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夕日。


 今、見てきた夕日です。

 海岸の夕日です。

 夕日。.jpg

 こういう風景を目の前にすると、気持ちが厳粛なものになるのが不思議です。

 海の側に住んでいることの幸せを感じる一瞬です。



 

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愛着障害の克服  岡田尊司 光文社新書 ②


第2章  「医学モデル」から「愛着モデル」へ



--- 本来のうつ病は中高年に始まる病気である。--- しかし、20代や30代の人に「うつ」のような症状が起きていたり、あるいは若いころから似たような症状が続いていたり、一時的に治ってもくり返していたりする場合は、「うつ病」ではない可能性の方が高い。

 本当にうつ病にかかっている場合は、抗うつ薬の服用は有効な治療法で、自殺などの悲しい結末を避け、回復することにつながる。ところが、本当のうつ病ではない場合に、いくら抗うつ薬による治療をしても、良くなるどころか逆にだるくなり、薬の副作用ばかりが出て、むしろ調子が悪化してしまうこともある。---

 こうしたことがざらに起きているのである。本当の原因も必要な手当てももっと別にあるのだが、的外れな診断と治療を無理に当てはめようとするので、治療してもちっとも良くならないか、良くなっても効果は一時的で、またすぐに悪化するということになってしまう。

 なぜ、こんなことが起きてしまうのだろうか。

 その原因の一つは、医学モデルでは「症状」だけで診断することがあたりまえにおこなわれているということがある。この風潮は精神医療において顕著で、症状のチェックリストだけで診断する医師も珍しくない。そこに落とし穴がひそんでいる。---


 そしてもう一つの要因は、診断と治療の関係の逆転である。これはどういうことか。

 本来は、客観的な診断がまずおこなわれ、その診断に基づいて治療を考える、というのが道筋である。だが、現実はそうとは限らない。というのも、医師はどんな疾患も治せるわけではないからだ。

 治療できないものは、診断しても治せない。だが医師の本能としては、「患者を治したい」と思う。それゆえ、自分が治せない診断をして治療を断るよりは、治療の可能性がある診断をして治療しようとする。

 それは言い換えると、医師が持つ治療のレパートリーに診断が左右されるということだ。---

 治療するためには、薬の効果が期待できる病気と診断するか、「病気自体は治らないかもしれないが、症状は薬で改善が期待できる」として、症状に対して薬を投与するかである。

 したがって、医師が薬の治療にしか関心がないか、他に方法をもたないという場合には、本当ならもっと適正な診断のもと、より有効かつ根本的な対処がある場合でも、薬物療法を前提とした診断がおこなわれ、自動的に薬が投与されることになる。---

 つまり、「症状だけを見て、安易に薬を投与する」というケースが、あまりにも多すぎるのである。長年の習慣でそれしかできないというのが、多くの医師の現状なのである。

 そこには、医学モデル自体の限界も関係している。「症状を呈している患者の病気を治す」という枠組みが、現実の問題に対応できなくなっているのである。その結果、人々が必要としている手当と、医療が提供するサービスの間に、重大なミスマッチが起き、結局、国民を薬漬けにするだけで、その幸福と福祉の改善には、対価(医療費)に見合うほど貢献できていないという事態にもなっている。---



 今は、ごく一般の家庭でも、虐待が起きやすくなっている。明らかに痕跡が残る身体的な虐待でなくても、過度な支配や厳格さで、子どもを心理的に支配し、従わないと罰を与えるという形での心理的虐待は、頻繁に起きている問題だといえるだろう。---

 勉強ができるようになるために、と思ってしたことが、かえって子どもを勉強嫌いにしてしまい、拒絶反応を起こすようになるケースも珍しくない。これは子どもの才能を潰す行為でしかない。---

 ここで気になるのは、医学モデルによる診断と治療も、一つ間違えば虐待と同じ構造になってしまう危険性があるということだ。親が自分の基準から外れた子を「悪い子」とするだけでなく、医学までもが、親ではなくその子の方を「異常」と診断することは、虐待に加担することにならないだろうか。---

