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がん哲学外来へようこそ  樋野興夫著 新潮新書

 89歳が癌摘出手術を受ける前に買って読みました。

 ( 89歳に接する時の手助けとしては、あまり役に立たなかったように思います。私が今お世話をしている89歳の人格、精神構造は、一般論で片付けることが出来ない「特殊例」だと、つくづく思います。 ) 

 


 

---- 初めてがんになった人、人間ドックなどで思いがけずがんが見つかった人は、病気になったという事実にまず囚われてしまうものです。日常が一変したようにも感じられるはずです。 

--- 「最新情報を集めないといけない」「良い病院を見つけないといけない」などの思いで頭の中がいっぱいになり、知らず知らずに「周囲から何かをしてもらって当たり前」のような思いになりがちです。

 そうして約3割の人がうつ的な症状を呈します。---

 大抵の人は、こうした人生の「大地震」について本当に考えてみたことがありません。「老いたい」とか「病気になりたい」とは、誰も思わないからです。---

 突然起きた「大地震」も、その人の人生の一部であり、死に直面する状態を免れる人は一人もいません。人間はいつか死ぬという不条理を抱えているのです。

 その不条理は、人間の力ではどうしようもできないことであり、認めるよりほかにありません。

 ただし、「病気」であっても「病人」ではない。これが私の持論です。

 病気は遺伝病も含めて誰にでも起こるもので、その人の過ちや責任ではありません。いわばその人の個性のひとつです。---

 「やるだけのことはやって、後のことは心の中で、そっと心配しておれば良い。どうせなるようにしかならないよ」 

 これはがんに限らず、ひとつの困難に遭った時の心得を見事に教えてくれていると言えるでしょう。あいまいなことは、あいまいなこととして保留にしておくことも生きる知恵ではないかと思います。---

 早ければ半年ほどで、自然と俯瞰的な視点に立てるようになるものです。---

 日常生活における「がんの優先順位」を下げることです。

 家にひきこもって、がんのことを心配する時間は、24時間のうち1時間あれば十分です。できれば、さらにその時間を少なくして、顔を洗うことや歯を磨くことと同じレベルの生活習慣くらいにまで、優先度を下げられるといい。---

 がんよりも没頭できるもの、打ち込めるものを探すのです。---

          -----------------------------------------------------

 病気になるまでは、家族や友人、知人を含めて、自分以外のなにかに期待している人が多いようです。知らず知らずのうちに人生に期待している、とも言えるでしょう。---

 しかし基準が他人との比較にあると、比較できる対象は次から次に生じて、失望することが多くなってしまいます。---

 ここで、思い切って発想を転換してみるのです。

 自分は人生から期待されている、と。---

 「人生の目的は金銭を得ることに非ず、品性を完成するにあり」

 これは内村鑑三のことばです。---

 よく高齢者の人がテレビのインタビューなどで、「人に迷惑をかけたくないから、ピンピンコロリ(直前まで健康でいて、急に亡くなること)がいい」などと言っています。

 しかし「ピンピンコロリ」だったら、みずからの品性はどういうものか、自分にはどれだけの忍耐力があるかといったことに気づく機会を持てないまま死ぬことになります。---

 


 

 と言われても、やはり「ピンピンコロリ」が良いと、凡人には思えます。

 なかなかこういう境地に達することは出来ないと思ったのですが、大いに参考になったのは、病理の専門医として著者が書いている以下の部分でした。

 

 


 

 

 よく問題になるのが、診察の際に患者さんの顔をあまりよく見ず、パソコンばかり見ている医師です。しかし、そういう医師にも手術の腕はいい人もいます。

 ここに、心が冷たくても確かな技術を持っている医師と、一見人当たりが良くても医療技術のレベルが低い医師がいるとしましょう。

 極論すれば私は、後者より前者がいい医師だと思うのです。

 「気持ちのよい対応」や「話しやすい雰囲気」というのは、正直なところ、そばにいる看護師ほか受付担当者まで含めたスタッフでも提供できるものだからです。しかし、確かな技術は医療者にしか提供できず、それが疎かであれば取り返しがつかないことになってしまいます。

 いわば「確かな技術を持っている」ことがいい医師の第一条件なのです。---

 ずいぶんこまかいことを言いましたが、主治医をじっくり検分している余裕などないという方もいるでしょう。

 本当に迷ったら、すべて主治医に任せるというものひとつの手です。--- 「お任せします」という患者の思いは必ず伝わり、どんな言葉がけよりも医師を奮起させるものです。

