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新リーダー論  池上彰・佐藤優  文春新書 ③

--- 池上 トランプと橋本徹は、似ている部分がある。

 橋本は、大阪の子供たちの学力が低いのは学校の先生のせいだ、教育委員会のせいだと言ってバッシングする。そうやって、わかりやすい敵をつくる。実はその背後には貧困の問題があるのに、そこには目を向けず、「先生が悪いんだ」と非難する。--- 「トランプがアメリカ大統領になることがいいことか悪いことか」とゲストに訊ねるテレビの番組で、「日本にとってはとんでもないことだ」と皆が答えているのに、ただ一人橋本徹だけが、「日本にとっていいことだ」と答えていました。「日本の独立について改めて議論するきっかけになるから」「駐日米軍がなくなったらどうするのかということを私たちが真剣に考えるきっかけになるから」というのです。トランプの発想と大変似ています。

佐藤  「米軍駐留をやめる」などと発言するトランプが、真面目に考えていないのは明らかです。注目を浴びさえすれば、何でもありなのです。

 橋下徹も、トランプも、先ほど述べた「サルコジ現象」の典型的症例です。「思考の一貫性の欠如」「知的凡庸さ」「攻撃性」「金銭の魅惑への屈服」「愛情関係の不安定」というサルコジの特徴のすべてが見事に当てはまります。---

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佐藤  ただ、ある意味では、共和党は自業自得と言えます。ウォールストリートの利益に迎合しながら、他方でティーパーティ(茶会)のような本来、異質なリバタリアンの勢力を取りこみ、政策に関しては、元トロツキストたちのネオコンに丸投げして、政治を放置してきた。そのつけが回ってきたのです。

池上  共和党崩壊への道のりは、共和党がティーパーティに乗っ取られたところから始まっています。「茶会」とは、アメリカがイギリスの植民地だった1773年に、イギリスの重税に反対するボストン市民がボストン湾に停泊中の貨物船から茶を投げ捨てた「ボストン・ティーパーティ」に由来する保守派の運動です。

--- そして6年前と4年前の選挙で、ティーパーティの若手の過激派が予備選に出てきて、それぞれの選挙区で共和党の重鎮の多くを叩き落としてしまったのです。共和党候補のかなりの部分がティーパーティに乗っ取られ、彼らが当選して共和党が議会多数派になりました。テッド・クルーズもその一人です。

 この連中が、いっさい妥協せず、オバマ大統領の政策にことごとく反対しました。---

--- 両党の予備選を取材したのですが、支持者にはそれぞれ特徴がありました。

 民主党のヒラリー・クリントンやバーニー・サンダース上院議員の集会では、支持者はたいていスマートな体形をしていましたが、共和党のドナルド・トランプの集会では、赤ら顔の肥満体の白人が多かった。---

 支持層はそのくらいはっきり違います。ただ、トランプの支持者も、ひとりひとりの人柄はいいのですけどね。--- 

 トランプも、サンダースも、既存の体制への反発を象徴していて、民衆の破壊願望に支えられています。---

佐藤  アメリカには、元々ワシントン政界の内輪でない者に対する期待がありますね。それゆえに、ジミー・カーターというジョージアの農場主が、突然、出てきて大統領になったりする。レーガンにしても、カリフォルニアの州知事は務めましたが、映画俳優あがりで、どちらかと言えば、政治の玄人ではない。クリントンも、アーカンソー州知事。日本で言えば、岩手県知事のようなイメージで、そういう人物がいきなり出てくると、「新鮮だ」と受け入れられる。

 要するに、現職であるとは必ずしも強みにならず、むしろマイナス要因になるのが、アメリカの選挙の特徴です。---

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池上  過激な発言を繰り返すトランプですが、もし本当に大統領になったらどうなるでしょうか。---

佐藤  奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、トランプが大統領になったら戦争は遠のくと思います。

池上  「オバマはインテリだからむやみに戦争をしないだろう」と思うから、みんな勝手なことができる。他方、「トランプは何をやるかわからないから」という怖さが、抑止力になるというわけですね。

佐藤  それともう一つは、「金持ち喧嘩せず」です。

 トランプの周囲にいるのは、新自由主義のプロセスにおいて富を蓄積してエスタブリッシュされた連中ですから、失うものが多い彼らは、戦争のリスクを望まない。そうすると、「格差と平和」というパッケージになる。

 皮肉なことに「平和」と結びつくのは、「平等」ではなく、「格差」。そして「平等」に結びつくのは、「戦争」なのです。

 国民国家的な体制を取っているかぎり、戦争が起これば、金持ちの子供も、庶民の子供も、「平等」に「戦争」へ行かざるを得ない。--- 平等を最も確実に実現する方法は、第三次世界大戦ということになる。

池上  それが嫌ならば、格差を受け入れろ、ということになる。何とも皮肉なジレンマです。

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 トランプ大統領が現実の存在になった今、アメリカの政治がどういう方向に向かうのか、予断を許しません。 


新リーダー論  池上彰・佐藤優  文春新書 ②

池上 いまの世界を見渡して、「強いリーダー」として誰もが思い浮かべるのは、まずはロシアのプーチン大統領でしょう。---

 プーチンは、1952年にレニングラード(現サンクトぺルブルク)に生まれました。第二次大戦の際、レニングラードはドイツ軍に包囲され、100万人以上と言われる市民が亡くなりました。そうした悲惨な過去がまだ色濃く残る環境でプーチンは育ったはずです。プーチンの兄は、ドイツ軍に包囲された劣悪な環境の中で病気のために死んでいます。プーチンが生まれる前のことですが。そうした悲惨な歴史を持つレニングラードに生まれ育ったことで、「国家は強くなければならない」というトラウマになったのだと思います。

 さらにプーチンは、KGBの要員として駐在していた東ドイツで東欧社会主義の崩壊を経験し、ソ連の崩壊も身をもって経験しました。

 国家の崩壊という同様の経験をしたロシア国民が「強いリーダー」と「強いロシア」をめざすプーチンに共鳴するのも理由のないことではありません。ただ、その一方で、ロシア国内では、プーチンを批判する政治家やジャーナリストが相次いで不審な死を遂げていて、実に不気味です。---

佐藤  プーチンはかなりの教養の持ち主です。コジェーブと並ぶネオ・ヘーゲル哲学者のイリインの話が延々とプーチンの演説の中に出てきます。--- プーチンには人文系の教養があって、ロシアのインテリの系譜を引いています。

 ところが、メンタリティは、国家の政治指導者というより、KGBの中堅職員。エリツィンは、ソ連時代、共産党の政治局員で、その前は、スヴェルドロフスク(現在のエカテリンブルグ)という産業の盛んな大きな州の党第一書記を務めました。いわば事業本部長のような、さまざまなレベルのポストを歴任した上で、代表取締役会長になったようなものです。

 プーチンは違います。倉庫番が、突然、代表取締役社長兼会長になってしまった。---

 この点で、プーチンは、旧ソ連のリーダーとは異なるのです。---

 本来、ロシアは、国際法の濫用者であっても、無法者ではない。これは、小室直樹が指摘していたことです。--- 法的な議論を理詰めでやるとロシアは意外に弱いという弱点に小室直樹は気づいていた。ところが、プーチンにはそれが通じない。法を頭から無視するからです。---