--- 困ったことに、診断したとたん、それが仮構(作り事)であるということを、専門家さえも忘れてしまう。いや、医療にかかわる専門家ほど、医学モデルに染まりすぎているので、仮構に過ぎない病名を、実体だと錯覚してしまう。

 その結果、ある病名と診断された「患者」は、その病気を抱えていると信じ込んでしまう。回復するためには、抱えているその病気を治さなければならないと思い込んでしまう。---


--- 医学モデルの限界やデメリットについてくり返し述べてきたが、誤解のないようにいえば、医学モデルがすべて悪いわけではない。もちろん効用のある面もあるし、だからこそ、長きにわたって生き延びてきたともいえる。--- 医学的な診断は、治療の方針を決めるという目的以外にも、本人への共感的な理解を促し、負担やプレッシャーを減らすという効能があるわけだ。---



 本書の冒頭にも述べたが、不安定な愛着と関連が深く、発症のリスクを高めることが知られている疾患や障害名は、ざっと並べただけでも次のようなものがある。うつ、中でも慢性のうつ状態、気分変調症、境界性パーソナリティ障害、不安障害、若年発症の双極性障害(躁うつ)、解離性障害、ADHD、非行(素行障害)、虚言癖、抜毛癖、窃盗癖、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、摂食障害、アルコール依存症、薬物依存症、インターネット依存症などの依存症・・・・・などなど。---

 愛着の問題は、うつや不安、自己否定といった精神的な問題だけでなく、虚言や非行、依存行為、自傷など自己破壊的行為など、行動の問題に結びつきやすいことも知られており、その人の生活や人生に破壊的な作用を及ぼしてしまうことも少なくない。---

--- いったん本人の病気や障害と診断されてしまうと、あくまで本人の「異常」や「問題」とみなされ、治療や手当が施される場合も、その標的は、本人自身の症状や問題行動となることが多い。もっと大きな原因が、すぐ近くにでんと構えているのに、そこに目を向けないのだ。そこに働きかけをおこなうべきなのに。

 このような医学モデルでは、たとえ症状を改善できたとしても、根本的な解決にはならないどころか、もっとさまざまな症状が起きてきたり、将来もっと厄介な問題が生じてしまったりすることもある。なぜなら、症状や問題行動というのは、本当の問題の存在を知らせ、それに真に必要な対処をするようにと警告してくれているのもだからである。---

 いくつも病名が並んでしまうような複雑な症状を示すケースほど、そこには愛着の問題が絡んでいる可能性が高い。そうしたケースほど、医学モデルよりも愛着モデルがうまく当てはまることが多い。愛着モデルによって、単にその病態の理解が助けられるだけでなく、解決の方策も見えてくるのである。---



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 医学モデルによって、症状から診断が下され、病名が付くと患者も安心するという件には、自分のことを言われているように思いました。


 私たちは、そういう治療にすっかり慣れてしまったように思います。





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愛着障害の克服  岡田尊司 光文社新書 ①


はじめに


--- あなた自身が生きづらさを抱えている場合はもちろん、あなたが周囲の人との関係で苦しさや悩みを感じているという場合、そこには不安定な愛着の問題が、しばしばひそんでいる。愛着は、後天的に見につけたものであるにもかかわらず、まるで生まれもった遺伝子のように、その人の行動や情緒的な反応、ストレスへの耐性など、人格の重要な部分を左右し、結果的に人生さえも左右する。---



第1章  なぜ、愛着なのか


 なぜ、愛着という視点を取り上げて、そこに注目するのか。


 わかりにくい人間関係の綾や、予想とは正反対に動く理解しがたい心理的現象も、愛着というメカニズムで考えると、すんなり理解できることが多いということもあるが、それ以上に、愛着が重要だと考える理由は、愛着の部分にアプローチすることで、他のアプローチではどうすることもできない、きわめて改善が難しいようなケースでも、劇的ともいえる改善を得ることができるからだ。