           ---------------------------------------------------- 

 「がんを直接発生させる病原菌」あるいは「がん細胞」というものがどこかに存在して、人間にがんを生じさせるのではありません。

 ひとつの正常な細胞がある日がん化して、がんになります。これはとても大事なポイントです。個性ある人間の細胞からがんが生じるのですから、AさんとBさんに同じ「肝臓がん」が生じたとしても、ふたつのがん細胞の性質は驚くほど異なるわけです。---

 がんの細胞は、正常な細胞が分裂して増える際に、DNAが損傷することで生じます。ふつうはそうしたエラーが起きると細胞は死ぬのですが、特異的に生き続けるのががん細胞です。---

--- 基本的には臓器のほとんどで、がんは起こり得ます。

 がん細胞は、一人の身体のなかで毎日数千個も発生しています。しかし免疫細胞がすぐそれを感知して退治してしまうため、それが実際にがんに繋がることはまれです。ところが、時には厳重なチェックをくぐりぬけ、その場所で増殖をするがん細胞もいます。これがいわゆる「がん」です。

 私たちの平均体温である37度前後というのは、いつDNAが傷ついてもおかしくない温度です。これより高かったり、低かったりするとがん化は起きにくいのですが、それでは人間そのものの生命活動が難しくなってしまいます。

 この意味では、生きている限り、細胞のがん化は避けられません。生きることそのものが、がん化への道だとさえ言えるでしょう。---

 がんがあるかどうかを、病理医は「見た目」で診断します。---

--- 「早期に血液診断できる、マーカーがあるって言ってたじゃないか」と思われる方もいるでしょう。たしかにこれは血液検査だけでがんの有無を調べられる検査ですが、ここで見ているのはがん細胞そのものでなく、がんが原因となって生じる、何かほかの物質です。---

 がん細胞はDNAに変異が起きているため、正常細胞とは見た目もどこか違ってきます。これを細胞異型といいます。---

 がん細胞の特徴は、こうした外見の特徴とは別にあと6つあると定義されています。

1 自己増殖シグナル・・・・・自分でどんどん増えようとする

2 無限増殖・・・・・増殖を止めようとする周囲からの声に耳を貸さない

3 細胞死回避・・・・・栄養を得られる限り、死なない

4 増殖停止命令回避・・・・・増殖を止めるブレーキがきかない 

5 血管新生・・・・・新しく血管を作って多くの栄養を得ようとする

6 浸潤と転移・・・・・どんな組織・器官にも侵入し転移する

 これから言えることは何でしょうか。通常細胞よりはるかに「賢い」「たくましい」ということです。---

 正常細胞は持ち場を離れると生きてはいけません。しかしがん細胞は違うのです。肺から発生したがん細胞が、自分の持ち場を離れて脳にたどり着くと、そこで栄養を得て定着し、増え始めます。

 「お前、こんな場所でもいきていたのか ─── 」

 私は病理解剖をしながら、がん細胞に向かってよく感慨ともつかないつぶやきを漏らしたものでです。--- 

 がん細胞というミクロの世界を研究することで、人間社会というマクロの世界についても初めて見えてくるものがあったのです。がん細胞のメカニズムから、人間が学ぶことはたくさんあるのではないか。私はそう考えるようになりました。

 正常細胞には、互いにコミュニケーションする能力があります。細胞をセルと言うことから、「セルーセルコミュニケーション」と言われます。

 周りからの働き掛けを受け入れ、周囲の意見に耳を傾けるほか、隣の細胞がおかしな働きをしたり、周りに害を与えようとしたら、抑え込もうとする機能が備わっているのです。

 しかし、がん細胞には正常細胞との「セルーセルコミュニケーション」の機能がありません。周囲とのコミュニケーションがとれず、聞く耳を持たなくなるのががん細胞です。---

--- 正常細胞ががん化するメカニズムと、不良息子が生まれるメカニズムがこれほど似ているなら、「不良息子をどう再生させるか」と、「がん細胞をどのように治療するか」も似ているのではないか。---

 ここからは私の持論になりますが、不良息子とがんの治療についてお話ししてみたいと思います。

 がん細胞(不良息子)と対等にわたり合うためには、まず、正常細胞(家族)のほうもたくましくなる必要があります。

 むやみに恐れるのではなく、まずは正面から向き合い、自分たちから積極的にコミュニケーションをとり、なんとかそれが成立するように努力しなければなりません。---

 「がん哲学外来」に来たことで、突然がんが小さくなったり、突然消えたりはしません。しかし、その人の内面は変わり得ます。それにより風貌も変わります。---

 がんになった人でも天寿をまっとうすること、これを「天寿がん」と言います。

 「天寿がん」はもともとは、死後に解剖して初めて、がんがあったことに気づくような、安らかな終わりを指します。---

 ですから私は、痛みや苦痛で食事ができなくなったりするがんの臨床症状があったとしても、80歳以上ならば天寿と思っていいのではないかと考えています。---

 