 法や慣習、そして国際社会の世論を始めから無視するのは、彼がきちんと帝王学を修めていないからです。---

 あのような乱暴なリーダーが出てくるのも、世の中がそれだけ乱暴になっているから。新自由主義というのは、そういう乱暴な世界です。---

池上  現役の独裁者として外せないのは、北朝鮮の金正恩です。北朝鮮の正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」。国名に「人民」と「民主主義」という言葉が入っていますが、皮肉なのは、コンゴ民主共和国やアルジェリア民主人民共和国と同様に、わざわざ国名にこの言葉を入れている国はたいていそうなってはいないことです。北朝鮮も、親子三代が国のトップに君臨し続けています。---

 隣国でもあるわけですから、「理解不能」とつぶやくだけでは済まされません。どんな体制も、単なる暴力だけで70年も維持されるものではありません。

佐藤  その通りです。たとえば、金日成から金正日への権力の移行の際に、リーダー(首領)論が盛んに語られました。

 その理論によれば、二つの「福」がある。一つは「人民福」。こんなに素晴らしい人民をもっている、という首領にとっての幸福。もう一つは「首領福」。こんなに立派な首領を戴いている、という幸福。この二つの幸福の相互作用によってわが共和国は成り立っている、と論じる論文が数多く書かれました。

 首領としては、こんなに素晴らしい人民がいる、とへりくだる。人民としては、こんなにへりくだって下さる立派な指導者がいる。こんな幸福はない、と。

 実はここには、最も低いものが最も高くなる、というキリスト教の論理が入っています。この点は、北朝鮮体制を理解する上での重要なポイントです。そもそも金日成の両親は長老派の熱心な信者で、自身もクリスチャンでした。---

 北朝鮮のイデオロギーの根幹には、キリスト教的なものがあるわけです。---

 


 

 プーチンの資質の背景はよく理解できました。

 「金日成の北朝鮮」のイデオロギーの根幹には、キリスト教的なものがあったのですね。

 しかし、指導者が代わると、その指導者の持つ資質の色に染まっていくということですね。 

 


京都迎賓館。

 「京都迎賓館」の見学をしてきました。

 先ず、京都御所に入ります。

 京都御所の持つ「静謐」な空気に圧倒されました。

 昔、京都御所の見学に来た時には気付きませんでした。

 この年齢になって、初めて感じるものがあることに気付かされた今回でした。

  京都御所。.jpg

 突き当りを右に折れた先に、「京都迎賓館」見学者の集合場所がありました。

 白いテントが、集合場所です。

 見学者の集合場所。.jpg 

 地下の集合場所で待つこと1時間。( 早く着き過ぎたからですが。)

 30人と少しの団体が一組となって、説明を聞きながら見学します。

 正面の入り口に到着しました。

 ここで、靴をスリッパに履き替えます。

 白い箱が見学者用の下駄箱です。まるで、コインロッカーです。興ざめでした。

 正面入り口。.jpg 

 建物に入ってすぐの廊下です。床には、見学者用のシートが貼ってあり、柵も作られていました。

 これにも、興ざめでした。

  廊下。.jpg

 大広間の照明器具です。

 照明位置を電動で上げ下げすることが出来るそうです。

 照明器具。.jpg 

 部屋から見える中庭の池です。

 常緑の「根引草」という植物が植えてありました。稲に似ているけれど、稲と違って一年中緑を保つ草だそうです。

  池。.jpg

 こちらは、ドウダンツツジの庭です。

 現在は、茶色くて丸い塊となっているのがドウダンツツジです。

 紅葉の頃に見てみたいと思いました。 

 ドウダンツツジの庭。.jpg 

 鯉が泳ぐ池には、和船も舫ってありました。

 この和船には、ブータン国王ご夫妻がお乗りになって池の周遊をなさったそうです。 

  和船。.jpg

 これらの画像には写っていませんが、15分置きに出発した30数名の団体が、説明を受けながら館内を歩いています。

 決して優雅な気分を味わう雰囲気ではありません。

 しょうがないこととは思いますが、もう少し見学の方法を考えてくれても良いのではないでしょうか。

 

 さて、最後に、新幹線の中から写した富士山の姿です。

 いつ見ても美しい富士山です。

  車窓から見た富士山。.jpg

 

 

 

 


新リーダー論  池上彰・佐藤優  文春新書 ①

 

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池上  どの先進国でも、大衆迎合型のポピュリズムが勢いづいています。英国EU離脱にしても、米国大統領選での共和党候補トランプの躍進にしても、フィリピンのドゥテルテ大統領誕生にしても、社会の指導者層、エリート層に対する大衆の不満が爆発した結果と言えます。つまり、従来のリーダーやエリートのあり方それ自体が問われているのが、今日の状況です。---

佐藤  今日、エリートやリーダーのあり方が以前と大きく変わってきているのは、経済のグローバル化、すなわち新自由主義の浸透と深く関係しています。格差が拡大し、階層が固定していくなかで、エリートと国民の間の信頼関係が崩れ、民主主義がうまく機能していないからです。

 民主主義は、世界中で機能不全に陥っています。ところが、民主主義に代わる制度は見つからない。

池上  「民主主義は最悪の政治体制であるらしい。ただし、これまでに試みられた民主主義以外のすべての政治体制を除けば、という話であるが」と、英国のチャーチルが述べたように、民主主義に問題があるとしても、民主主義に代わる政治体制は存在しません。---

池上  世界的に見ても、民主主義は岐路に立っているようです。各地で「強いリーダー」を求める声が高まっています。米国の大統領選でのトランプ旋風はその典型でしょう。---

--- しかし、今、どのようなリーダーが求められているのか、なかなか明確に見えてこない。

佐藤 それは社会の変化を反映しています。その一つが、エリートの自信喪失です。---

 そこにさらに、社会がアトム化して、社会的連帯が弱まっていることに対する不安も加わっている。

池上  アトム化、つまり原子のようにバラバラになっている、ということですね。そうして社会全体が進むべき方向を見失っているわけですね。だからこそ「強いリーダー」を待望する心理が働いている。人々は、不安から強いリーダーを求めているわけです。

佐藤  けれども、強いリーダーを育成しようとしても、これだけ個人が砂粒のようにバラバラにアトム化しているところでは、リーダーは出てきようもありません。どの先進国も、そういうジレンマに陥っています。---

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佐藤  柚木麻子の『伊藤くん A to  E』(幻冬舎)という小説があります。

「伊藤くん」は、そこそこの大学を卒業した千葉の大地主の子供で、予備校の先生をやっている。仕事もクビになったりするけれども、シナリオライターになる夢を持っている。しかし一度もシナリオを書いたことがない。何よりも嫌なのが人に侮辱されることなので、勝負に出てシナリオを書くようなことは決してない、絶対に土俵に上がらない男。見た目はちょっといい感じだからもてるけれど、実はとんでもないやつだ、という話を付き合った女性AからEまでそれぞれの視点から描いている小説です。

 最近の若手官僚の全能感は、まさにこの「伊藤くん」のイメージです。

 最近の若手官僚の全能感や「伊藤くん」の自己本位のナルシシズムは、新自由主義と裏腹の関係にあります。

池上  新自由主義とは、いわばお金以外に価値基準がないということで、そうした価値観不在の環境から生じるのがナルシシズムだ、ということですね。

佐藤  そうです。その先陣を切ったのは、前仏大統領の二コラ・サルコジでしょう。フランスの人口学者、エマニュエル・トッドが優れたサルコジ論(『デモクラシー以後』石崎春巳訳、藤原書店)を書いています。

