははんぱではない。--- 李鴻章の訪露をきっかけに、1896年6月、中国とロシアは「露清防敵相互援助条約」という秘密条約を結びます。内容は、日本が中国、あるいはロシアを攻撃した際には、ロシアと中国が一致して日本にあたるという、れっきとした対日攻守同盟でした。これは世の中に公にされない密約でした。
 
 この条約では、さらに、中国とロシアの間で、黒竜江・吉林省を通ってウラジオストックに通ずる中東鉄道(東清鉄道とも呼ばれます)の敷設権を、ロシアとフランスの銀行に与える条約も締結されました。---
 
--- 中国がロシアと手を組んで、中国とロシアの合弁会社によって中東鉄道とその南支線が敷設されてしまえば、--- 遼東半島の南に凍らない港を持つことができてしまう。つまり、極東の海に海軍を興すことができてしまう。鉄道敷設に関して、中国とロシアの間で96年と98年の二度にわたって結ばれた条約は、日本にとって悪夢を見ているようなものだったに違いありません。---
 
--- 1900年、北清事変が起こってしまう。これは、「扶清滅洋」をスローガンとした排外的な団体である義和団が中国各地で勢力を得て引き起こした農民闘争です。---
 
 ロシアはこの事変をチャンスと見ました。北満州に広がるロシアの権益を義和団から守るのだと称して、黒竜江沿岸地域の一時的占領に着手します。
 
 このあたりから、中国とロシアの協調的な関係は変わってきます。なんだかロシアは怪しいぞ、信用していいのかな、ということになるわけです。--- 中国国内には「ロシアについていていいのだろうか」との反応が生じる。これが中国側の変化です。そしてその翌年、1901年に李鴻章が死ぬのです。
 
 
 ロシアは中国の首都である北京にもたくさんの兵を出していました。ロシアは、列国の連合軍(日本も参加していました)が義和団を鎮圧するまで、自分の権益を守るためだよ、ということを理由に軍隊を出すのです。一方で、1902年までには段階的に撤兵しますよという条約を、中国側と結びました。
 
 さて、北清事変から1年たっても2年たっても、段階的に撤兵するはずのロシアは満州から撤兵しません。そこで1902年、イギリスが動きます。--- 中国と約束したはずの撤兵期限をなかなか守らないという事態を見て、イギリスは日本に同盟を提案するのです。こうして、日英同盟協約が調印されます。---
 
 このときの重要なポイントは、イギリスは、「日本とイギリスは協力しますよ、いいですね」という態度をロシアに見せることで、ロシア側が態度を改めるのを期待していたのですね。
 
 日本でも、1900年に伊藤博文によってつくられた政党である政友会などは、「日英同盟ができた。これはロシアに対して自制を求める同盟だ」と冷静に評価しました。---
 
 日英同盟が結ばれたのは、第一次桂太郎内閣のときでした。議会の376議席中、圧倒的多数を占めていた政友会と憲政本党という二つの政党は、ロシアとの戦争準備のために政府が海軍増強を続けようとの説得に応じませんでした。--- 坂野先生は「日本国民のかなりの部分と支配層の一部は、日露戦争の直前までは、むしろ厭戦的であった」と述べています。---
 
 そして中国の国内も変わってゆきます。--- 内政についても変わってゆくのです。19世紀末の1898年、戊戌の変法というのですが、清朝の開明的な一部の勢力によって、いくつかの改革が進められました。立憲君主制への道をめざすのです。---
 
 改革の内容は、科挙という、官僚を選ぶための試験を廃止しようとか、政府や地方の省のお金で優秀な官僚や学生を留学させようとか、軍の近代化をははかろうといったことです。ロシアの態度に中国が疑問を持ちはじめた1902年あたりから日露戦争後までは、中国において日本留学ブームが到来したといえます。---
 
 
 それでは日露戦争にいたるまでの日本とロシアの動きを見てみましょう。---
 
 一部の人々は早期開戦を唱えていたけれど、桂首相や元老のほとんどは、戦争の前にはまずは外交だと。日露交渉に期待をかけていたと思ってまちがいありません。---
 
 この頃、最長老の元老は二人いました。伊藤博文と山県有朋です。伊藤は日露戦争の後、ハルビンで、韓国の独立運動家である安重根に殺されてしまいますが、とにかく日露戦争前には、この二人が最も重要な、明治天皇の相談役でした。この二人の元老、そして桂首相をはじめとする閣僚、議会の政党勢力は実のところ、開戦には非常に慎重でした。---
 
--- ロシア側の史料や日本側の史料、これが公開されて明らかになったところでは、どうも、はやり朝鮮半島、韓半島のことですが、その戦略的な安全保障の観点から、日本はロシアと戦ったという説明ができそうです。---
 
 日本がロシアから言質をとりたかったのは、明らかに韓国における日本の優越権でした。--- ロシアは、韓国については日本が勢力圏に入れてしまうのを認めなさい、と日本は主張していました。そのかわり、確かにロシアの満州占領はまずいけれども、しかし、満州における鉄道の沿線はロシアが勢力圏としていい、中東鉄道とその南支線などはロシアが「特殊なる利益」を持っていると日本側は認めます、との主張です。---
 
 これに対してロシア側がなんと答えていたかを見ると、ああ、大きな国は強く出るのだな、と思います。「そもそも日本は、満州について論じる資格がない」と。---
 
 それではどのような条件とするかというと、まあ、これが大変にずうずうしい((笑)。--- 条件とは、ロシアが朝鮮海峡を自由に航行できる権利を日本側が認めること。--- さらに北緯39度以北の韓国を中立化して、日本が韓国領土の軍事的使用をしないならいいですよ、こういいます。のちに朝鮮戦争というものが第二次世界大戦後に起こり、半島は、北朝鮮と韓国に分断されるわけですが、その際、北緯38度線近辺が軍事境界線となりますね。このあたりは地形的に分けられるとの判断が、もともと生じやすい地形だったのでしょうか。
 
 この、韓国に関するロシア側の提議は、日本側にとっては絶対に認められなかった要求でした。---
 
 これまで見てきたように、韓国問題は日本にとっては絶対に譲れない問題でした。---
 
 ロシアは、日本がこれほど韓国問題を重要視していることに気づいていなかったふしがあります。それはなぜでしょうか。ロシアは、日本が先制攻撃をしかけるまで、日本側が戦争に踏み切るとは思っていなかった。--- ロシアは日本の考えを正確に理解していなかったと思われます。---
 
 
--- 日本は日露戦争を準備する段階で、ロシアを非難するために、つまり戦争の正当化を日本が大々的に宣伝するときにできたことは、満州についての門戸開放、このスローガンだけだったのですね。アメリカやイギリスが本気になって日本を応援し、お金を貸し、軍艦の購入に便宜をはかってくれるためには、大義がなければならない。アメリカ、イギリスにとって、韓国問題というのは、もう過去の話でした。---
 
 英米にとって死活的だったのは、やはり満州でした。大豆という世界的な輸出品を産する中国東北部をロシアが占領したままにするのか、中国の首府である北京にすぐ近い位置にロシアの軍隊がいて、陸からも海からもロシアが中国に最も影響力を及ぼせるような状態は、嫌だねぇと。このあたりの事情は日本側もよく理解していて、ロシアを非難する際に、韓国のことはあまりいわずに、満州、あくまで、満州の門戸開放、という。---
 
 ここに紹介したのは、原が日露開戦後に記した日記です。内容を簡単に要約しますと、こうです。日本の国民の多くは、戦争を欲していなかった。政府が七博士や対露同志会などの強硬派にロシア強硬論を唱えさせたのは、日露交渉を有利に展開するためだけの話だったのに、意外にも本当に開戦ということになってしまったのだ、と。---
 
 全世界において、満州市場は1900年から05年、拡大の一途をたどっていました。たまたまそこでロシアが、鉄道運賃を差別します、港の関税、使用税は自分の国だけ安くして、アメリカやドイツやイギリスからは高くとりますよ、といっていたとすれば、他国は警戒する。
   
 日本が遅れてきた帝国である一つの悲しさは、欧米に向けて語る戦争の正当化の論理と、自らの死活的に重要なものを説明する言葉がズレてしまうことです。
 
 日清戦争は帝国主義時代の代理戦争でしたが、日露戦争もやはり代理戦争です。ロシアに財政的援助を与えるのがドイツ・フランス、日本に財政的援助を与えるのがイギリス・アメリカです。---
 
 それでは、この頃の中国の動きを見てみましょう。日清戦争の後、ロシアと協調していた中国が、それからどのように変わっていったか。これもまた複雑怪奇です。--- 清国は「ロシアがお金をくれたのはうれしい。けれどロシアについたままだと、どうも国をとられてしまうんじゃないか」と思うようになる。だったら、ロシアより弱い日本と協調して満州を門戸開放してもらったほうがよい、開放までならいいじゃないか、と日本に近づく。
 
 日露戦争中、中国は中立の立場をとっているのですが、日本軍がロシアと戦っているとき、中国側は日本にお金を寄附してくれます。---
 
 最も重要だったのは戦場における中国側の協力です。このときの戦場は満州でした。奉天、旅順、大連、金州。万里の長城以南には入りませんが。もちろん満州には満州人や中国人が住んでいます。ここでの諜報作戦は、日本軍が圧倒的に勝ちました。それは中国の、中立とはいえ日本を援助する地域の官僚たちのバックアップがあったからです。土地勘のある農民たちが日本軍の諜報のために働いてくれた。--- いま話したような地道な諜報で日本側はかなり成果をあげる。これが、日露戦争における日本軍の辛くもの勝利をもたらしたといえるようです。
 