 そのことを私が学んだのは、医療少年院での臨床経験からであった。---


 本来は親などの家族が、その人の安全基地となればいいのだが、親との愛着が不安定になったケースでは、それが難しい。そこで臨時の安全基地となった存在が橋渡しとなって、肝心な家族との関係を繋いでいく。

 中立的な善意の第三者とは、医療少年院の場合には、本人を担当する教官や医師である。---

 とはいえ、感情的に巻き込まれやすい人は、こうした役割を担いにくい。子どもがこちらを傷つけるような暴言を吐いたからといって、すぐに腹を立ててしまったり、そのことを引きずってしまったりする人は、安全基地には向かない。

 暴言には反応しない冷静さとともに、暴言の背後にある本人の気持ちを読み取って、そちらに反応することのできる能力が必要になる。こうした能力を備えている人は、専門家といえども少ないのが現実だが、優れた支援者となれる人には共通して備わっている能力である。---


 もちろん、最も効果を発揮するのは、愛着の問題がダイレクトにかかわっているようなケースであるが、愛着とは直接関係のないように見える問題、たとえば、不登校やネットゲーム依存、ひきこもりや不安障害、心身症やストレス障害、強迫性障害や統合失調症のような精神疾患、先天的要因の強い発達障害や知的障害のケースでも、安全基地を強化し、愛着を安定化させることによって、多くの問題が改善に向かうのである。---


 医学モデルと愛着モデル、この両モデルの根本的な違いの一つは、医学モデルでは、症状を呈している人を「病んでいる人」、つまり「患者」とみなすという点である。そして診断に基づいて治療を施される対象も、この「病んでいる患者」本人ということになる。

 だが愛着モデルでは、患者は患者ではない。本当に病んでいて、症状を引き起こす原因になっている者が、他に存在するのである。医療少年院の少女に見られたように、症状を呈している子どもをいくら診断し、治療しようとしたところで、改善は難しい。なぜかといえば、症状の本当の原因が、子ども本人にあるというより、子どもを育ててきた環境や、周囲の大人との関係の方にあるからである。

 患者とされて連れてこられた子どもは、二次的に病気にさせられているのである。その子どもから病気が始まっているというよりも、周囲との関係の中で、症状を呈するようになっている。本当の原因は、子どもを守るどころかむしろ傷つけてきた、周囲や環境や大人との関係にある。

 それゆえ、いくら子どもを治療しようと努力しても、何の効果もない。

 ところが、その子にかかわる大人の気持ちや態度を変えることによって、子どもが劇的に変化するということが起きるのである。

 つまり診断され、治療されるべきは、子どもよりもむしろ、子どもをそういう状態に追い込んだ環境であり、周囲の大人との関係なのである。そしてその診断・治療において目安となり、改善目標となるものが、不安定な周囲との関係の中で、何とか生き延びるために生まれた「不安定な愛着」なのである。---


 不安定な愛着は、子どもだけの問題ではない。克服されないままだと、大人になろうと中年になろうと老人になろうと、持続してしまう。その状態が続くと、ストレス耐性や社会適応力は低下し、傷つきやすくネガティブで、不満や怒りにつねに心をかきむしられる人になってしまう。若いころから、何か問題があるたびに周囲を責め続けていた人は、老人になって認知症が始まっても、まだ同じことをしている。何の進歩もないままに、一生を終えてしまう。---




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 第2章で、「医学モデル」と「愛着モデル」の違いがより詳しく説明されるのですが、その基本となる考え方は、前に読んだ「ネガティブ・ケイパビリティ・・・・・・」の著者が考えていることと共通するものがあります。



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脈絡なく。


 またまた、間隔が大きく空いてしまったこのブログですが、再開します。

 空いていた時に写した画像たちの中から、いくつかを載せます。

 まったく脈絡なしですが、私としては、少し興味深く思ったものたちです。


 先ず、「サギの対決」。

 サギの対決。.jpg

 いつもの川沿いの道を通ったら、「アオサギ」と「ダイサギ」がじっと睨み合っていました。

 じっと睨み合って、動きません。写真を撮り終わって、暫く見ていたのですが、まったく動きませんでした。

 「縄張り争い」なのでしょうか。

 「アオサギ」は1羽だけ、「ダイサギ」は何羽かが集まってきていました。

 あの後、どうなったのでしょう?