 トッドは、サルコジの特徴として、「思考の一貫性の欠如」「知的凡庸さ」「攻撃性」「金銭の魅惑への屈服」「愛情関係の不安定」という五つの資質を挙げています。

 その上で、ナルシシズムの問題を、単なるサルコジ個人の問題ではなく、フランス社会、とくにフランスのエリート層全般に関わる問題と位置付けています。そしてこう述べています。

「彼が当選に成功したのは、われわれの周り、われわれの裡にある最悪のものを体現し、助長することによってである」

「彼の否定性が、人々の心を引きつけたのだ。強い者への敬意、弱者への軽蔑、金銭への愛、不平等への欲求、攻撃の欲望、大都市郊外やイスラーム諸国やブラック・アメリカの人々をスケープゴートに仕立て上げる手口、目くるめく自己陶酔、己の感情生活 ── ということは暗黙のうちに性生活ということになる ── の公衆の面前での公開、これらすべての無軌道な漂流が、フランス社会の総体に働きかける」(『デモクラシー以後 』) 

池上  まるで、現在選挙戦中の別の国の大統領候補を評する言葉であるかのようです。

佐藤  トランプは「アメリカ版のサルコジ」で、安倍首相も多かれ少なかれ「ミニ・サルコジ」なのです。サルコジの登場はそのくらい大きな意味を持っていました。---

佐藤  ここで考えなければならないのは、サルコジ現象は、かつてのレーガン米大統領、サッチャー英首相の出現とは、まったく質を異にしているという点です。

 レーガン、サッチャーが登場したのは、社会の「地」の方は社会民主主義的で、国家による富の再配分で「ゆりかごから墓場まで」と言われた時代でした。そういう環境で、レーガンとサッチャーは、批判を顧みず敢えて、「これでは国家も社会も弱体化する一方だから競争原理を導入しろ」と主張したのです。当時、「レーガンみたいなやつ」や「サッチャーみたいなやつ」と思われるのは、恥ずかしいことでした。

 ところが、新自由主義が社会の隅々まで浸透した結果、それがいまや素晴らしいことに思われている。エリートほど新自由主義的価値観を当然視しています。そして、権力を持ったエリートが、社会全体に対する責任を思う前に、自己利益や自己実現ばかりを優先しているのです。---

 しかも問題は、これが右派・左派に共通の現象として起きていることです。『デモクラシー以後』には、ある一人のフランス社会党のインテリ活動家を取り上げた印象的な箇所があります。

 一流企業の管理職でもあるこのインテリ女性活動家は、党の地方支部でサンドウィッチを用意したり、ワインの栓を抜いたり、何でも雑用はこなすが、討論の場では何も言わない「下働きのお針子」のような民衆層の活動家と、自分をはっきり区別します。そして「活動家というのは、じっくり考え、話し、文を書き、議論をし、意見を言い、考えを主張する人間」のことで、「ワインの栓を抜く人間のことではありません」と述べています。

 このような他者認識、自己認識は何を意味するのか。「民衆タイプの者であれ、教師タイプの者であれ、教義に対しては受動的な関係にありつつ、自分は党のために働いている、大義のために働いている、と考えていた」「かつての活動家」に対し、この女性のような新しいタイプの活動家は、「とりわけ意見を表明するため、個人的に『自己実現する』ために」やってきている、ということです。

 しかし、トッドに言わせれば、これはナルシシズムでしかなく、彼女のような「理想的な活動家」こそが、実のところサルコジ大統領を誕生させた、と説いているわけです。なぜなら左派勢力から民衆層を積極的に排除することで、結局は、国民戦線の出現を助長し、サルコジ主義を助長したからです。

「こうした活動家は、高等教育革命によって育まれた数百万の新たなナルシストの一人である。自分は教義の『クリエーター』であると考え、自分の『発言』の独創性が事を前進させると想像している。発言とは行動である、と考える、遂行的活動形態なのだと言うこともできよう。(略)この21世紀初頭にあって、この饒舌な露出狂は、フランス社会の上層部全体を浸している」---

 


 

 この本の第1刷発行は、2016年10月20日。  まだ、トランプ大統領は誕生していませんでした。

 しかし、サルコジを例に挙げて語られる「強いリーダー」登場の背景はわかり易いものですし、トランプ登場の背景がよく分かります。


「耳障り」考。

 今、「カルテット」というドラマにハマっています。

 「会話劇」と言って良いのではないでしょうか。

 言葉のキャッチボールが、すご面白いドラマです。

 毎回、4人の登場人物たちの間で交わされる「言葉のキャッチボール」を愉しませてもらっています。

 が、昨日の放送分をネットで観たところなのですが、違和感を覚える言葉が登場してしまいました。

 何時の頃からか、「耳障りの良いことば」という表現があちこちで使われるようになっています。

 私は、この表現に、強い違和感を感じ続けてきました。 

 「耳障り」の次に続くのは、「・・・が良くない」とか「・・・の悪い」のはずです。

 「障る」は、「さしつかえる」とか「体の害になる」という意味で使われる言葉です。

 「耳」に「障る」わけですから、「耳障りの良い」は「耳障り」と「良い」のミスマッチということになるのではないでしょうか。 

 「カルテット」の会話は、選び抜かれた上質の言葉たちが遣り取りされてきました。

 そこに、「耳障りの良い」の登場です。(4人の登場人物ではない人間の口から出たものではありますが。) 

 違和感いっぱいです。

 言葉は、世につれ変化していくものではありますが、「耳障り」も、このような使われ方が一般化していくのでしょうか。 

 


デモクラシーは、仁義である  岡田憲治著 角川新書 ⑧

第4章  デモクラシーのために習慣を変えてみる

 デモクラシーは、「己の生活や人生に関わることについての決め事には一言物申す」という、コミュニティーの運営方法です。そして、その決め事に同じ考えや切実な主張を共有する友人たちの声が、なるべく多く反映されるように努力することが必要である以上、とにかくたくさんの友人を作らねばなりません。

 しかし、友人を作る過程で意見を異にする人たちと出会えば、政治における仲間づくりの難しさと特徴が浮き彫りになります。その難しさは、基本の考え方を共有していても、微妙にニュアンスが異なったり、小さな対立をもたらされたりすることで一層はっきりとしてきます。--- 

 政治は、己の価値を主張する側も、それと対立する側も、両方とも様々な限界と諸条件に拘束されます。そのどのような価値を主張しようとも、それが実現されるまでのプロセスには、当人たちでさえ良くわからない不確定要素がたくさんあるのです。

 社会を改革する。そのためには何が必要か? どのような手段で行うのか? 期間はどう設定するのか? 短期、中期、長期それぞれの目標設定はどのぐらいにするのか? 活動可能な政治リソースはどれくらいなのか?  自分たちのやる気と情熱はどの程度なのか? 優先順位をどう設定するのか?  勝利と敗北の評価は何で行うのか?---

 原子力発電の過酷事故が2011年に起こって以降、国策として当然視されてきた原子力エネルギー行政には、人々の厳しい視線が注がれました。先に指摘したように、今では将来的な判断も含めれば、国民の7割もの人々が原発はいずれ無くさねばならないと考えています。そして、様々なレベルで福島第一原発から今もなお放出され続けている放射性物質に怯えています。---