 日露戦争で日本はなにを獲得できたか。---
 
 ロシアが黒龍江省、吉林省、遼寧省という三つの省を占領していたことで排除されていた国々が平等に満州に入れるようになった。アメリカやイギリス、そして戦争中、ロシアを援助していたドイツやフランスも含まれます。「さあ、帝国主義国のみなさん、いらっしゃい」と中国東北部を開いた。これが日露戦争でした。
 
 それでは、日露戦争によって、日本の国内ではなにが変化したのでしょうか。--- まずは、不平等条約の改正について1911年に実現できる確約を列国から得た点。では、国内的な変化でいうとなにか。--- 初めての政党内閣ができたことでした。憲政党を与党として第一次大隈内閣ができました。--- 桂内閣は基本的に、ものすごい増税によってこの戦争をまかないました。--- 戦争前の1900年、山県内閣は衆議院選挙法を改正しました。それまでは直接国税を15円納めていなければ選挙権を持てなかったのですが、5円下げて10円以上の納税者にした。その結果、選挙権者は98万人になったのだそうです。---
 
 ですから、日露戦争後の国会や地方議会、県会などに出てくる人たちの質が変わります。これはすごく大きかった。---
たとえば会社を経営していたり、銀行などの給料のいいところに勤めているような人が払う直接税は営業税、所得税です。戦争時の増税によって、10円を超える税を納める人が増えた。選挙権を持つ人のなかに、会社経営者や銀行家などの金持ちが増えただろうというのは想像がつきます。--- 日露戦争後、地方の商工会議所などで活動していた実業家が初めて団体を組織して政党を名乗った。実業家である議員が公然と活動を始めたということです。--- だからたとえば都市商工業者などが、「新聞記者あがりの彼は弁が立つ。帝国議会へ彼を送り込むんだ」と思ったとき、その人を送り込めるようになった。---
 
 
 日露戦争後、増税がなされたことで、選挙資格を制限する直接国税10円を結果的に払う層が1・6倍になり、選挙権を持つ人が150万を超えたこと、これが大切なポイントです。 
 
 
 

 
 
 
 国土を拡張することに必死だった時代。
 
 今は、それを「横暴」と解釈します。
 
 読んでいて、苦しいです。 
 
 
  

それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ③

1章  日清戦争「侵略・被侵略」では見えてこないもの

--- ところで、日中関係を考えていく際に気をつけるべきことをきっちりと述べた先生がいました。アメリカの歴史学者でウォーレン・F・キンボールという人です。--- そのキンボール先生は、日中関係について、こんなふうに述べています。---

 学者先生なのでちょっと難しい表現をしていますが、要するに、日本と中国は、東アジアでの日中両国の関係においてどちらがリードするか、そのことをめぐって長いこと競争をしてきた国であって、そのリーダーシップをめぐる競争という点では、軍事衝突などは、文化、経済、社会、そして知識人の思想やイデオロギーをめぐる競争の、ほんの一側面にすぎないとの見方です。---

 日本が中国を侵略する、中国が日本に侵略されるという物語ではなく、日本と中国が競いあう物語として過去を見る。日本の戦争責任を否定するのでは全くなく、侵略・被侵略といった文脈ではかえって見にくくなっていた、19世紀から20世紀前半における中国の文化的、社会的、経済的戦略を、日本側のそれと比較しながら見ることで、日中関係を語りたいわけです。

 さて、ここからは19世紀後半、イギリスやアメリカやロシアが東アジアにやってくる時代まで、話をさかのぼらせましょう。---

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 東アジアを舞台としたロシアの南下を、イギリス帝国全体としての利益にはならないと考えていたイギリスは、日本に対しては、とにかく列国間の対立や紛争に巻き込まれないだけの能力を持つように、すばやく法典編纂を行ってくださいね、とのスタンスで臨みました。事実、大日本国憲法は1889年(明治22)年に完成します。---

 さて、日本とは異なる道を歩む国がいました。それが中国です。中国は日清戦争(1894-95年)後、列強の勢力圏争いのもとで、国土のなかに列強の多くの利権を抱えるようになります。しかし、19世紀半ばの中国は、いまだそうした事態にみまわれていませんでした。この時点での列強から見た場合、中国は「華夷秩序」という、列強にとっては大変うまみのある資産をたくさん持った国として映りました。---

--- 華夷秩序というのは、--- 世界、そして文明の中心である中国は、周辺地域に対して、「徳」を及ぼすものであり、その感化が人々に及ぶ度合いに応じて形成される属人的秩序なのだと。そのなかで、中国と東アジアとの関係を律する国際秩序を朝貢体制と呼びます。---

 列強にとっては、こうした中国を中心とする、交易と礼に基づく東アジアの秩序というものは便利でした。たとえば安南と呼ばれたベトナムであっても、朝鮮半島の李王朝(国号は大朝鮮国)であっても、列強がこうした地域・国々と貿易を行いたければ、とにかく、まずは清国と話をつけさえすればよくなる。列強にとってみれば、朝貢体制のもとで李王朝や安南と話がしやすくなればこれは使わなければ損だということです。

 そのような意味で朝貢体制は「きわめて安価な安全保障のための装置」だともいえますね。そもそも、朝貢関係にある国と中国とは、儀礼上の手続きをきちんと行っている限り、中国側が朝貢国の内政や外交に干渉することはありませんでした。--- 中国が大家さんみたいな役割を果たしていたというとイメージしやすいかな。---

 日清戦争は1894年(明治27)年に始まって翌年に終わる、10ヵ月ぐらいの短い戦争です。---

 列強が朝貢体制という安価な安全保障体制に便乗している間に、中国は少しずつ変わっていきます。このときの中心人物は李鴻章です。---

 この李鴻章は1880年代、中国の軍隊を近代的なものに改革しようとしました。そのうえで、81年、李鴻章は、中国の西側の方策に手をかけます。--- 中国の一番西に、新疆のイリ地方という地域があります。このあたりの地域はイスラム圏ですが、中国としては清国の華夷秩序内の領域だとの認識がある。さてこのイリ地方で、ヤクーブ・ベクという人物がロシアの援助を受けつつ、新国家をつくりあげてしまう事態が起きます。そうすると清国はすばやく軍隊を出してこれを滅ぼします。ロシアに対しては、清国領土の一部を割譲して満足してもらうことで話をつけ、イリ条約というものをロシアと結び、イリ地方の秩序回復に努めました。つまり、李鴻章はこの問題に武力で対応したのです。

 李鴻章のこうした決断力を目にした列強は、「ああ、中国は変わったな」と思ったのではないですか。---

 で、この次が大事です。中国は朝鮮への態度も変えていきます。これまでは「礼部」という名前を持つお役所が対朝鮮政策をとりしきっていました。それを李鴻章は改めて、1881年、朝鮮や安南=ベトナムを担当する場所を、自らが目を光らせることのできる場所、つまり直轄下に置きます。

 そしてちょうどこの頃、朝鮮では李王朝が揺れ動きます。日本はすでに、1876年に不平等条約であった日朝修好条規を朝鮮との間に締結していました。朝鮮は「自主の邦」としながらも、領事裁判権を認めさせ、関税自主権を奪うものでした。

 中国につこうか日本につこうかということのなかで、82年(明治15)7月、壬午事変(韓国側呼称は壬午軍変)が起きます。--- この反乱の鎮圧にあたったのが清国で、清国は事変に乗じて政権についた大院君を清国に連行し、閔氏政権を復活させる一方で、朝鮮への関与を積極化しました。---

 1884(明治17)年12月、清国の影響下にある閔氏政権を打倒するため、日本公使館の援助を受けた金玉均ら(親日改革派 独立党)の人々が、甲申事変(甲申政変)を起こします。日本公使館側は、フランスと清国との間で起こっていた清仏戦争に清国が気をとられている間を狙って、事件を起こしたのでした。しかし、これも清国によって鎮圧されてしまったことで、朝鮮政府に対する日本の影響力は決定的に低下しました。

 李鴻章は袁世凱(この人はのちに中華民国の初代大総統になる人です)を駐箚朝鮮総理という肩書で送り込み、また、中国の天津で開かれた伊藤博文との話し合いにおいて、85(明治18)年4月、天津条約を締結します。--- 両国は朝鮮から双方の軍隊を撤兵するかわりに、朝鮮に出兵するときには事前通告することに決し、これからしばらくの間は、朝鮮をめぐる日清間の衝突は回避されることになりました。---

 ロシア、フランス、日本というような国々が清国の華夷秩序=朝貢体制に挑戦するような紛争を起こしたとき、清国がきちんと一つひとつ対応をとるようになった。また、そうするだけの力をつけてきた。ですから、80年代半ばの時点においては、日本型の発展の方向性、中国型の発展の方向性、どちらもが、可能性が十分あった。---

 それでは、このように中国が強い方向に変化しつつあったとき、日本ではなにが起きていたのでしょう。かつての人々が残した言葉から、当時の日本人が東アジア情勢をどう考えていたのかを見ておきましょう。---