 次は、「氏神さまに初詣」です。

 氏神さま。.jpg

 外出した帰りに寄りましたので、辺りが暗くなり始めていましたが、それでも長蛇の列が出来ていました。

 長蛇の列が出来るようになったのは、ここ数年のことです。

 地元民としては、氏神さまの存在が評価されるのは嬉しいことです。

 

 三つ目は、「河津桜」です。

 鎌倉の大塔宮へ初詣に行ってきました。

 鳥居の前の「河津桜」が、満開でした。

 河津桜。.jpg


 この日は、雨が降るという予報が出ていたせいか、人影がまばらでした。


 最後は、成田空港の風景です。

 正月休みが終わって、仕事に戻る娘を見送りに行ってきました。

 国際線出発ロビーの風景です。

 成田空港。.jpg

 こんなに短い間隔で飛び立っていくことにびっくりです。

 飛行機が空を飛ぶことを、未だに不思議に思う私は、ただただ感心するばかりです。



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ゆず。


 お雑煮の香り付け用に、ゆずを買いました。

 毎年思うのですが、お正月用品は高いです。

 でも、このゆずは、この数で、何と¥.200でした。

 緑と黄色の組み合わせを眺めていると、気持ちが和んで、歳末の慌ただしさを忘れさせてくれます。


 ゆず。.jpg



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我が家のクリスマス。



 我が家も、細やかながら、クリスマスイブを祝いました。


 クリスマスイブ 1.jpg


 今年は、ガラス戸にイルミネーションを飾り付けましたので、少しばかり賑やかでした。


 こちらは、玄関の靴箱の上に飾りました。

 クリスマスイブ 2.jpg


 たとえ細やかでも、世間に合わせて、単調な毎日に変化を持たせることが大切のようです。

 

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散歩。


 いろいろありまして、すっかり間が空いてしまいましたが、ブログの再開です。


 今日は言うことなしの上天気でしたので、買い物の帰りに足を伸ばして海岸まで行ってきました。


 残念ながら、富士山には雲が掛かっていて裾の方しか見えませんでしたが、撮ってきました。

 富士山の手前に見えているのは、江の島です。

 雲が掛かった富士山。.jpg


 河口の水が、今日は澄み切っていました。

 河口の水。.jpg



 話は、全く変わりますが、下の画像は「こんにゃく芋」です。

 皮を落として、煮て、すりつぶして、「こんにゃく」にするのだそうです。

 自分で育てた「こんにゃく芋」を「こんにゃく」にして、お店で出していると板前さんが見せて下さいました。

 こんにゃく芋。.jpg


 初めて見た「こんにゃく芋」でした。

 皮を少し残すと、「こんにゃく」の色が黒くなるそうです。



 