 原発を、ゆくゆくはより安全な発電技術へ変えていこうとする流れはもはや止めようもない段階ですが、原発を廃止すると言っても、そこに至るプロセスには何段階ものステージがあります。ですから、中には「当面、廃炉に向けた準備として廃炉技術を数世代にわたって育てて継承させねばならない以上、原発関連の技術を廃れさせないためにも、その廃炉スピードのタームは50年ぐらい見ておくべきだ」という主張もあるわけです。

 しかし、脱原発派の中でこういう話が出てくると、「50年では実質原子力ムラの利権が温存されるだけだ」と論難する人が必ずいます。つまり「即時、全面廃炉」という究極の目標からの「距離」によって、どれだけピュアな目的を維持できているかが評価されてしまうのです。---

 政界再編成や新党設立、環境問題、雇用問題、外交、安全保障など、すべてのイシューにおいて、同様の事態は起こります。

 筆者は、ここで「脱原発など非現実的な目標だ」とか、「理念や政策が完全に一致するような政党の合併や再編など不可能だ」とか、「現実に世界最強の軍隊を持つ一国だけの超大国アメリカを前に、自律的な安全保障政策など無理だ」ということを言いたいのではありません。どちらかと言うと、より理想主義的な展望を持っている方かもしれません。

 ここでのポイントは「相手の言うことをその純粋度で評価し、それを根拠に対話をしても、広く手をつなぐ友人はあまりたくさんはできない」ということです。繰り返しますが、デモクラシーは複数の人間が協力し合いながら、可能な限り「良きこと」を共有しつつ社会を維持して運営していく、そのための社会技法です。---

 「清濁併せ呑むのが政治家だ」などという、手垢のついたメッセージ・ゼロのセリフに与するつもりもありません。---

 この微妙なニュアンスを理解していただくのが大変です。---

 人は政治において100%、合理の選択で行動するわけではありません。また、広く成人に投票する権利を認めている民主政治においては、己の行動の根拠となる「理(ことわり)」は種々雑多なものです。多くの人は心情に左右されるでしょうし、高等教育を受けたエリートでも、冷徹な判断ではなく、気がつくと相当、感情の影響を受けている部分も大きいはずです。

 しかし、専門シンクタンク的頭脳による提言から、人々による風評に至るまでのいずれであろうと、そこを貫くのは「言葉」です。「政治とは現実の評価合戦である」と定義するならば、政治においては言葉がすべてです。ですから、政治をちゃんとやって、デモクラシーを維持するためには、「言葉」を豊かなものにさせなければなりません。そして何かを豊かにするためにはコストがかかります。

 政治は「我々の状況は今こうなっている。我々に今必要な共有認識とは〇〇である。そう考えるべきなのが我々の現実である」と、千万の言葉で世界を説明するという仕事です。だから、どれだけ「押し」が弱くて、有効な切った張ったが苦手な政治家でも、最低限これをやらねば存在する理由がないのです。

 同じことは有権者の側にも当てはまります。自分たちの合意によって作られた政府にもかかわらず、法律を作ると同時に、一人歩きをしてへんてこりんなことをやり始めた政府をコントロールするためには、民主政治を生きる有権者にはやらねばならないことがあります。

 それは、友人を作り、仲間を増やして、自分が世界に対して持つ理念や現実設計や展望を「言葉」にして、「それはあいつが一人だけで言っていることじゃないんだな」とたくさんの人に印象付けることです。そのためには、もう「言葉」しかありあません。それも大量の言葉です。---

 いろいろな意味で民主政治の足を引っ張るのが、法やルールではなく「空気」による支配です。人は、自分の行動を自分の「意志に反して」変えることがあります。政治学ではこれを権力の作用として考えます。もし何もしなかったら変わらなかったでろう、ある人の行動に変化を見出した時、おそらくそこには何らかの作用がはたらいたのであって、それを権力の作用だろうと「推論」するわけです。---

 しかし、昨今、マスメディアの内部で起こっている「不可解な行動の集積」(あからさまに不自然な歪曲報道、露骨なほどの重大事実の無視、そして平然となされる巨悪の黙認など)の原因を探っていっても、現場で働く職員は「俺のレベルではあからさまな圧力とか命令とか、そういうのはないんだよね」と言うばかりです(そして、「もうちょっと上になるとわかんないけど」と必ず付け足します)。

 テレビ局は、霞が関(総務省)から「放送免許の許認可」と、もう一つは「違和感を持つほど安い電波料金」の二つで首根っこを押さえられています。そのため、昨今の政権のように、放送法の理念を完全に逆立ちさせた特異な解釈をにじませ、政治家は常に「低電圧」をかけ続けることができます。だから忖度が行われるとしても、まだ原因を推し量り易い方なのです。

 同じようなことが全国の自治体のあちらこちらでも起こっています。憲法改正を目指す安倍自民党の言葉遣いが強くなって以来、活発な憲法論議を目指して、改憲派から護憲派まで様々な市民団体や政治団体が活動しつつあります。しかし、とりわけ護憲団体である「九条の会」がイベントや集会を開こうとして各地の自治体の施設を借りようとしたところ、自治体が「政治的なイベントは公共団体の施設利用には適さない」という意味不明の理由で、施設の貸し出しを拒否するケースが増えつつあります。

 憲法改正論議を活発なものにさせるなら、政治的な問題であることを逃れることができないのは中学生でもわかることです。自治体は、護憲団体のみならず改憲を目指す団体も同様に公平に扱い、いわば自治体の施設が憲法論議をするためのアリーナの役割を果たせるようにすべきであって、それこそが本当の「公共性」です。---

 それでは課長は、鋼のような意志と自治体ルールの盤石の後支えがあるからこそ、毅然としてこうした決定を市民団体に突きつけているのかといえば、全くそうではありません。---

 これは、市民団体からの抗議に対して、「自分のような人間には理路整然とした法的な判断の根拠なんか示せない」という途方にくれる状況の中で行われた、「自分を楽にする判断」なのです。日本全体が「なんとなく改憲っぽい流れ」で、保守系のA議員がガンガン言っているし、市民団体も古色蒼然たる人たちだし、仕事が増えるのも嫌だから、全体の空気を総合的に忖度して「貸し出しはしない」という決定をしたのでしょう。---

 民主政治は、人間が間違えることを前提にしている政治です。全員が不完全な人間である我々が、平等な存在として政治参加する以上、これは当たり前です。人間は間違えるし、しくじるのです。だから民主政治は、その営みの過程で少しでも市民が成熟し、経験を積み、世代が変わってもその成果と失敗の教訓を残し、受け渡していくことを必要としています。そうしないと、いつまでも同じ失敗を繰り返すことになるからです。

 そのために、どうしても必要なのは「失敗の記録」です。それは往々にして何らかの形で政治的決定と統治に関わった者たちの責任を明示することによってなされます。責任とは、頭にいくつもの形容詞がつく、非常に設定が難しい、そして取らされた者たちからすれば常に理不尽なものです。どれだけの責任をとることが適切なのかを正確には計量できないからです。

 しかし、それがなされないと、悪夢のような政治的帰結を未来において防ぐための知恵を育むことができません。人がある政治判断をする。それは様々な結果を招く。時にはそれはとてつもなく大切なものを市民から奪うことにもなる。だからどうしても残しておかねばならないのは、「なぜそういう判断をしたのか?」、「そういう結論に達するまでにどのような議論や論理的思考があったのか?」、そして「それを主導し、役割の中でリードしたのは誰なのか?」という記録です。