 その福沢が、1885年に書いたのが『脱亜論』 でした。---

 [日本はアジアの東端にあるとはいえ、日本国民の精神は欧化に親しんでいる。しかし不幸なのは、日本の隣に中国と朝鮮という国家があることにある。私から見ればこの二国は、西欧文明に東がだんだんと進みその影響力を大きくしてくるなかで、独立を維持するだけの方策がないだろう。中国と朝鮮の国土は列強など文明国によって必ず分割されてしまうだろう。日本には中国や朝鮮の開化を待って一緒にアジアを担っていくだけの時間がない。むしろ、中国と朝鮮という列から離れて西欧列強と一緒になり、中国と朝鮮と接する方法も、隣の国だからという配慮はせずに、西洋人が両国に対してするよような作法で行えばよいのだ。] 

--- これは率直に、朝鮮国内の近代化論者への支援を通じての日本の朝鮮進出は不可能になった、との敗北宣言だと読むべきだと坂野先生は言います。---

 欧米列強によるアジア分割が迫っているから、日本は泣く泣く連帯をあきらめて朝鮮や中国を捨てる、というような文意ではなく、朝鮮に日本が進出するには内部から改革する方法ではなく、中国を討ってから朝鮮に進出するという武力路線で行きますね、と、このように理解すべきだというのです。---

 福沢を見た後には山県有朋を見てみましょう。---

 山県は、シュタイン先生に会う前からすでに、--- 日本の政治と戦略は、中国の影響力から朝鮮を引き離し、ヨーロッパの強国(これはロシアが念頭に置かれているでしょう)が朝鮮を領有してしまわないようにする、--- 中国から朝鮮を引き離すという点で、先ほど見ました福沢の意見と同じであるということも確認しておきましょう。--- 朝鮮をただちに占領する必要はない、スイスやベルギー、あるいはスエズ運河の例のように、朝鮮を中立国とすることについて、イギリス・ロシア・清国・ドイツ・フランスなど複数の国家から承認をとるようにすればよい、これがシュタイン先生の教えでありました。---

 ウィーンから戻った山県は、1889年12月、黒田清隆から内閣を引き継ぎ、90年11月25日に召集された第1回帝国議会で、定数300議席中の過半数を占めていた民党の人たちに、海軍建造費などの軍拡予算について、賛成してもらわなければいけない立場になるわけです。--- 

 当時の選挙権と被選挙権は直接国税15円以上を納める人々だけに認められましたから、選挙権を持つ人も、立候補しようとする人も、お金持ち、つまり地主が多かった。地主であれば、地租という税金が安くなるにこしたことはないので、立憲自由党の大部分を占めた地主層は、政府の進める富国強兵などよりも、とにかく民力休養=地租を安くする、という考えを持っていました。---

--- どうも日本の民権派、のちに民党の議席を占めてゆくはずの人々の議論を聞いていますと、反政府とはいいつつ、国のゆく道を左右する根本のところでは一致している。政府が薩長藩閥だけで中枢を占めていることや、北海道開拓などで国の予算を無駄遣いしていることを批判するという点では反政府なのですが、国会が果たすべき役割、あるいは対外的に日本はどうすべきかという点では、実のところ、民権派と福沢や山県の間には、差異があまりなかった。---

 福沢がいうのは、清国人は古い考えに囚われ、普通の道理を理解しない。朝鮮の改革に同意しないばかりかそれを妨害するので、日本はやむをえず、文明開化のために武力に訴えるのだ、日本軍は文明を中国に知らしめるための軍隊なんだ、という論理構造になっています。---

 今だったら国家公務員の一種試験など、試験による官僚の任用がなされていますし、内閣の大臣になろうとすれば、その半数は国会議員から選ばれるから、国会議員を狙っておけば大臣にだってなれる。けれども当時、このような政党を基礎とする議院内閣制や国家の試験制度ができる前の人事は、藩閥政府が握っていました。それで福沢は、朝鮮が日本の自由になるなら、つまり日本の勢力圏内に入れば、その新たな領土に対して、今こそ、政党員が新天地に出かけていってポストを取ったらどうか、こういいます。実際、日清戦争後には台湾が割譲され、朝鮮に対する日本の影響力は格段に大きくなりました。台湾総督府ができ、その後、日露戦争を経て朝鮮総督府もできる。これは、数千人規模の新しいポストができるということです。--- 日清戦争後、日本は台湾を植民地として獲得するのですが、そこに官庁ができて、日本人が行く。その数には驚かされました。小学校の先生、農業試験場などの技師、裁判所の裁判官、警察官、そして軍人も。太平洋戦争が終結したときの数字でいえば、台湾総督府には、4万3870名の日本人官僚がいました。官僚のポストの数からいえば、これはかなり大きな数です。だから市場拡大とともに、福沢がいったのは、「今こそ民党は新たな植民地を獲得して、そこで官僚という、いままで自分たちが食い込めなかった行政に食い込め」ということなのです。自由党などが戦争に対して議会でそれほど強く抵抗しなかった理由の一つです。---

 最後に、日清戦争へと引っ張っていったのは、やはり外相の陸奥宗光だったということをお話します。---

--- 列強と条約改正を達成するには、日本の発展ぶりを鹿鳴館などで見せようと思ってもだめである。最終的には日本の進歩や日本の開化を欧米にわからせるには、日本がアジアのなかでも特別な文明、軍事力も備わった国であるとの実証を列強の目に具体的に見せなければだめなのだ、と。--- こういう人が外務大臣であるということは、朝鮮政府の財政改革を進めるか進めないかという話を名目として、日本と清国とが争った際、いかにして開戦にもっていくかという日本政府の立場を考えるうえでは大きかったと思います。---

 1894年、朝鮮国内で朝鮮政府に抵抗するための農民反乱が起きます。---

 清国はこの頃、力に訴えてでも朝鮮を守ろうとしていました。--- そして、李鴻章は巡洋艦2隻を派遣し、陸兵も2千余名、すばやく朝鮮に送ります。そして、6月6日、清国は日本に向かって、では今から朝鮮に出兵しますね、と断りを入れました。これは、当時、日本と中国の間に、朝鮮に関する取り決めがあったためです。--- そして日本側も、6月7日、中国に出兵する旨を連絡します。

 しかし、6月11日、外国の干渉を嫌う朝鮮政府が農民軍側の要求をほぼ受け入れたことで、反乱は急速に鎮まり、清国軍はなにもしないで撤収しようかという雰囲気に包まれました。ところが、この前日、朝鮮政府も、出兵した清国側も驚くことが起きていました。6月10日、日本側がソウルに、数は少ないとはいえ、海軍陸戦隊430名を入城させるという、信じれられないような早業を見せたのです。続く6月16日には、日本側は陸兵を4千名、仁川に上陸させています。---

 しかし、朝鮮の農民たちの反乱は鎮まってしまった。日本軍と清国軍が朝鮮で対峙してしまうことになります。日清戦争自体は、この1ヶ月後、1894年7月末(宣戦布告は8月1日)に始まるのですが、それではこの間、なにをやっていたのでしょう。

 陸奥宗光は日本と清国が一緒に朝鮮政府に改革を要求しましょう、と提案します。---

--- つまり、経済改革要求は誰も強く批判はできないものですよね。--- 中国側は、共同で撤兵することがまずは大切、と正論を述べます。そして、日本が持ちかけた内政改革要求については、「じゃあ日本が勝手にやれば」といいます。朝鮮政府の内部には親中国派が多いわけですから、日本のいうことを聞く勢力はいないわけですね。---

 陸奥が「兵隊は退かない。日本は朝鮮の改革を日本だけでも行う決意だよ」などと強く出たとき、清国側は、大変に頭にいい反論をして日本側を弱らせました。--- 清国側は「朝鮮王朝、李王朝は独立であるといいだしたのはあなたじゃないですか」ときっちり日本に反論しました。--- 朝鮮は「自主の邦」であると言い続けていたその日本が内政干渉ともとれる改革の強制をやるのですか、という清国側からの反論がありました。--- これが日清戦争直前の状況でした。このように見てくると、朝鮮政府の内政改革を進めるか進めないかについての日本側の主張はかなり強引なものでしたが、最終的には、朝鮮が「自主の邦」かそうでないかなどを清国が決める立場にある状態そのものを武力で崩してしまおう、と日本側は決意します。

 そして日清戦争は起こります。---

 イギリスが「日本がやる気なら、やってもいいですよ」と背中を押すのが1894年7月16日。これは、日英通商航海条約の締結というかたちをとりました。--- そしてロシアの代理が清国ということになる。日清戦争後、中国の李鴻章がロシアに接近するのは、戦争前の代理戦争の対立図式を正確に反映したものでした。

 それでは日清戦争が終わった後の日本を見てみましょう。--- 1894年7月の日英通商航海条約では、領事裁判権が廃止され、関税自主権の原則回復がなされました。また清国からの賠償金2億両(遼東半島還付金も含めれば約3.6億円)は巨額なものでした。日清戦争時点の日本の国家予算が約1億でしたから、国家予算の3倍もの賠償金が手に入ったのです。---

 それでは、国内の政治においてはなにが最も変わったでしょうか。---

 戦争には勝ったはずなのに、ロシア、ドイツ、フランスが文句をつけたからといって中国に遼東半島を返さなければならなくなった。これは戦争には強くても、外交が弱かったせいだ。政府が弱腰なために、国民が血を流して得たものを勝手に返してしまった。政府がそういう勝手なことをできてしまうのは、国民に選挙権が十分にないからだ、との考えを抱いたというわけです。