 

 「賢い」「たくましい」 がん細胞。

 とても太刀打ちできそうにありません。

 がん細胞は、「細胞の老化 」だと聞いたこともあります。

 80歳以上なら、「天寿」をまっとうしたと考えてよいのではないか。

 私も、そう思います。 

 

 

 


日本会議の研究  菅野完著  扶桑社新書 ⑦

 ブログの更新が、すっかり滞ってしまいました。

 言い訳を書きます。

 ① 暑さに弱い。めちゃくちゃに弱い。

 頬、首筋、胸に、保冷剤を当てて熱を冷ましながら厳しい暑さを凌いでいるのですが、いかんせん、これだけでは、気分が治まるだけ。

 頭を使って、思考をまとめることが出来ない。考えることが出来ない。

 ② ( これは、ブログが更新出来なかった理由としては、意味が少々希薄ですが。 )

 遠縁の89歳の女性が、癌摘出手術を受けました。夫は既に亡く、子どももいません。成り行きで、私たちがお世話を引き受けることになりました。

 この女性が、私たちを振り回しています。

 先ず、この女性が手術を受けることに決めた病院が、埼玉県北西部にありました。とんでもなく遠いところにありました。

 入院に付き添い、手術に付き添い、手術後に付き添いと、この2か月間、埼玉県北西部に泊まったり通ったりしました。

 埼玉県に足を踏み入れたのは、今回が初めてのことです。( 初めての経験をさせてくれた機会ではありました。)

 そして、振り回されている最大の理由は以下です。

 この女性、只者ではありません。

 「高慢」の塊です。

 自分を特別な存在だと信じています。だから、周りが自分の意のままに動くのは当たり前だと思っています。

 これまで、そういう性格であることは薄々気付いていましたので、「敬して遠ざける」方式で接して来ていました。

 ところが、今回ばかりは、そういう訳には行かなくなりました。

 側にいなければならならないので、振り回され続けています。

 それでもお世話を続けているのは、この年齢になると、他人事とは思えないからです。「未来の自分の姿」と思えて、切なくなるからです。

 子どもがいても、子どもにこんな迷惑は掛けたくないと、切実に思います。

 これは、現在の日本が抱える「老後の介護問題」の典型です。

 という訳で、物理的にも精神的にも、「暑苦しい」夏を過ごしている今です。

 でも、ブログの更新も気になり続けていました。

 「日本会議の研究」だけは、終わりにしたいと思っていました。

 8月最後の今日、大分間が空きましたが、「日本会議の研究」の最後です。 

 


 

第6章  淵源

--- 彼らの運動がスタートしたのは、70年安保の時代。

 あの頃からすでに50年近くの歳月が流れた。にもかかわらず彼らはいまだに当時の同志の靭帯を維持し、その輪を拡げている。彼らの敵であった左翼学生運動がその後、内ゲバや離合集散を繰り返し、党派としてはおろか人間関係としても元の姿をとどめていないのと好対照だ。なぜそんなことが可能なのか? 彼らの一体感はどこから生まれるのか? なぜ彼らは同志の靭帯を維持し続けられるのか?

 日本青年協議会や日本会議について通史的に解説する人々はこの問いに、「生長の家創設者・谷口雅春への個人的帰依」という答えを用意する。---

 確かに、谷口雅春は大量の著作を残した。そのため、その著作をバイブルとして読み続けることはできるかもしれない。だが、テキストはテキストでしかない。---

 誰かいるはずだ。谷口雅春が彼らの前から去った後も、運動に参画する多数の人々の情熱を維持し続け、運動に従事する人々の胸を熱くし続ける、谷口雅春に匹敵するようなカリスマ性を持った人物がいるはずだ。---

--- ─── 椛島有三・伊藤哲夫・中島省治  ─── は「谷口雅春に匹敵するようなカリスマ性を持つ人物」としての適性に欠ける。

 彼ら以外に、誰かいる。---

 安東巌。 -------------

 長崎大学で反帝学評のバリケードを撤去せよと叫んでいた「学生協議会初代議長 教育学部4年 安東巌君」は、その後、生長の家青年会の副会長になっていた。伊藤哲夫の当時の肩書は、中央教育宣伝部長。副会長の肩書を持つ安東巌は、伊藤の上司であったということになる。---