 忖度政治は、そうした未来のための、暗黒を繰り返さないための、民主政治が少しずつでも確実に成熟していくための重要な記録と資料を、一切言語化できない「空気」に雲散霧消させてしまいます。--- 一切、誰も、なんの責任も取らないという、あたかも自然災害の後であるかのように、世界が延々と続くのです。70年以上前の戦争も、5年前の原発事故も、全く同じです。---

 政治における忖度は、判断や行動の根拠を言語化することで克服することができます。原発事故の、緊迫する状況の中で、なんと東京電力の元副社長は「総理大臣が海水注水に前向きでないような空気を察知して」海水注水を止めさせようとしたとされています。頭がクラクラするような理由です。---

 我々は、配慮と想像力と思いやりを持って政治に臨む必要があります。しかし、忖度と空気に縛られてなされる決定には、警戒のために要注意の赤札を貼らねばなりません。そのためには、空気は読まず、言葉を読んで、空気に縛られず、言葉に縛られる他に方法はありません。---

 これはとてつもなく重要な宿題です。

 2014年末に行われた総選挙では、有権者一億人のうち、およそ半数の人々が投票に行きませんでした。あれだけの税金を払い、自分の生活や人生にあれほどの影響を与える政府のメンバーを選んでいるのに、そしてあんなに重大な課題がも目前にあったのに、有権者として行使する貴重な権利を、たくさんの人たちが放棄してしまったのです。「この道しかない」という道が何なのか、ろくな説明もなかったのに。---

 どうしてあれほどの人が棄権をして、衆議院比例区の政党名でカウントすると有権者数の17%しか得票できない政党が300議席近く獲得するのか。ただでさえ当てにならない民意をいったいどう考えればいいのか。こうなることがわかっていて棄権したのか。疑問も謎も尽きませんが、ひとつだけここで気になることがあります。正確には、ずーっと気になっていたことです。それは棄権した人の言う「適当な人がいなかったから」という理由です。---

 どうやら少なからぬ有権者が選挙での投票を「投票=ベスト・チョイス」としなければ無意味であるかのように思い込んでいるのです。これは、あたかも投票する候補者選びを「恋人選び」と同様にしているかのようです。---

 恋人や恋愛対象、結婚相手の選択も、それなりの人生経験を積んでくれば、「運命の出会い」とか「ドキドキがヤバイ」とか「私だけを愛してくれる奇跡のような人」などに固執すると、そうそう上手くはいかないということは学習します。しかし、我々はこと政治になるとまっすぐ真面目なプラトンくんになって、「絶対いるはずもない」意中の、胸キュン(死語)の政治家の登場を待ち、現れないから棄権するというわけです。---

--- 「ベスト・チョイスのための選択肢が用意されていないから」という理由が気になります。なぜならば、政治においては最良の選択など永遠に存在しないからです。---

--- 政治における人間は極めて不完全であり、かつ他者との複数関係が束となって、そういう状況に左右されざるをえないから、政治には全く予想もできない不確定要素が必ず含まれています。---

 どうあろうと、現実を生き抜く大人は程度の差はあれ「汚れて」、「ずるくて」、「人のことは言えない」、「小心者で」、「都合の悪いことはすぐに忘れる」、つまりは普通の人間だということです。

 にもかかわらず、その人間の業やいかがわしさを政治家から見て取ると、あらん限りの罵詈雑言とヤジと怒号でこき下ろし、引きずり降ろすくせに、なぜか政治家「選び」をする際には、最良の選択じゃなきゃ嫌だというピューリタニズムに陥るのが、多くの棄権した有権者です。

 その意味では、棄権した人の何割かは「無関心層」ではなく、「純粋すぎて投票できなかった人たち」ということになります。---

 政治においては「ベスト・チョイス」などというものは存在しません。それは、人間が流動する要望を持った不完全な存在だからです。--- そういう人たちが複数集まって、「おれたちは一人ぼっちだと無力でちっぽけな存在だ。力を合わせることでいろいろできるが、みんな一人残らずワガママだから、上手に協力しないと自分たちが生きる基盤(社会)を壊してしまう」という出発点に立って、なんとかやっていくのがデモクラシーというものです。

 そのことを踏まえれば、やらねばならないのは「最良の選択を模索すること」よりもむしろ、「絶対に避けねばならないことを考える」ことです。また、そのために「そこから逆算して何をしなければいけないか」を言葉を共有しながら理解しあって、「感情的にはあまり気が進まないことでも、最悪を避けるために行動すること」です。

 「緊急時に備えて、憲法を一時停止して、すべての権限を行政府に与える」ような憲法改正がなされたら、デモクラシーは瞬殺されます。あるいは「政治的公平性の判断は政府がもっぱら行うものとする」という、近代政治原理を完全に蹂躙した規範が法律化されたら(そもそも憲法違反ですが)、もう自由なジャーナリズムは地上から消滅します。

 もしそういうことを政治的目標に掲げているような政党があれば、投票の力で権力の台座から降りてもらわなければなりません。人類が育んできた数百年の統治のセンスをどうしても失いたくないからです。---

 無力な人間が、だからと言ってうつむくことなく、最悪の事態を避けるために、少々のリアリズムをもって協力していくためには、なによりもまずたくさんの友人や仲間を作らねばなりません。ここで言う友人とは、日常において心を寄せる友人というよりも、「この世界でどうしても失いたくないものを共有している人たち」ぐらいの意味です。---

 どんな仕事に就こうと、どんな立場であろうと、どれだけのものを背負って生きていようと、そういうものを超える基準でものを考え、自由にものを言える社会であればいいなと思う人がいれば、その人は友人です。---

 そういう友人や仲間をたくさん作る時に忘れがちなことがあります。日常の友人との関係ではすんなり出来るのに、「デモクラシーの友人」相手には時々忘れたり、気が回らなかったりすることです。それは「ごめんなさい」と「訂正します」と「ありがとう」の三つです。---

 民主主義のご高説を説く学者でも、間違えるときは間違えます。ちょっとしたチャーミング・ミステークから思想的錯誤に至るまで、人間は間違えます。---

 人は、どれだけのことを知っているか、どれだけの知見と思考センスがあるかで世界を言語化する者としての能力が評価されますし、敬意も受けます。そういう人間の登場はデモクラシーにとっても非常に重要です。---

 しかし、人が人と結びついたり離れたりする時の契機は、日常の友人であろうとデモクラシーの友人であろうと、あまり変わりません。それは、その人がどれだけ知識があるかではなく、「間違えた後、どのように振舞うか」です。失敗や誤りの後に、そのこととどう向き合っているかという、そのたたずまい次第で、人は人と離れていきます。間違えることが信頼を失わせるのではありません。それを誤魔化そうとしたり、黙殺したりするから信頼を失うのです。---

 人と結びつくのに、日常の友人とデモクラシーの友人を区別する理由はありません。様々な政治的コミュニケーションの最中に生じた誤り、勘違い、迂闊な物言い、思わずブレーキが利きにくかった感情的発露、悪意なく傷つけてしまった杜撰なワード・チョイス、そうしたものが生じたときには、我々がなすべきことはそれほど複雑なことではありません。「間違えてしまいました」、「訂正しますね」、「(ご指摘)ありがとうございました」です。