 宣戦講和の権利は内閣、もしくは国務大臣の輔弼によって天皇が行う。で、議会において、外交についてはあまり議論ができない。法律で抑えることもできない。予算で抑えることもできない。議会はいろいろと制限はあるけれども、しかし、国民の意見を反映させる手段は議会にしかないのだから、少なくとも、国民にあまねく選挙権を持たせて政府に対する圧力の大きさを大きくするしかないのではないか。こう考えるわけですね。三国干渉への強い不満、このような意表をつくようなところからも普通選挙というものが期待されてきたということです。 

 


 

 福沢諭吉、陸奥宗光。

 日本史の授業で教わったこの2人についての印象が違ってきました。

 選挙権についても、この時代の選挙権の中身を改めて知ることができました。

 しかし、このようにして手に入れた普通選挙権が、民意の反映手段として充分に機能していると思えない現在です。 

 

 

 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ②

序章  日本近現代史を考える

--- 2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロの衝撃に接したとき、人々は、テロを「かつてなかった戦争(war like no other)と呼んで、まず、その新しい戦争の形態上の特質、つまり「かたち」に注目しました。---

 ここで、とても重要なことは、次のような点だったのではないでしょうか。内部から日常生活に密着した場での攻撃を受けたアメリカにとって、このテロは、相手国が国を挙げてアメリカに仕掛けてきた戦争というよりは、国内にいる無法者が、なんの罪もない善意の市民を皆殺しにした事件であり、ということは、国家権力によって鎮圧されてよい対象とみなされる。---

 実は、このアメリカの話と似たようなことが、かつての日本でも起きていたのです。---

--- 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中の軍事衝突はまたたくまに全面戦争へと拡大しますが、戦争の開始から半年ほどたった1938年1月16日、近衛内閣が発した声明が「爾後、国民政府を対手とせず」という声明でした。

 戦争の相手国を眼中に入れずにどうする、と普通なら思いますが、当時の軍人たちや近衛首相を補佐し助言するはずのブレインたちは、そうは考えなかった。そう考えなかっただけでなく、戦争に対する、もっと不思議な見方をします。

--- 「今次事変は戦争に非ずして報償なり。報償の為の軍事行動は国際慣例の認むる所」。つまり、今、日本が行っていることは戦争ではなくて、「報償」なのだ、だからこの軍事行動は国際慣例でも認められているものなのだ、と発言しているわけです。---

--- 報償という考え方をわかりやすく説明しますと、相手国が条約に違反したなど、悪いことをした場合、その不法行為をやめさせるため、今度は自らの側が実力行使をしていいですよ、との考え方です。中国が日本との約束を守らなかったから、守らせるために戦闘行為を行っている、というのが当時の日本軍の言い分でした。

--- 近衛のブレインであった人々の書いた史料のなかにも、日中戦争をとても不思議な表現で呼んでいる例が出てきます。彼らはこの戦争を「一種の討匪戦」と見ていました。--- 匪賊、つまり、国内で不法行為を働く悪い人々、ギャングの一団のようなイメージですね。こうしたグループを討つ、という意味です。

 いずれにしても、日中戦争の日本が、これは戦争ではないとして、戦いの相手を認めない感覚を持っていたということに気づいていただければよいのです。ある意味、2001年時点のアメリカと、1937年時点の日本とが、同じ感覚で目の前の戦争を見ている。相手が悪いことをしたのだから武力行使をするのは当然で、しかもその武力行使を、あたかも警察が悪い人を取り締まるかのような感覚でとらえていたことがわかるでしょう。

 時代も背景も異なる二つの戦争をくらべることで、30年代の日本、現代のアメリカという、一見、全く異なるはずの国家に共通する底の部分が見えてくる。歴史の面白さの神髄は、このような比較と相対化にあるといえます。

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 日本国憲法といえば、GHQがつくったものだ、押し付け憲法だとの議論がすぐに出てきますが、そういうことはむしろ本筋ではない。ここで見て置くべき構造は、リンカーンのゲティスバーグでの演説と同じです。巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となるという真理です。

 憲法といえば、大日本帝国憲法のような「不磨の大典」といったイメージが日本の場合は強いかもしれませんが、ゲティスバーグの演説も日本国憲法も、大きくいえば、新しい社会契約、つまり国家を盛り立たせる基本的な秩序や考え方を明らかにしたものといえるでしょう。この、国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方という部分を、広い意味で憲法というのです。

 ゲティスバーグ演説の〝people" の部分も、日本国憲法の「権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」にも、こうした強い理念を打ちださなければならなかった、深い深い理由が背景にある。---

 新しい憲法、社会契約が必要とされる歴史の条件の一つは、「総力戦」という大変なものを戦うために国家目標を掲げなければならないということです。このとき、〝by the people”「国民によって」という言葉が必要になる。総力戦(total war)の一番単純な定義は、前線と銃後の区別がなくなることです。青年男子の人口と動員された兵士の人口が限りなく一致してゆく戦争でもあります。---

 国民を国家につなぎとめるためには、国家は新たな国家目標の設定が不可欠となってくる。その際、大量動員される国民が、戦争遂行を命ずる国家の正当性に疑念を抱くことがないように、戦争目的がまずは明確にされることが多いのです。たとえば、アメリカが第一次世界大戦に参戦する際のスローガンは「デモクラシーが栄える世界するための戦争」、「戦争をなくすための戦争」でしたし、対するドイツ・オーストリア側は「民族的存立を防衛するための戦争」と定義づけました。---

 それでは次に、少し違う角度から考えてみましょう。戦争というものは、敵対する相手国に対して、どういった作用をもたらすと思われますか。---

--- 長谷部先生は、この本のなかで、ルソーの「戦争および戦争状態論」という論文に注目して、こういっています。戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃、というかたちをとるのだと。

 太平洋戦争の後、アメリカによる占領を、「そうか、アメリカは民主主義の先生として、日本にデモクラシーを教えてやる、といった考え方に立ってやって来たのだな」、というようなアメリカ固有の問題として理解してきました。けれども、ルソー先生は、こうした戦争後のアメリカのふるまいを、18世紀に早くもお見通しであったのでした。---

 ルソーは考えます。戦争というのは、ある国の常備兵が3割くらい殺傷された時点で都合よく終わってくれるものではない。また、相手国の王様が降参しましたといって手を挙げたときに終わるものでもない。戦争の最終的な目的というのは、相手国の土地を奪ったり(もちろんそれもありますが)、相手国の兵隊を自らの軍隊に編入したり(もちろんそれもありますが)、そういう次元のレベルのものではないのではないか。ルソーは頭のなかでこうした一般化を進めます。相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいるのです)、これに変容を迫るものこそが戦争だ、といったのです。---

 第二次世界大戦の終結にあたっては、敗北したドイツや日本などの「憲法」=一番大切にしてきた基本的な社会秩序が、英米流の議会制民主主義の方向に書きかえられることになりました。ですから、歴史における数の問題、戦争の目的というところから考えますと、日本国憲法というものは、別に、アメリカが理想主義に燃えてきたからつくってしまったというレベルのものではない。結局、どの国が勝利者としてやってきても、第二次世界大戦の後には、勝利した国が敗れた国の憲法を書きかえるという事態が起こっただろうと思われるのです。---

 アメリカと日本が戦争をする。アメリカが勝利して日本の憲法を書きかえるとなったとき、最も違っていた部分はなにかというあたりを考えてほしいのです。---

--- 戦前期の憲法原理は一言でいえば「国体」でした。「天皇制」と言いかえてかまいません。---

  アメリカは戦争に勝利することで、最終的には日本の天皇制を変えたといえます。現在の日本国憲法の前文部分、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるのもであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」が、リンカーンの演説、人民の人民による人民のための、と同じだ、というところから始めたわけですが、この前文部分のすぐ前に「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書かれています。---

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 歴史という学問は、分析をする主体である自分という人間自体が、その対象となる国家や社会のなかで呼吸をしつつ生きていかなければならない。そのような面倒な環境ですすめられます。となりますと、歴史的な見方というのは、いきおい、国家や社会のなかに生きる自分という人間が、たとえば、なぜ310万人もの人が犠牲となる戦争を日本は行ってしまったのか、なぜ第一次世界大戦の悲惨さに学ぶことなく戦争は繰り返されたのだろうか、という「問い」に深く心を衝き動かされたときに初めて生ずるものなのだと思います。---

 第二次世界大戦が始まる1939年、カー先生は『危機の20年 1919-1939』という本を書きあげます。---この本をカーに書かせたのは、ある一つの「問い」でした。「なぜ20年しか平和は続かなかったのか?」。--- 

 第二次世界大戦が刻々と近づいてくる足音を聞きながら、カーは、普通のイギリス人の多くが信じていた考え方にいらだっていました。普通の人々は、1939年代の大災厄(つまりヒトラーに率いられたドイツがイギリスやアメリカに挑戦したことですが)は、ドイツ、イタリア、日本に対して連盟規約の定めを100パーセント忠実に適用するのを怠ったから起きた、独伊日三国の挑戦を英米仏などの大国が早く跳ね返さなかったから起きた、と単純に考えていました。---

--- それではカーは、自身の問いにどう答えたのか。--- カーの答えは次のようなものでした。

 愚かなために、あるいは邪悪なために、人びとは正しい原理を適用しなかったというのではなく、原理そのものがまちがっていたか、適用できないものであったからだ。

 つまり、敵国であるドイツが悪いのではなく、そもそも国際連盟がまちがっていたのだ、と。敗戦国ドイツに対する連盟の処し方がまちがっていたのだ、と。アメリカやイギリスなどの大国が主導してつくりあげた、第一次世界大戦後の秩序そのものがまちがっていたと正直に述べてしまったわけですね。---