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箱根 長安寺。


 箱根の仙石原にある「長安寺」へ行ってきました。


 まず、行きの東名高速道路、松田のあたりで事故渋滞に巻き込まれました。

 でも、見て下さい。

 真正面に、美しい富士山の姿が。

 富士山。.jpg

 これなら、渋滞も苦になりません。


 その後、渋滞も解消して「長安寺」へ。

 駐車場を出て参道に入ると、直ぐに弁天池が見えます。

 弁天池。.jpg

 その、弁天池の中に面白いものが見えます。

 鯰の背に乗った「羅漢」さまです。

 ナマズ。.jpg

 この羅漢さまだけでなく、いろいろな表情の羅漢さまが、水の中のあちこちにおられます。

 そして、前に進んで山門です。

 山門。.jpg

 山門を入ると、正面が本堂です。

 本堂。.jpg

 本堂はこじんまりとした建物ですが、背面の山を含めた広い境内のあちこちに、「五百羅漢」像が配置されています。

 まだ、「五百」体には達していないようですが、数え切れないほどの羅漢さまたちがおられました。

 そして、羅漢さまたちの表情が豊かです。

 同じ表情の羅漢さまはおられませんでした。

 たくさん撮ってきたのですが、全部は載せられません。

 一部だけですが、どうぞ、見て下さい。

 五百羅漢 1.jpg

 五百羅漢 2.jpg

 五百羅漢 3.jpg

 五百羅漢 4.jpg

 五百羅漢 5.jpg

 五百羅漢 6.jpg

 五百羅漢 7.jpg

 まだまだたくさんの表情の羅漢さまたちがおられました。

 まるで、野外彫刻展を見ているようなたのしさでした。


 最後に、生きた「猫」です。

 どうやら、お寺で飼われている猫のようでした。

 猫。.jpg

 紅葉はまだ早かったようでした。

 紅葉。.jpg

 

 

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IZU PHOTO MUSEUM。

 

 静岡県長泉町にある、「IZU PHOTO MUSEUM」へ行ってきました。

 駐車場を出て美術館に向かおうとしたら、見慣れた作品が目に飛び込んできました。

 これです。

 淺井裕介 作品。.jpg

 そう、淺井裕介さんの作品です。

 「こんなに遠いところまで・・・・・。」と思ったのですが、そうではなくて今は、日本中に作品が存在しているんですよね。


 そして、「IZU  PHOTO  MUSEUM」の入り口です。

 写真美術館の入り口。.jpg

 正面入り口の壁に「IZU  PHOTO  MUSEUM」の文字が入っているのですが、少し見にくい。

 IZU  PHOTO  MUSEUM.jpg


 

 ここに来た目的は、「澤田教一 故郷と戦場」写真展を見るためです。


 澤田教一は、<安全への逃避>を含むベトナム戦争の写真で、1966年にピュリツアー賞を受賞したカメラマンです。

 カンボジアを取材した一連の写真により、1971年にロバート・キャパ賞も受賞しているのですが、澤田教一本人は、1970年、カンボジア取材中にプノンペン近郊で銃殺されて34歳で亡くなっています。


 今回は、それら受賞作品を含めた約300点の写真等が展示されていました。


 有名な写真ですから、これまでも見たことはありました。

 しかし、これほどの量の写真を見たのは初めてですし、丁寧に説明文を読みながら見たのも初めてです。


 改めて言うまでもないことですが、ずっしりと重い内容の写真たちでした。

 当たり前と言えば当たり前の話なのですが、アメリカ軍の兵士の顔もベトコンの兵士の顔も、倦んで、疲れて、早く終わらせたいという想いが強く伝わってくる表情でした。

 フエの古城を破壊するアメリカ軍の攻撃の様子は、シリアで展開されたIS軍の暴挙と変わらないのではないかと思いました。

 戦争は、いつの場合も、為政者が始めて、前線で戦うのは一兵卒です。

 そして、戦争に巻き込まれて逃げ惑うのは、何の罪もない一般市民です。


 この写真展を見れば、誰もが「戦争は嫌だ」と思うでしょう。


 こういう写真を、日本中の子どもたちに見せたいです。小さい子どもたちに見せたい。

 理屈ではなく、肌で、戦争のばかばかしさを知ってもらいたい。


 今の小学校の現場で、こういう写真を見せることは、きっと相当難しいことと思います。

 それでも、小学校の先生たちの中に、行動を起こしてくれる人が現れることを願います。



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草むしり。

 二つ目の台風が通り過ぎて行きました。

 幸い、被害はありませんでした。

 雨が降ったあとは、草むしりがし易くなります。

 という訳で、前から気になっていた、庭の草むしりの重い腰を上げました。

 草むしりをしていて、感動するものを発見しました。

 これです。

 名前を知らない花 1.jpg

 名前も分からない花ですが、ひっそりと咲いていました。

 そして、こちら。

 花? 新芽?.jpg

 花かと思いましたが、もしかすると、新芽?


 最後に、こちらは「ツワブキ」です。

 ツワブキ。.jpg


 手入れらしき手入れもしていないのに、ちゃんと咲く花。

 自然の生命力には、感動します。



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