 日々生ずる出来事において、そういう習慣を持てば、その社会は「人の心を閉ざさない振る舞い」とともに、デモクラシーの力を強める気がするのです。そういうことを日常的にできる者たちが集まれば、まさに「間違えることを前提として、それを自前の協力によって克服できる唯一の政治体制」としてのデモクラシーに血肉が通うと思うのです。これは「半径3メートルでできないことは、全国レベルでも絶対にできない」という民主政治における筆者の信念です。もしかしたら、言わずもがなのことかもしれませんが。

 日本の永田町と霞が関の統治エリートたちの宿痾は「間違えないことになっているのだから、間違っても認めないし謝らない」です。官治的メンタリティとは、こういうことを指します。この人たちに期待できないなら、100年200年のスパンで、我々は市井の人々とともに、未来を担う若者とこの習慣を変えるしかありません。

 間違ったら謝って訂正する。我々の成熟は、そういうシンプルなところにあるのかもしれません。派手さはありませんが、とてつもなく大切なことだと思います。---

 


 

 終わりました。

 すべてに納得が行ったかというと、分かりにくいところもありましたが、「最良の選択ではなく、最悪を避ける選択」という説明には、大いに納得しました。

 これまで、無意識のうちに(仕方なく)採っていた選択を、「それで良いのだよ」と後押ししてもらえた気がしました。 

 「ごめんなさい」「訂正します」「ありがとう」の三つが非常に重要であるという考え方にも、私は大賛成です。

 政治の話ではなく、常日頃から、「ごめんなさい」「ありがとう」を言えない人を私は信じません。言えない人が結構いるのですよ、頑なで、窮屈で、頑固な人間が。自分に自信が持てないのですね、きっと。

 そういう訳で、この本は、私に、「デモクラシーの流儀」を教えてくれた本となりました。

 最後に、書名の「デモクラシーは、仁義である」の説明です。

 映画『仁義なき戦い』全5作を貫くテーマが、「仁義」なのだそうです。私は、『仁義なき戦い』を全く知りませんので、説明を読んでもチンプンカンプンでした。

 という訳で、書名にかんする説明が書かれた「おわりに」 はパスします。

 

 

 


デモクラシーは、仁義である  岡田憲治著 角川新書 ⑦

第3章  デモクラシーの処方箋 (の続き)

--- 民主政治の基本ルールとして省くことができないのが、選挙全体を取り仕切る「公職選挙法」の問題です。---

 敗戦後にマッカーサーがやってきて、占領下にいろいろな民主化がなされ、随分と改革は進みましたが、基本がほとんど変わらないものが、実はあります。「官僚制」と「選挙のルール」です。公職選挙法の基本骨格と相当数の法文が、治安維持法とセットで作られた、大正時代末期にできた法律そのままなのです。およそ90年前の法律です。信じられますか?---

 したがって、この法律は自由にのびのびと民主政治を支え促進する法ではありません。何から何まで全部と言って良いほど規制をかける「べからず法」です。あれはやるな、これはいかん、それは違反だと、驚くべき(くだらない)ルールで縛られているのが日本の民主政治の基本ルールです。

 例を挙げれば切りがありませんが、例えばこんなことがあります。選挙期間中に事務所に支持者が現れた時、「お暑い中ご苦労様です」と席を作り、麦茶でも差し上げようとした時に、もうすでに「べからず法」に縛られます。急須に注いだ麦茶を出すのは許されるのですが、これを「コーヒー」にするともうダメなのです。冗談だと思うでしょう? でも本当です。理由は、コーヒーはカップに注いだ後に「対価を請求できる商品となりうる」から、広義の金品となり、買収に結びつくと考えられてしまうからです。

 だから急須で注ぐ緑茶はいいですが、「キャップを開けていないペットボトル」はもうダメです。持ち帰って「対価を要求できる商品」となりうるものだからです。選挙事務所に「頑張ってますか? ちょっと近くまで来たもんだからね」と訪ねてくれた支持者の中に、もらったペットボトルを、バッタ屋に売ってせこい小遣い銭を稼ぐ人間が一体何人いるでしょうか? バカバカしい。---

 細目にわたる「べからず法」にがんじがらめになりながら、どうすればそれを逃れることができるのか? 警察の裏をかく、判例を調べる、選挙実務のベテランと詳細な情報交換をしながら、とにかく「やり過ごす」ことが標準行動様式となっているわけです。候補者は、対立候補ではなく警察と戦っていることになります。---

 第2章の「平等」に関する話は、主として「権利」の問題でした。---

 しかし、この節で提起する平等の問題は、民主政治の社会的諸条件の話です。---

 平等の問題は、日常的に使われる言葉であるだけに、上手に切り分けて考えないと、何もかも一緒くたになってしまいます。ですから少し強調しておくと、ここでは、ポイントを「極端な貧富の格差がひどくなり、政治のためのリソースの分散がない社会では、デモクラシーは機能しづらくなってしまう」としてみます。---

--- ここで問題にしたいのは---もう少し根本的なことです。それは、ひどい格差が「もう何をやっても仕方がないんだ」という厭世的心情を拡大させることで、自分たちの社会を風通しよく運営していくという基本的欲望を失わせ、ひいてはその社会そのものの維持すらおぼつかなくしてしまうという問題です。---

 もちろんどんな社会であっても、様々な事情から気持ちが荒み、ささくれ立った精神をこじらせ、社会に対して完全に背を向けてしまうような人間はいます。むしろ、そういう人間が存在しないほど徹底的に管理された社会は、また別の意味で不健全であるかもしれません。しかし、それは文学的課題であって、「彷徨う魂を抱えて放浪する社会」などという目標はナンセンスです。

 ですから、協力し合わなければにっちもさっちもいかない人間社会をなんとか維持するためには、「もう何をやっても無駄なんだよ」と思う人の数を、とにかく全体として減らしていく必要があります。人は相当貧しくとも、かなりのハンディを背負っていても、不条理な出来事で人生シナリオを狂わされても、希望さえあればなんとか生きて行けるものです。

 その希望は、「息も絶え絶えになるまで頑張らなくても、なんとか人間の尊厳を守れる程度の暮らしができる」ということ。「運や人の助けも不可欠だが、基本は自分の努力を積み重ねれば、いろいろな意味で良い人生を引き寄せられる可能性がある」ということ。この二つのことによって支えられます。

 この二つを揺るがすものが、貧困と著しい格差です。---

 いわゆるセーフティー・ネットというものは、そういう個人の力ではどうすることもできない事態に陥っても、そのまま下降させずにネットに引っ掛けて保護をする、そして、その苦境をやり過ごす時間的、金銭的、精神的機会を提供するものです。それは「弱者を救え!」という道義的問題というよりも、むしろ「どうにもならなかった時、僕はこの社会にチャンスをもらった」という被承認感と、「だからそれに対する恩返しとして、この社会を維持し守るために協力しよう」という、社会「を 」承認する関係をギリギリで維持するために不可欠なものです。

 デモクラシーが「平等」を基本的価値とする理由は、このように「デモクラシーを機能させるための根本条件」としての権利と、「社会と自分との最低限の相互承認」という基本的スタート・ラインの確保、以上の二つにもあるのです。そうでなければ、誰が「相談しながらなんとか合意を作って、政府の言いなりにならない世の中を作る」ことに努力などするものですか。---

 ところが、これを「とりあえず」担保することを怠ってしまうと何が生まれるでしょうか? それは「寡占状態」と、その裏返しの「少数派の永続化」です。ある社会や領域において、あまりに大きな独占的な集団が成立してしまうと、それ以外の集団が未来永劫に少数派となってしまいます。ただでさえフィクションである合意が不変のものになり、以後、あまり再考されなくなってしまうのです。