 じゃあ、原理がまちがっていたというとき、日本やドイツを抑制するため、イギリスはなにをすべきだったのか。---

--- イギリスは、連盟の権威をバックにして、単なる言葉や理論によってドイツ、イタリア、日本を抑止できると考えるべきではなかった、とカーは述べています。イギリスがやるべきことは、海軍力の増強しかなかったはずだと。ヴェルサイユ・ワシントン体制という、第一次世界大戦後の世界を連盟中心にまわしていこうとの考え方、あるいは、経済重視の安全保障が大切だとの考え方、こういった考え方は、持てる国の現状維持であるとして批判したのは、ドイツやイタリアや日本でした。カーは、このような主張をしていた現状打開国に対しては、言葉だけでの抑止では通用しなかったはずだと述べます。軍事力の裏づけなしに現状維持国が現状打破国を抑えることなどできなかったのだと。

 ここで、考えなければならないのは、1939年代前半にかけてのイギリスに、海軍軍拡の余力があったかということです。---

 結論としてカーは、海軍増強という力の政策によってドイツを抑え込む力がイギリスになかったのだとすれば、イギリスは連盟を背景にしてドイツを刺激すべきではなかった、といっていることになります。これは、自分の国に対する、なかなかに暗い診断ですよね。海軍増強、それができないないのなら、ドイツと真剣に交渉をすべきだった、こういうのですから。---

--- ロシア革命は1917年に起こりますが、それを起こした人の多くはユダヤ系のロシア人で、後にボリシェビキ(多数派を意味するロシア語です)といわれるグループでした。この人たちは、1789年に起きたフランス革命が、ナポレオンという戦争の天才、軍事的なリーダーシップを持ったカリスマの登場によって変質した結果、ヨーロッパが長い間、戦争状態になったと考えていました。

 そのことを歴史に学んで知っていたボリシェビキは、ロシア革命を進めていくにあたってどうしたか。これは、レーニンの後継者として誰を選ぶかという問題のときにとられた選択です。ナポレオンのような軍事的なカリスマを選んでしまうと、フランス革命の終末がそうだったように、革命が変質してしまう。ならばということで、レーニンが死んだとき、軍事的なカリスマ性を持っていたトロツキーではなく、国内に向けた支配をきっちりやりそうな人、ということでスターリンを後継者として選んでしまうのです。

 スターリンは、第一次世界大戦やその後の反革命勢力と戦う過程で軍事的なリーダーシップを全く持たなかった人でした。---

 ロシア革命を担った人たちが、フランス革命の帰結、ナポレオンの登場ということを知ったうえでスターリンを選んだというのは、かなり大きな連鎖であり、教訓を活かそうとした結果の選択です。--- スターリンは1930年代後半から、赤軍の関係者や農業の指導者など、集団化に反対する人々を粛清したことで悪名高い人ですね。犠牲者は数百万ともいわれる。--- 

 政治家としても他を圧する力があり、軍事的リーダーシップも持っていた西郷。この西郷は、西南戦争で自刃したからよかったものの、政府としては非常に肝を冷やしました。国民的人気もあり、文武両道の指導権を持った西郷のような指導者が、これ以降も現れて、再び政府に対して反乱を起こすようなことがあったら困る、このように政府が考えたであろうことは予測がつきますね。

 統帥権独立という考え方は、山県有朋が、西南戦争の翌年、1878年(明治11)年8月に、近衛砲兵隊が給料への不満から起こした竹橋騒動を見て、また、当時の自由民権運動が軍隊内へ波及しないように、政治から軍隊を隔離しておく、との発想でつくったものです。--- 

 先に、レーニンの後継者がスターリンにされたことで人類の歴史が結果的にこうむってしまった災厄を話しましたが、この西郷の一件と統帥権独立の関係も、人類の歴史が結果的にこうむってしまった災厄の一つといえるかもしれませんね。日中戦争、太平洋戦争のそれぞれの局面で、外交・政治と軍事が緊密な連繋をとれなかったことで、戦争はとどまるところを知らず、自国民にも他国民にも多大の惨禍を与えることになったからです。

 以上の話を思い返してみますと、政治的に重要な判断をしなければならないとき、人は過去の出来事について、誤った評価や教訓を導きだすことがいかに多いか、ということです。ここでは最後に、アメリカ人の歴史家、アーネスト・メイ先生の話を紹介しながら、歴史の誤用という話をしましょう。---

 メイ先生のいいたいことをはっきりいってしまえば、政府を引っぱるような政策形成者は、歴史をたくさん勉強しなさいね、ということですね。メイ先生は、政府の意思決定に携わる人々が、きちんと自分の話を聞くように、第二次世界大戦以前の時期に、アメリカは歴史をいかに誤用したか、冷戦期に入ってどれだけ誤用したか、朝鮮戦争の時期にどれだけ誤用したか、ベトナムの体験でどれだけ誤用したか、それを実に面白く詳細に明らかにしました。---

 メイ先生によれば、アメリカは第二次世界大戦の終結方法を選ぶとき、明らかに歴史を誤用した、といいます。それはなにかといいますと、「無条件降伏」の一件です。

 フランクリン・D・ローズヴェルト大統領は、ドイツやイタリアや日本などの枢軸国に対して、なぜ無条件降伏以外の降伏をさせないように主張したのか、これは第二次世界大戦の終結を遅らせることになりはしなかったか。こう、メイ先生は考えました。つまり、ドイツ、イタリア、日本の三国の国内を観察してみれば、実のところ戦争終結に向けた動きはあった。無条件降伏しか認めない場合と、条件つき降伏交渉を認めた場合と、どちらがアメリカ国民の損害を少なくできたか、こう考えたわけです。むしろ、第一次世界大戦までのすべての戦争においてなされてきたように、降伏条件を戦争の当事国同士で話しあうほうがよかったのではないか、という問いです。---

 メイ先生が二つ目に挙げている、アメリカにおける歴史の誤用の例は、ベトナム戦争になぜ深入りしたか、との点に関することです。---

 第二次世界大戦が終わった段階では、蒋介石率いる中国国民政府が、アメリカやイギリスとともに日本に対して戦い、勝利した国家だったのです。しかし、1945年8月以降、49年10月の中国共産党の勝利にいたる中国における内戦の過程を、アメリカはどうすることもできないでいました。満州事変、日中戦争の時期においてアメリカは、中国の巨大な市場が日本によって独占されるのではないか、門戸開放政策が守られないのではないかと考え、中国国民政府を支持してきたわけです。それが、せっかく敵であった日本が倒れたというのに、また戦中期に大変な額の対中援助を行ったのに、49年以降の中国が共産化してしまった。

 これはアメリカにとっては、嘆きであったでしょう。--- この中国喪失の体験により、アメリカ人のなかに非常に大きなトラウマが生まれました。戦争の最後の部分で、内戦がその国を支配しそうになったとき、あくまで介入して、自らの望む体制をつくりあげなければならない、このような教訓が導きだされました。ですから、北ベトナムと南ベトナムが対立したとき、南ベトナムを傀儡化して北ベトナムを支配するのに止まるのではなく、北ベトナム自体を倒そうとするわけです。

 以上が、ベトナム戦争にアメリカが深入りした際、歴史を誤用したという、アーネスト・メイの解釈です。---

 本日お話ししてきたことをふりかえれば、人類は本当にさまざまなことを考え考えしながらも、大きな災厄を避けられずにきたのだということを感じます。私たちには、いつもすべての情報が与えられるわけではありません。けれども、与えられた情報のなかで、必死に、過去の事例を広い範囲で思い出し、最も適切な事例を探しだし、歴史を選択して用いることができるようにしたいと切に思うのです。歴史を学ぶこと、考えてゆくことは、私たちがこれからどのように生きて、なにを選択してゆくのか、その最も大きな力となるのではないでしょうか。

 


 

 歴史の誤用の話は、衝撃的です。

 為政者には、歴史を広く深く学んでほしい。

 しかし、誤用を招く心配もある。

 では、どうすればよいのでしょう。 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ①

はじめに

 これまで中高生というよりは中高年に向けた教養書や専門書を書くことが多かった私が、日清戦争から太平洋戦争までの日本人の選択を、なぜ、高校生と考えようと思ったのか。まずこの点から説明しておきましょう。---

 私の専門は、現在の金融危機と比較させることも多い1929年の大恐慌、そこから始まった世界的な経済危機と戦争の時代、なかでも1930年代の外交と軍事です。---

 みなさんは、30年代の教訓とはなにかと聞かれてすぐに答えられますか。ここでは、二つの点から答えておきましょう。一つには、帝国議会衆議院議員選挙や県議会議員選挙の結果などから見るとわかるのですが、1937年の日中戦争の頃まで、当時の国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革(たとえば、労働者の団結権や団体交渉権を認める法律制定など、戦後、GHQによる諸改革で実現された項目を想起してください)を求めていたということです。二つには、民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出を当時の国民もまた強く待望していいたということです。---

 社会民主主義的な改革要求は既存の政治システム下では無理だということで、疑似的な改革推進者としての軍部への国民の人気が高まっていったのです。そんな馬鹿なという顔をしていますね。しかし陸軍の改革案のなかには、自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の改善など、項目それ自体はとてもよい社会民主主義的な改革項目が盛られていました。