 こうして過去の資料を踏まえると、この安東巌こそが、椛島有三や伊藤哲夫や中島省治では適正に欠ける「運動に参画する人々の情熱を維持し続け、運動に従事する人々の胸を熱くし続ける、谷口雅春に匹敵するようなカリスマ性を持った人物」の要件を満たしているように思える。--- 

--- 民族派学生たちにとって、三島事件は衝撃だった。さんざんバカにし、見下し、除名までした連中が、自分たちでは決してできないような大事件を起こしたのだ。その後の三島裁判で、日学同・全国学協の双方が、必死になって裁判支援闘争を繰り広げたことを笑ってはいけない。事件後の彼らを「手のひらを返したように」と揶揄してはいけない。彼らにとってはせめてもの罪滅ぼしだったのだろう。

 しかし、裁判支援闘争は惨憺たる結果に終わる。彼らが裁判の中で証言として残そうとした昭和憲法論や、自衛隊論は歯牙にもかけられず、単なる威力業務妨害事件・監禁傷害事件として、三島事件は司法の場で片付けられてしまった。

 裁判闘争の失敗からくる無力感や、全国学協を指導する立場の「生長の家」教団からの指示についての解釈の相違などから、全国学協と社会人組織である日本青年協議会は対立するようになる。やがて対立は激化し、「生長の家」教団の方針や日本青年協議会の指導に飽き足らなくなった全国学協は、ついに、自身の社会人組織であある日本青年協議会を除名するに至った。---

 かくて、日本青年協議会は、学生運動の足場を失った。--- 自前の学生運動組織を持つ必要性に迫られた日本青年協議会が組織した団体が、前にも登場した「反憲法学生委員会全国連合」略称「反憲学連」だ。---

 反憲学連の結成は、1974年3月。---

 彼らが、2016年現在、何をしているか、--- もう40年近い歳月が流れている。にもかかわらず彼らはいまだにその仲間の靭帯を維持し、運動を続けている。--- なんたる情熱。なんたる継続力。これが、「谷口雅春なきあとも、彼らの情熱を支え続ける存在がいるはずだ」という仮説を提起させざるをえない理由だ。---

--- 40年以上前に始まった彼らの運動は、目下、

 「日本会議」

 「日本政策研究センター」

 「 谷口雅春先生を学ぶ会」

の3つのドメインに分かれており、この3つのドメインが綿密な連携を取りつつ、各方面に展開している・・・・・と解釈するのが自然だろう。従って、この3つのドメインの頭目たち ─── 椛島有三・伊藤哲夫・中島省治 ─── を「彼らの運動を束ねる存在」として見るわけにはいかない。会社組織でいえば、この3人は、事業本部長のような存在だろう。この事業本部長たちを束ね、運動全体を見渡す立場の人物がいるはずだ。---

 本来であれば60年安保世代であるはずの安東巌は、高校2年生のとき、大病を発した。病名は、肺動脈弁狭窄症。心臓弁膜症の一種で、重度の場合は死に至らぬとも限らない重い病気だ。そのため彼は高校を休学し、病床についた。時に、1956年。石原慎太郎原作の『太陽の季節』が映画化され、弟・裕次郎がデビューしたあの年だ。---

 病床に就いた彼が、何を考え、どのような生活を送ったのか。その様子を極めて詳細に語り、その記録を後世に残した人物がいる。誰あろう、生長の家創始者・谷口雅春だ。---

---家が貧しかったので、母親は、苦しい顔をしているときしか薬を買ってくれないし、そんな状態のまま病床生活は7年目を迎えた。--- そんな彼に転機が訪れる。あまりにも惨めな境遇を世の中に訴えたい。--- そんな一心で、彼は朝日新聞に投書した(2016年の現在、彼が率いる「一群の人々」が躍起になって朝日新聞を攻撃していることを考え合わせると、当時の安東巌が朝日新聞の読者だったことはなんとも皮肉なことだ)。---

その叫びが届いたのか、安東のもとに励ましの手紙が届くようになった。が、その中に一通、風変わりなハガキが交じっていた。---同じ差出人から『月刊生長の家』も届けられてきた。

 安東は届いた『月刊生長の家』を貪るように読んだ。谷口雅春の説く教義に魅了されていく。--- やがて、「人間神の子、本来、病なし」という谷口雅春の教えを心底から「悟った」と言える境地に達した。その途端、病状は軽くなり、上半身はどうにか動くようになった。しかし下半身は、いまだ動かない。

 そこで、生長の家の地方講師から個人指導を受けることとした。この地方講師からは「親への感謝の気持ちがなければ病気など癒えない」ときつく指導され、安東巌はこれまで母親を恨んでいたことを懺悔し、親への感謝を念じるようになる。すると、たちまち病は癒え、立ち歩けるまでに回復し、「生長の家」青年部の活動に邁進できるほどになった。---