 アメリカのアフリカ系人種は、およそ13%程度ですが、もしこの比率が全米の地域にあまねくそうなら、とりわけ勝者総取りの小選挙区によって、多数派の政治的決定はおおむねアフリカ系アメリカ人の利益を代表しません(そして、それが20世紀半ばまでのアメリカの現実でした)。---

 同じことは、世界中に散らばっているユダヤ教徒にも当てはまります。人口比で言えば、圧倒的少数派となるユダヤ教徒たちは、とりわけアメリカ社会では、それを克服するために尋常ではないくらいの社会的リソース(金融業界と学者界で影響力を有す等)を集めねばならないわけです。

 ユダヤ人にはまだそれができますが、すべての人種的少数派が同じようにできるわけではありません。社会にどのような価値や利益を主張する人々が、どのくらいの比率で存在するのかは、ある程度比例的なやり方で把握されなければ、極端に言えば、全体の51%を確保さえすればあらゆる決定を「全体の民意」とさせてしまうこことが可能です。 

 このように、数だけではなく、政治的影響力を行使するためのリソースの転換と配分に着目するならば、人的構成としてはさほどではなくても、あるイシューにおける独占状態を作ることが可能になります。---

 政治的影響力を行使するためのリソースは、いろいろあります。例えば「人脈」です。そして政治家の「個人としての魅力」、蓄積された家系の財産としての個人後援会の「組織」、年に1000回もの地域のミニ集会をこなすことのできる「体力」なども重要なリソースです。---

 そうしたプライスレスなリソースも非常に大切ですが、高度情報社会において、あらゆるメディアを通じてなされる大量のインフォメーションは、やはり相当の影響力を持ちます。--- それゆえそこにかけるコストは、生み出す影響力と相当程度比例関係にあると言ってもよいでしょう。身も蓋もない言い方をすれば、「金をかけた分、メッセージは広く伝わる」のです。テレビのCMスポットの回数は多ければ多いほど効果はあります。

 全国各々の地域で独占的に営業をする電力会社は、連携して全国団体を作っています。いわゆる「電事連(電力事業連合会)」です。---

 ちなみに、かつて報じられたことによれば、この電事連に所属する東京電力だけで、震災前の2009年には自分たちの企業活動をアピールするための広告啓蒙費に250億円以上の経費をかけていました。東電は過酷な原子力発電所事故を起こして、その処理のために膨大な国費が投じられているにもかかわらず、今も年に経常利益が2000億円(2015年3月期)以上もあります。そこから推論しても、少なくとも電事連全体で広告に数百億円のお金をかけているはずです。---

 想像してみてください。年間に数百億円ものお金を使えば、社会に何かを訴えようとした時どれだけのことができるかを。---

 日本の電力会社は、国策としての原子力発電を、この潤沢な経費をもって半世紀以上もの間ずっと利用者に対して啓蒙してきました。震災による原発事故が起こるまで、これを書いている筆者ですら「日本のエネルギーの25~30%は原子力発電によってまかなっているから、原発が止まれば産業も止まるんだろう」と思っていました。でも実際は「現在稼働中の発電所の20%」でした(大量の火力発電施設が休眠状態だったのです)。節電の効果も大きく、現在ほとんどの原発が稼働していないのに、エネルギー危機は生じていないのです。

 これだけの潤沢な政治リソースを持ち、これだけの巨大利権集団が存在していると、これに対抗できる社会集団はほとんど存在しません。電力を作る会社と送電する会社が同じ電力会社という、まさに「選択の余地がない」地域独占と無競争の価格設定。このような「必ず利益が出る」構造の中で、ビッグ・ワンしか存在しない世界が作られてきました。それによって、「言われるがままのバカ高い電気料金」をえんえんと払い続けてきたのが日本人です。

 この巨大な社会集団はもちろん広告啓蒙費だけではなく、現行法の枠内で政府自民党に(そして御用組合である電力総連を通じて民進党の一部に)多額の政治献金をしています。政治家は電通連からのお金がないと、資金繰りが苦しくなる関係を作ってしまっています。

 脱原発などと言えば、政治資金を出してもらえなくなりますから、この金をつかんだ政治家は、脱原発化をサボタージュするか再稼働に邁進するはずです。なんともわかり易い話です。これに対抗できる「代替エネルギーを強力に推進する」潤沢資金の集団は、未だにこの社会には存在しません。---

 この電事連から多額の広告費をもらって潤ってきのが、日本のテレビ局や新聞、雑誌メディアです。そして、その間に絡んでいるのが巨大広告代理店です。---

 メディアは、言うまでもなくデモクラシーの生命線です。デモクラシーは「お国の暴走をチェックする社会」が自律性を発揮できるようにしておいて、お国という車を運転する「正気の」ドライヴァーを育て、プールしておくために不可欠なものです。---いわゆる社会の「木鐸」というものです。

 ところが主に二つの理由によって、日本のメディアは「お国」と「潤沢なリソースを持つ集団」に左右されてしまうのです。ひとつは、世界でも悪名高い「電波行政機関による直接免許交付制」です。日本のテレビ局は、その乱立を防ぐという名目で放送局開局の許認可を総務省によって握られています。つまり国家が「放送局をやっていいか悪いかの免許を発行する」ということです。

 また、アメリカやイギリスと異なり、放送局の番組内容を審査・監督する機関が国から独立していません。独立していないと、国家にとって都合の悪いことを報道し、活動する放送局には定期的に「免許継続を許可しない」という圧力がかけられてしまいます。それでは自由なジャーナリズムを保障できなくなります。---

 もうひとつは巨大な広告代理店です。---

 日本の広告代理店において常態となっているのは、ひとつの広告代理店が「同じ業種の複数の会社の広告代理店業務を請け負うこと」です。自動車で言えば、日本ではひとつの広告代理店がトヨタからも日産からもホンダからも広告業務を受注したりします。---

 いったい何が問題なのかと、まだピンと来ないみなさんには考えて欲しいのです。もしあるメーカーA社が深刻な大気汚染をもたらす車を、検査結果を捻じ曲げて放置していたことがわかったとします。それが社会問題になった時、マスメディアは広告費をもらっている自動車メーカーから「そんな報道をすると番組提供から降りるぞ」と圧力をかけられても、「A社さん、そりゃいけまえんよ。悪いものは悪いというのがジャーナリズムの役目です。でも、広告を引き上げるとおっしゃるならどうぞ。代わりにB社さんに提供していただきますから」と言えば、そうそう簡単に企業の言いなりになりません。そこに正しい意味での「社会的競合」が機能します。

 しかし、日本の場合「A社が降りる」というよりも「メーカーを束ねている広告代理店が引き上げる」ということになり、そうなると広告代理店は「自動車メーカー全体からの広告費をまとめている」から、その判断は非常に強いとなるわけです。車メーカーの大半とお付き合いできなくなるなら、メディアはそうそう簡単に代理店と喧嘩もできません。

 そうだとすれば、この構造を利用して、国家、政治権力の側はメディアに圧力をかけることができます。「そういう言論活動をしているなら代理店ごとサヨナラするからな」というテコの効いた関係を作れば、メディアはどんどん萎縮していきます。---

 あまりに強力な「一強多弱」が構造化すると、カウンターパワーがなくなり、競争もなくなります。芸能界ならばそれは「部分社会」ですが、この構造を政権や与党が利用し始めると、デモクラシーは衰弱します。

 これは「民業が自由にやっていることだから」という物言いに隠れている、相当日本のデモクラシーの質を下げている問題です。

 


 

 昨今の、新聞、テレビ、雑誌等の報道の質の低下は、目を覆うものがありますよね。

 それに、気が付いていない人間が多いように思います。 

 


降ってきました。

 雪が、降ってきました。

 積もるほどではなさそうですが、降っています。

 冷たいです。

  雪景色 1.jpg

 


天気予報。

 

 西日本の日本海側では大雪が続いているようですが、気候温暖なこの地方は、乾燥した上天気が続いています。

 そして、今朝の天気予報です。この地方の天気の予報です。

 「〇〇地方南部は、晴れです。午後に、雨または雪、雷にも注意しましょう。」

 「うん??? 晴れ、雨、雪、雷 ????? 