 ここで私が「疑似的な」改革と呼んだ理由は想像できますね。疑似的とは本物とは違うということです。つまり陸軍であれ海軍であれ、軍という組織は国家としての安全保障を第一に考える組織ですから、ソ連との戦争が避けられない、あるいはアメリカとの戦争が必要となれば、国民生活の安定のための改革要求などは最初に放棄される運命にありました。

 ここまでで述べたかったことは、国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らないとの危惧であり教訓です。---

--- 現代における政治システムの機能不全とはいかなる事態をいうのでしょうか。一つに、現在の選挙制度からくる桎梏が挙げられます。衆議院議員選挙においては比例代表制も併用してはいますが、議席の6割以上は小選挙区から選ばれます。一選挙区ごとに一人の当選者を選ぶ小選挙区制下では、与党は、国民に人気がないときには解散総選挙を行いません。これは2008年から09年にまさに起こったことでしたが、本来ならば国民の支持を失ったときにこそ選挙がなされなければならないはずです。しかしそれはなされない。

 政治システムの機能不全の二つ目は、小選挙区制下においては、投票に熱意を持ち、かつ人口的な集団として多数を占める世代の意見が突出して尊重されうるとの点にあります。2005年の統計では、総人口に占める65歳以上の高齢者の割合は2割に達しました。そもそも人口の2割を占める高齢者、さらに高齢者の方々は真面目ですから投票率も高く、たとえば郵政民営化を一点突破のテーマとして自民党が大勝した05年の選挙では、60歳以上の投票率は8割を超えました。それに対して20歳台の投票率は4割台と低迷しました。そうであれば、小選挙区制下にあっては、確実な票をはじきだしてくれる高齢者世代の世論や意見を為政者は絶対に無視できない構造が出来上がります。地主の支持層が多かった戦前の政友会などが、自作農創設や小作法の制定などを実現できなかった構造とよく似ています。---

 そのように考えますと、これからの日本の政治は若年層贔屓と批判されるくらいでちょうどよいと腹をくくり、若い人々に光をあててゆく覚悟がなければ公正には機能しないのではないかと思われるのです。教育においてもしかり。若い人々を最優先として、早期に最良のメニューを多数準備することが肝要だと思います。---

 この本は、2007年の年末から翌年のお正月にかけて5日間にわたって行なった講義をもとに、序章から5章までで構成されています。序章では、対象を見る際に歴史家はどのように頭を働かせるものなのか、さらに世界的に著名な歴史家たちが「出来事」とは別に立てた「問い」の凄さを味わいながら、歴史がどれだけ面白く見えてくるものなおかをお話ししました。1章で日清戦争、2章で日露戦争、3章で第一次世界大戦、4章で満州事変と日中戦争、5章で太平洋戦争を扱っています。---

 つまるところ時々の戦争は、国際関係、地域秩序、当該国家や社会に対していかなる影響を及ぼしたのか、また時々の戦争の前と後でいかなる変化が起きたのか、本書のテーマはここにあります。 

 


 

 という書き出しで始まりました。

 すごく面白い内容です。

 私が高校で日本史を習ったときは、日本の近現代史は時間切れで終わりました。

 近現代史を教えることに教員側に抵抗があったのか、あるいは、近現代史をどのように教えればよいのか、当時はまだ教える側の足場が固まっていなかったのか。

 いずれにせよ、私たちの世代は殆どが、近現代史をまともに教わって来ませんでした。

 ですから、この本を読んで、知らなかったことをたくさん知りました。

 「そうだったのか!」と、目から鱗が落ちる思いを味わったこと度々でした。

 こんな授業を受けることが出来ていたら、もう少し世の中を見る目が違ってきたであろうにと思ったりしました。

 この講義を受けたのは、神奈川県の私立・栄光学園の中高生。しかも、歴史研究部のメンバーが中心です。

 東大の学部生と大学院生に日本近現代史を教え、自身も東京都の私立・桜蔭学園で中高生活を送った後、東大に進んだ著者です。

 こういう組み合わせの講義と聞けば、少々鼻白む想いもしますが、そういう気分を忘れさせてくれるほど面白い内容の講義でした。

 非常に密度の高い、それでいて、非常に分かりやすくて面白い講義です。

 そういう講義のお零れにあずかることができることを、嬉しいと思わせてくれる本です。 


とりつくしま  東 直子著  ちくま文庫

 いつも聞いているラジオ番組の「すっぴん」で、高橋源一郎さんが紹介した本です。
 
 「泣ける!」という紹介でした。
 高橋源一郎さんがこの本を朗読していたとき、隣で聴いていた藤井彩子アナウンサーも「泣いた!」と言っていました。
 
 ぽろぽろと涙を流すのは、ストレスの発散になると言います。
 
 買って読みました。
 
 死者のいるあの世には「とりつくしま係 」がいて、命を亡くした人がこの世に戻ってきてモノに魂を宿す手伝いをするという設定です。
 
 「ロージン」は、死んだ母親が、野球部に所属する息子の「ロージン」になって、ピッチャーの息子を見守る話。
 
 「トリケラトプス 」は、死んだ若い妻が、夫愛用のマグカップ(トリケラトプスという怪獣の絵が描かれているマグカップ)になって夫の日常を見守る話。
 
 というように、10編の短編のすべてが、死んだ人が「とりつくしま」となって残された世界を見るという話です。
 
 全く泣けませんでした。
 
 一滴の涙も出ませんでした。
 
 最近は、涙腺が非常に緩くなって、ドラマを観ているだけで泣くようなっている私なのにです。
 
 ドラマの作り手の、あざといばかりの仕掛けに引っ掛かって泣いてしまう私なのにです。
 
 何故だか、分かりません。
 
 ここは、よく考えなければならないのではないかと、深刻に捉えているところです。
 
 何かに、どこかに、白けているのだと思います。
 
 よーく、考えてみます。
 
 私の宿題とします。 
 
  

新リーダー論  池上彰・佐藤優  文春新書 ⑤

佐藤 2016年5月の衆議院財務金融委員会で、国会での与野党のやり取りとしては大変珍しいことに、実に建設的な質疑応答がありました。麻生副総理・財務相と民進党の前原誠司議員とのやりとりです。---

 2016年9月の民進党代表選挙でも明言していたように、「社会保障の機能充実」として前原議員がとくに念頭に置いているのは、「教育の無償化」です。

 新自由主義によって拡がった子供の貧困と経済格差と教育格差の連鎖こそ、われわれの社会を脅かす最大の危機なのですから、真剣に検討するに値すると思います。---

--- 軽減税率は残しつつですが、消費税はもっと上げてもいいのではないか。借金返済に充てるだけでなく、こうした政策を具体的に示せば、国民の理解も得られると思います。こういう制度設計なしに、「プライマリーバランスを黒字化する」という財務省の主張に沿うだけの場当たり的な消費増税を繰り返しても、意味がありません。

池上  結局、子供の教育、親の介護、自分の老後に不安があるから、消費税が少し上がっただけで、消費が落ち込み、景気が悪化する。消費税が上がっても、そうした不安が少しでも軽減されれば、消費行動はかなり変わってくるはずです。その意味で、景気対策にもなります。---

 

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佐藤  --- 2016年3月18日の参議院予算委員会で、当時の民主党の白眞勲議員が、「政府はこれまで核兵器を保有することは憲法違反ではないと表明しているが、使用についてはどうか」と質問したのに対し、横畠裕介内閣法制局長官が、「憲法上、あらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているというふうには考えていない」と答えたのです。

 これは、従来の政府見解とは明らかに一線を画する答弁です。「核保有」と「核使用」では位相が違う。私が知るかぎりでは、憲法解釈として「核使用」を日本政府として初めて認めた答弁です。--

池上  戦後日本の核政策、原子力政策をふり返ると、日本が自前の原子炉開発にこだわったのは、将来的には核兵器を保有するのが夢だけれども、そこまでいかなくとも、「いつでもつくれるのだぞ」という状態にすることが、抑止力につながる、と考えていたからなのですね。---

佐藤  日本が核保有を決断すれば、現在の技術なら2年以内に持てるでしょう。---

 日本には、核保有の「能力」はあるが、「意志」はない、ということですが、うがった見方をすれば、その「能力」を維持するために原発はなくせないことになる。

 さらに言えば、現在のNPT体制の下では、原発への依存度が一定程度以上だと、核保有を選択した瞬間に、日本は、エネルギー危機に襲われます。というのも、NPT体制下でウランやプルトニウムが供給されているのは、核開発をしないことが条件になっているからです。

池上  核開発を表明するか、核開発が発覚した瞬間から、日本はウランを輸入できなくなります。

佐藤  ということは、原発に一定程度依存していることが、逆に、核開発をしない保証になる。国際社会が日本に「日本には地震があるんだから、福島第一原発事故を起こした以上、原発をやめろ」と言わないのも、エネルギーとして欠かせない原発を人質に取る形で、日本の核開発を阻止しているからだ、とも言えます。---

 

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佐藤 --- トランプのような現象が出てくると、しばしば次のような議論になります。「民主的な手続きによってヒトラーを阻止できなかった歴史を思い起こす必要がある。たとえば、アラブの春の後のエジプトを考えてみよう。選挙で生まれたムスリム同胞団の政権を放置してよかったのか。やはりシン将軍のクーデタによる軍事政権でよかったのではないか。同様に、民主主義的な手続きによって民主主義の首を絞める動きが出てきたら、エリートが、これを何としてでも阻止しなければならない」というような民主主義を否定する議論です。

 最近のエスタブリッシュメントの側から出てくるポピュリズム批判には、警戒が必要です。

池上  ある部分では、彼ら自身もポプルス(民衆)の一人であるはずなのに、そうは思っていない。思い上がったエリート意識は、実に危険です。---

 

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佐藤  では、今日、リーダーがリーダーとして機能しているのは、どういう場合なのか。たとえば、共産党の不破哲三は、リーダーとして機能している。創価学会の池田大作氏もそうです。公明党の山口那津男代表もそうだと言えるでしょう。

 つまり、下に支部組織のネットワークがあるから、リーダーが機能する。---

--- リーダーが現れているのは、宗教があるか、あるいは「敵」のイメージがあるところです。アトム化していない、耐エントロピー構造があるところだけに、リーダーが出てきている。---

池上  しかし、育成がいくら難しいとしても、人間の社会や組織に、リーダーは不可欠です。では、どうすればよいかのか。

佐藤  近代国家においては、すべての土台をなすのが教育です。ですから、教育の中に、リーダー論、リーダーシップ、愛国心を埋め込む必要があります。しかし、リーダシップや愛国心などをむき出しで鼓吹しても効果はありません。これまでは、そこを文化に埋め込む形で自然に身に付くようにしてきました。

 ところが、その文化が弱くなってきています。小説など読んでも無駄だと思っている。日本史も役に立たない。和歌など詠んでも意味がない。しかし、そういうところからは、リーダーは育たない。---

--- 日本でもう一度システムを活性化させるには、やはり企業が重要ではないでしょうか。中小企業でも大企業でも、何らかの形で終身雇用制があって、帰属意識が生きている企業。そういうリーダーシップがある企業は生き残るし、その企業がある地域は強くなっていく。あるいは職能組合や地域活動がしっかりしているのなら、それでもいい。人間が成長するには、やはり何かに帰属することが大事です。企業でなければ、宗教団体でもいい。---

--- 人間が独りでは生きていけない社会的存在であることを忘れ、組織やリーダーというものを回避すれば、自己利益と自己実現だけを追求するナルシシズムに陥るほかありません。「向上心」の高いエリートほど、その罠に陥る危険があります。これこそ、現代社会の深刻な病理です。エリート教育に必要なものは、実は、個々の知識や教養以上に、人間は「群れをつくる動物」であり、「独りでは生きていけない存在である」ということを教え、学ぶことではないかと思います。

 

おわりに 

--- 1991年12月のソ連崩壊後、社会主義(実態はスターリン主義)という対抗軸を失った資本主義は、弱肉強食の原理を剥き出しにして、世界全体を席捲した。グローバリゼーションとか新自由主義とか呼ばれる現象である。この世界観は、孤立した個人を主体とするアトム(原子)的了解によって成り立っている。こういう環境では、誰もが自己中心的なナルシシズムに陥りやすい。そのためにリーダー観が変化していった。---

 バラバラの人々を煽動によって集める。そして、目的が達成されたら解散するという実行委員会型の組織に対応できることが、時代の変化に対応した新しいリーダーということになる。

 しかし、そのようなリーダーは長持ちしないと思う。なぜなら、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが指摘したように、人間は社会的な動物だからだ。この社会は、ジャガイモを袋詰めしたような、バラバラの個体の寄せ集めではない。一人一人がかけがえのない個性を持ち、それぞれ異なる能力と適性を補い合い、協力して生きていく社会だ。

 予見される未来に資本主義体制が崩壊することはないと思う。しかし、こういう社会的動物である人間の本性を破壊する新自由主義的傾向に歯止めが掛かるのは当然だ。そうでないと人類が滅びてしまうからだ。ポスト新自由主義の時代には、アトム的世界観とは異なるものの見方、考え方が必要とされるようになる。そして、それに対応した社会が形成され、新しいリーダーが生まれることになる。---

 


 

 大きな疑問を抱いた箇所がありました。

 「佐藤  ちなみにノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話 シオン賢者の議定書』(ダイナミックセラーズ)という「シオン賢者の議定書」に関する本は内田樹さんが訳していますね。彼は率直に言って日本の典型的なユダヤ陰謀論者です。--- こういう陰謀の神話であり、偽書ですよ、という形になっていますが、それこそ陰謀論者の典型的な言い方です。偽書と言いながら紹介するのが実際の狙いです。--- 」

 私は、全部とは言いませんが、内田樹が書いた本をたくさん読んでいる読者です。

 上で、佐藤優さんが紹介している本も読んでいます。

 佐藤優さんは、あの本をきちんと読んでいるのでしょうか。 

 内田樹が「典型的なユダヤ陰謀論者」という指摘は、当たらないと思います。 

 こういう乱暴な論を平然と口にするということは、佐藤優さんが得意とするロシア関連のインテリジェンス情報もこの口に入るのかもしれないと、疑念を抱き始めています。

 


新リーダー論  池上彰・佐藤優  文春新書 ④

佐藤 米国の大統領選でのトランプとサンダースの躍進と同様に、英国のEU(欧州連合)離脱の背景にも、エリート層に対する大衆の不満が見てとれます。---

--- イギリスは、実際は、一国でポンドという独自通貨を持つような力は持っていませんが、旧植民地とのコモンウェルスのネットワークが強い。そこでは人、物、金の移動の制限がもともとかなり緩かった。だからシェンゲン協定(出入国審査なしでヨーロッパ国家間の移動を認める協定。イギリスとアイルランドは参加していない)がなくたって困らなかった。コモンウェルスから人が入ってくるからです。

池上 しかし離脱派は、現実とはかけ離れたバラ色の主張を振りまいていました。

「EUを離脱すれば、EUへの分担金(週当たり約480億円)が浮くので、これを国民保健サービスに使える」

「EUを離脱すれば、移民を受け入れないで済む」

「EUを離脱しても、従来通り、EUとの関税なしの貿易は続けられる」

 しかし、こう主張していた離脱派の政治家は、国民投票の後になって、「あのスローガンは過ちだった」「可能性を言ったにすぎない」などと、公約がウソだったことをみずから認めています。---

 

       ---------------------------------------------------------------------

 

佐藤  ここまで、新自由主義の浸透と格差の拡大によって、先進各国の既存の政治体制が大きく揺れ動いていることを見てきましたが、「パナマ文書」が国際社会で大きな問題になったのも、これと同じ文脈です。---

 なぜこれだけ衝撃を与えたかと言えば、貧困層だけでなく中間層の生活基盤も脅かしつつある経済格差の拡がりが、世界各国に共通する問題として認識されているからです。---

池上  これは「合法的」に納税額を減らす仕組みです。たとえば、イギリス領バージン諸島で会社登記をすると、登録料さえ払えば、あとはどれだけ稼いでも税金はかかりません。こうすれば、世界中から富裕層が会社登記をしますから、登録料だけでもかなりの収入をうることができる。---

 自分たちの資産を守りたい各国の富裕層にとって、タックスヘイブンは貴重な存在です。しかも、顧客のプライバシーを徹底的に守ってくれるので心強い。---

佐藤  ただ、今回の「パナマ文書」の流出の仕方は、何かすっきりしないものを感じます。

 租税回避のためにペーパーカンパニーをつくるような会社は、セキュリティに関しては、NSA(アメリカ国家安全保障局)の出身者のような人材をリクルートするはずです。ですから完全防御で、通常、個人では破れない。---

 これがスノーデンのような個人だったり、ウィキリークスのような、どちらかというとアナーキズム的傾向を持つグループだったりしたら、「正義の闘争のためにわれわれがやった」と明らかにするはずです。

 ところが今回、情報源があくまでも匿名なのが不可解です。そう考えると、どこかで情報機関が絡んでいるのではないか、と。

 一つの仮説にすぎませんが、『南ドイツ新聞』の本社は、ミュンヘンにあります。ミュンヘンにある官庁は、ドイツ情報局。ですから、これは連邦情報局の仕事だという可能性がある。

池上  確かにドイツの政治家は出てきません。それと不思議なのは、アメリカの政治家も出ていない。---

佐藤 --- 仮説の一つにすぎませんが、英国がターゲットだとすれば、その目的はどこにあるのか。この問題の根底には、各国の為替ダンピング競争があります。---

 たとえば、ドイツには、ポンドが強いのは、英国がダーティーなことをやっていからだ、という不満があり、つぎのような仮説が考えられます。

 ドイツ・マルクを使っていたら、われわれの通貨はもっと強かった。ユーロを使うことで余計な国の面倒も引き受けさせられている。だからドイツ製品をユーロ圏内で売って黒字を稼いで何が問題なのか。英国は、コモンウェルス(英連邦)で同じような責任を果たしているのか。 --- 英国は植民地を持っています。そして本国と植民地の間では、ルールが変わっても構わない。英国はこのダブルスタンダードを悪用している、というわけです。

池上  パナマ文書で問題になった英国領バージン諸島は、アメリカの南側のカリブ海に浮かぶ島々で、英国の海外領土の一つです。---

佐藤  資本の論理からすれば、節税しようとするのは、当然です。営利企業の目的は、利潤を増大させて、資産を蓄積し、設備投資をし、技術開発や金融市場などに投資をして、さらに利潤を増大させるところにある。ですから、タックスヘイブンを利用して資本を節約することは正当なことです。

 しかし、国家は徴税しないといけない。国家の枠を超えての租税回避は、国家への反逆に類する。

 ですから、これは、国家対資本の闘いなのです。見えざる第三次世界大戦です。---

 