 晴れ、雨、雪、雷が、一日のうちにすべて並ぶお天気って、何????? 」

 と、思いました。 

 午前中は良いお天気でしたので、たくさんの洗濯物を、お日様に当てるためにベランダに出しました。

 ところがです。

 お昼を過ぎた頃、急に空が暗くなって来て黒い雲が空を覆い始めました。

  黒い雲。.jpg

 そして、冷たい黒い雲の中から、真っ白な小さい塊が降ってきました。

 そう、雪の粒です。

  雪の粒。.jpg

 雷こそ鳴っていませんが、「晴れ 、雨または雪」は確かでした。

 天気予報を侮ってはいけないようです。 

 

 


デモクラシーは、仁義である  岡田憲治著 角川新書 ⑥

第3章  デモクラシーの処方箋
 
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 民主党は、政権交代をする目的について明快にメッセージを出していました。それは「統治構造を変えること」に他なりません。---
 
 しかし、政策決定過程のルートを変更し、政策の枠付けを政権「党」が中心となって行うという構想は、それを実現しようとする新しい機構づくりの段階で挫折させられます(「国家戦略局の新設」など)。官僚集団に搦め捕られることを過剰に警戒した民主党の政治家は、霞が関のエリートたちの「生理」(方向性をきちんと与えられ、責任は政治家がきちんととるという担保が得られれば、高い能力と献身的な仕事ぶりを発揮する)を理解しようとしませんでした。---
 
 霞が関の官僚には、自民党政権時代だけでなく、それ以前から100年以上も続く傲岸なる伝統として「予算と人事と天下り先に手をつけた政治家には、あらゆる手段を持って報復する」という共通認識があります。しかしそれに手をつけなければ統治構造を変えられませんから、新政権がそこに手を突っ込んで「ないないと言われていた財源を探してくる」ことは当然でした。
 
 これを敢行するには霞が関の住人の相当数を切り崩し味方に付ける老獪な作戦と、じっくりと時間をかけた「外堀を埋める作業」が必要でした。しかし、民主党は事を急ぎすぎ、一部マスメディアをも仲間につけた既得権益集団にあっさりと潰されてしまいました。
 
 沖縄の普天間基地の代替地として、鳩山由紀夫首相がチャレンジした「県外移設」が好例でしょう。ジュリアン・アサンジのウィキリークスが暴露したことが事実だとすれば、交渉の佳境に、外務省から情報をリークされ、言わば後ろから背中を撃たれて挫折したということになります。アメリカ海兵隊と外務省という巨大な壁を前に、総理大臣という行政府の長ですら「手も足も出せない」構造が浮上したということです。
 
 これらの壁の前での憤死は、「民主党だったから」とは断言できません。自民党は長年の政権運営の経験から、そこに手をつけたら潰されることをよく理解していたと言えます。
 予算にも、人事にも、天下り先の財源である特別会計にも、安保における日米地位協定に代表される「植民地状態を維持する権力構造」にも、全部手を触れない。役所の書いたシナリオと振り付けに従うロボットとなる。それが一日でも与党の政治家でい続け、内閣改造の時に拍手と花束で役所を後にし、その後の選挙も安心して戦えるための安全策である。これは、保守政治家のハートに刻みつけられていました。---
 
 毎年30兆円以上も発行し続けている国債、その中央地方政府の債務の合計は、もはや1000兆円を超え、なおも増え続けています。増え続ける借金を止めるために、無駄な事業や既得権益の根拠である特別会計の特殊法人のあり方を見直し、13兆円の財源をひねり出すことができるか否か? このような論争をしていたのは、たかだか7~8年前のことです。今、それを口にして財源再建を真面目に考えているのは、事務次官レースで勝利する出世欲のない、本当に国家の未来を案じている一部の優秀な財務官僚だけかもしれません。---
 
--- 政権交代の経験は、このように「それでも変わらないもの」を明らかにしました。自民党長期政権時代には、「霞が関がうまくやっているから日本はもっている」と言われました。そこから少し進歩したのです。霞が関は問題解決の戦力ではなく「問題そのものだ」という認識を得たからです。政権交代とはまんざら捨てたものではありません。これは皮肉ではありません。---
 
 政治学の専門用語に、「参加と動員(partcipation and mobilization)」があります。参加とは何でしょうか? 議会の外(院外)における人々の政治的な意志の表出は、議会制民主政治を克服しよう、あるいは補完しようとするものです。---
 1960年代の安保改定の際に、30万人以上が国会を取り囲んだ出来事は、日本の院外政治が高揚したものと言われました。---
 しかし、同時に国会を取り囲んだ人々の大半は労組や全学連の学生、つまり既存の組織による「動員」に過ぎなかったとも言われます(著者の父親は当時、労組員として国会南通用門に坐り込みをしていたそうですが、その理由を尋ねると「日当が出たから」とやや自嘲気味に振り返ります)。
 
 その意味で言うと、シールズの行動は、動員された運動ではなく、主体的な「参加」運動です。---
 
 いろいろなシーズンはあったとしても、戦後70年目の夏に、こうした参加型の政治的行動が強いテンションで起こったのです。それは誰が何の文句をつけようと、人々が民主政治を運営している世界の国々に引けを取らない成熟度を持っていることの証左です。---
 
--- 21世紀の今日、デモをすることはデモクラシーを痩せても枯れてもなんとかやってきた日本社会においては「肺呼吸をする」くらい当り前のことです。人間の生活と人生をどう運営するかは、それを議会に集まる700人あまりの代議士への投票に丸投げできない以上、選挙以外のあらゆる方法で補完しなければなりません。--- そこそこの教育を受けた者たちが大量に存在する社会において、それを当り前だと考える人たちが、安保法制に賛成であろうとなかろうと、原発再稼働に賛成であろうと反対であろうと、もはや大半を占めているのです。これは積極的に評価して良い、戦後民主政治の誇るべき成果であると思います。
 自民党が好きであろうと、共産党が好きであろうと、デモクラシーに100点満点をつけられないと躊躇しようと、関係ありません。
 「それはおかしいではないですか」と声帯を震わせ、街に出ることは「生きること」と同義である。そう考える人間が、たくさんいるのが我々の社会なのです。そこにプライドを持てば良いのです。安保法制に賛成でも、原発再稼働に賛成でも、です。 
 
 

 
 
 
 
 一人一人が、声を挙げ、意思を表明し続けること、それしかないし、それが何よりも一番大切なことなのですね。 

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