 

 「国家対資本の闘い --- 見えざる第三次世界大戦」なのだそうです。 

 

 

 


新リーダー論  池上彰・佐藤優  文春新書 ③

--- 池上 トランプと橋本徹は、似ている部分がある。

 橋本は、大阪の子供たちの学力が低いのは学校の先生のせいだ、教育委員会のせいだと言ってバッシングする。そうやって、わかりやすい敵をつくる。実はその背後には貧困の問題があるのに、そこには目を向けず、「先生が悪いんだ」と非難する。--- 「トランプがアメリカ大統領になることがいいことか悪いことか」とゲストに訊ねるテレビの番組で、「日本にとってはとんでもないことだ」と皆が答えているのに、ただ一人橋本徹だけが、「日本にとっていいことだ」と答えていました。「日本の独立について改めて議論するきっかけになるから」「駐日米軍がなくなったらどうするのかということを私たちが真剣に考えるきっかけになるから」というのです。トランプの発想と大変似ています。

佐藤  「米軍駐留をやめる」などと発言するトランプが、真面目に考えていないのは明らかです。注目を浴びさえすれば、何でもありなのです。

 橋下徹も、トランプも、先ほど述べた「サルコジ現象」の典型的症例です。「思考の一貫性の欠如」「知的凡庸さ」「攻撃性」「金銭の魅惑への屈服」「愛情関係の不安定」というサルコジの特徴のすべてが見事に当てはまります。---

             ---------------------------------

佐藤  ただ、ある意味では、共和党は自業自得と言えます。ウォールストリートの利益に迎合しながら、他方でティーパーティ(茶会)のような本来、異質なリバタリアンの勢力を取りこみ、政策に関しては、元トロツキストたちのネオコンに丸投げして、政治を放置してきた。そのつけが回ってきたのです。

池上  共和党崩壊への道のりは、共和党がティーパーティに乗っ取られたところから始まっています。「茶会」とは、アメリカがイギリスの植民地だった1773年に、イギリスの重税に反対するボストン市民がボストン湾に停泊中の貨物船から茶を投げ捨てた「ボストン・ティーパーティ」に由来する保守派の運動です。

--- そして6年前と4年前の選挙で、ティーパーティの若手の過激派が予備選に出てきて、それぞれの選挙区で共和党の重鎮の多くを叩き落としてしまったのです。共和党候補のかなりの部分がティーパーティに乗っ取られ、彼らが当選して共和党が議会多数派になりました。テッド・クルーズもその一人です。

 この連中が、いっさい妥協せず、オバマ大統領の政策にことごとく反対しました。---

--- 両党の予備選を取材したのですが、支持者にはそれぞれ特徴がありました。

 民主党のヒラリー・クリントンやバーニー・サンダース上院議員の集会では、支持者はたいていスマートな体形をしていましたが、共和党のドナルド・トランプの集会では、赤ら顔の肥満体の白人が多かった。---

 支持層はそのくらいはっきり違います。ただ、トランプの支持者も、ひとりひとりの人柄はいいのですけどね。--- 

 トランプも、サンダースも、既存の体制への反発を象徴していて、民衆の破壊願望に支えられています。---

佐藤  アメリカには、元々ワシントン政界の内輪でない者に対する期待がありますね。それゆえに、ジミー・カーターというジョージアの農場主が、突然、出てきて大統領になったりする。レーガンにしても、カリフォルニアの州知事は務めましたが、映画俳優あがりで、どちらかと言えば、政治の玄人ではない。クリントンも、アーカンソー州知事。日本で言えば、岩手県知事のようなイメージで、そういう人物がいきなり出てくると、「新鮮だ」と受け入れられる。

 要するに、現職であるとは必ずしも強みにならず、むしろマイナス要因になるのが、アメリカの選挙の特徴です。---

             --------------------------------

池上  過激な発言を繰り返すトランプですが、もし本当に大統領になったらどうなるでしょうか。---

佐藤  奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、トランプが大統領になったら戦争は遠のくと思います。

池上  「オバマはインテリだからむやみに戦争をしないだろう」と思うから、みんな勝手なことができる。他方、「トランプは何をやるかわからないから」という怖さが、抑止力になるというわけですね。

佐藤  それともう一つは、「金持ち喧嘩せず」です。

 トランプの周囲にいるのは、新自由主義のプロセスにおいて富を蓄積してエスタブリッシュされた連中ですから、失うものが多い彼らは、戦争のリスクを望まない。そうすると、「格差と平和」というパッケージになる。

 皮肉なことに「平和」と結びつくのは、「平等」ではなく、「格差」。そして「平等」に結びつくのは、「戦争」なのです。

 国民国家的な体制を取っているかぎり、戦争が起これば、金持ちの子供も、庶民の子供も、「平等」に「戦争」へ行かざるを得ない。--- 平等を最も確実に実現する方法は、第三次世界大戦ということになる。

池上  それが嫌ならば、格差を受け入れろ、ということになる。何とも皮肉なジレンマです。

                ----------------------

 


 

 トランプ大統領が現実の存在になった今、アメリカの政治がどういう方向に向かうのか、予断を許しません。 


新リーダー論  池上彰・佐藤優  文春新書 ②

池上 いまの世界を見渡して、「強いリーダー」として誰もが思い浮かべるのは、まずはロシアのプーチン大統領でしょう。---

 プーチンは、1952年にレニングラード(現サンクトぺルブルク)に生まれました。第二次大戦の際、レニングラードはドイツ軍に包囲され、100万人以上と言われる市民が亡くなりました。そうした悲惨な過去がまだ色濃く残る環境でプーチンは育ったはずです。プーチンの兄は、ドイツ軍に包囲された劣悪な環境の中で病気のために死んでいます。プーチンが生まれる前のことですが。そうした悲惨な歴史を持つレニングラードに生まれ育ったことで、「国家は強くなければならない」というトラウマになったのだと思います。

 さらにプーチンは、KGBの要員として駐在していた東ドイツで東欧社会主義の崩壊を経験し、ソ連の崩壊も身をもって経験しました。

 国家の崩壊という同様の経験をしたロシア国民が「強いリーダー」と「強いロシア」をめざすプーチンに共鳴するのも理由のないことではありません。ただ、その一方で、ロシア国内では、プーチンを批判する政治家やジャーナリストが相次いで不審な死を遂げていて、実に不気味です。---

佐藤  プーチンはかなりの教養の持ち主です。コジェーブと並ぶネオ・ヘーゲル哲学者のイリインの話が延々とプーチンの演説の中に出てきます。--- プーチンには人文系の教養があって、ロシアのインテリの系譜を引いています。

 ところが、メンタリティは、国家の政治指導者というより、KGBの中堅職員。エリツィンは、ソ連時代、共産党の政治局員で、その前は、スヴェルドロフスク(現在のエカテリンブルグ)という産業の盛んな大きな州の党第一書記を務めました。いわば事業本部長のような、さまざまなレベルのポストを歴任した上で、代表取締役会長になったようなものです。

 プーチンは違います。倉庫番が、突然、代表取締役社長兼会長になってしまった。---

 この点で、プーチンは、旧ソ連のリーダーとは異なるのです。---

 本来、ロシアは、国際法の濫用者であっても、無法者ではない。これは、小室直樹が指摘していたことです。--- 法的な議論を理詰めでやるとロシアは意外に弱いという弱点に小室直樹は気づいていた。ところが、プーチンにはそれが通じない。法を頭から無視するからです。---

 法や慣習、そして国際社会の世論を始めから無視するのは、彼がきちんと帝王学を修めていないからです。---

 あのような乱暴なリーダーが出てくるのも、世の中がそれだけ乱暴になっているから。新自由主義というのは、そういう乱暴な世界です。---

池上  現役の独裁者として外せないのは、北朝鮮の金正恩です。北朝鮮の正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」。国名に「人民」と「民主主義」という言葉が入っていますが、皮肉なのは、コンゴ民主共和国やアルジェリア民主人民共和国と同様に、わざわざ国名にこの言葉を入れている国はたいていそうなってはいないことです。北朝鮮も、親子三代が国のトップに君臨し続けています。---

 隣国でもあるわけですから、「理解不能」とつぶやくだけでは済まされません。どんな体制も、単なる暴力だけで70年も維持されるものではありません。

佐藤  その通りです。たとえば、金日成から金正日への権力の移行の際に、リーダー(首領)論が盛んに語られました。

 その理論によれば、二つの「福」がある。一つは「人民福」。こんなに素晴らしい人民をもっている、という首領にとっての幸福。もう一つは「首領福」。こんなに立派な首領を戴いている、という幸福。この二つの幸福の相互作用によってわが共和国は成り立っている、と論じる論文が数多く書かれました。

 首領としては、こんなに素晴らしい人民がいる、とへりくだる。人民としては、こんなにへりくだって下さる立派な指導者がいる。こんな幸福はない、と。

 実はここには、最も低いものが最も高くなる、というキリスト教の論理が入っています。この点は、北朝鮮体制を理解する上での重要なポイントです。そもそも金日成の両親は長老派の熱心な信者で、自身もクリスチャンでした。---

 北朝鮮のイデオロギーの根幹には、キリスト教的なものがあるわけです。---

 


 

 プーチンの資質の背景はよく理解できました。

 「金日成の北朝鮮」のイデオロギーの根幹には、キリスト教的なものがあったのですね。

 しかし、指導者が代わると、その指導者の持つ資質の色に染まっていくということですね。 

 


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