 青春の7年間を虚しく病床で過ごした安東巌は、今、決然と起き上がり、社会にその一歩を踏み出した。--- 安東巌は長崎大学に進学する。安保改定の1970年を4年後に控え、世情はまた騒乱の匂いを漂わせ始めていた。

 この長崎大学で、安東は、6歳年下の椛島有三と出会う。その後、安東と椛島が開始した「 学園正常化運動」は大きく育ち、衛藤晟一、百地章、高橋史郎といった面々を巻き込みつつ、やがて、「民族派の全学連」と呼ばれた「全国学協」にまで発展していく。

 その過程において、「神の子」安東巌は常に運動の最前線にい続けた。---

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 前項で証言者が語ってくれた安東の「不思議な力」にはさまざまなエピソードがある。

「安東がしゃべるでしょ。安東は話がうまい。しかしそれだけじゃない。車椅子に乗っていたおばあさんが安東の話を楽しそうに聞き終えたら、なんと歩いて帰ったんだ」

 こうした話は各所で聞いた。---

 筆者も、これまで3度ほど安東巌の講話を聞いた。彼は表には出てこなくても、あくまでも信徒向けの講話はいまだに行っているのだ。信徒に混じり会場で彼の話を聞いていると、取材の意図や目的を忘れて、話に引き込まれ、爆笑し、号泣してしまっている自分に気づいた。爆笑と号泣が2分おきで起きる。確かにこの講話の技法に20歳の頃に出会っていれば、心酔していたかもしれない。それが安東の講話の特徴だ。---

 「『理想世界』100万部運動」の達成で、安東の権威は揺るぎないものとなった。学生時代には、「民俗学派の全学連」と評された全国学協を立ち上げ、社会人となってからは、「生長の家」青年会を拡大させ、教団の屋台骨とした。もう誰も彼の権威に逆らえない。---

--- 安東は決してカネを出せとは言わない。また、お布施を推奨するわけでもない、あくまでも、『理想世界』を買えと言うだけだ。しかしそれは同時に創価学会でいえば「財務」と称される献金活動に他ならない。---

 その頃の安東をよく知る人物が北関東某県にいる。その証言者によると、

「安東さん、すごかったですよ。腰は低いしね、控えめだし。あくまでも真面目な青年。表に立つのは、安東さんじゃない。青年会のときは、森田征史さんが会長で表看板。政治運動は、玉置先生とか村上先生が表看板。でも全て裏は安東さん。もうね、徹底しているの。自分が表に出ないことは。だからこそ、活動家たちは、安東に会うと喜ぶのよ。安東の話を聞くと泣いて喜ぶの」

 このスタイルは今も変わらない。運動の全面に立つのは、椛島有三であり伊藤哲夫であり中島省治だ。安東の姿は見えてこない。---

 安東巌の類稀なる、策士・運動家・オルガナイザー・名演説家としての実績と、彼個人の人格的魅力、そして、「谷口雅治との個人的靭帯」に裏付けられた権威・これでは、安東巌には誰も逆らえないだろう。---

 彼らは、いまだに学生運動を続けている。70年安保の時代の空気をまとったまま、運動を続けている。そしてその出発点が、長崎大学正門前で、苦心して刷ったガリ版刷りのビラを踏みにじられ、左翼に殴り飛ばされたときに安東巌と椛島有三が誓った「左翼打倒」の誓いにあることを、我々は直視すべきだろう。

 そしてその誓いは、今、安倍政権を支え、「改憲」という彼らの悲願に結実しようとしている。彼らは悲願達成に向け、50年近い歳月を経て培ってきた運動ノウハウの総力を挙げ、「左翼打倒」の誓いを成就する最後の戦いに挑んでくるであろう。

 我々はまだ、長崎大学正門前のゲバルトの延長を、生きている。 

むすびにかえて 

 約1年にわたって、日本会議を追いかけてきた。---

 連載開始当初は、常に「なぜメディアはこれまで日本会議のことを書かなかったのだ」という憤りが取材や執筆のモチベーションだった。とりわけ、2015年夏は、安保法制の審議を横目に見つつの作業であったため、その憤りは高まる一方だった。しかし、今ならわかる。これはメディアには書けない。何も、メディアに能力がないというのではない。速報性と正確性が何よりも必要とされる大手メディアの仕事の範疇ではないのだ。調査・報告はやはり新聞やテレビ以外の仕事だ。また、学問の範疇でもないだろう。---

---連載開始当初は、「巨大組織・日本会議」というイメージを私も抱いていた。しかし、事実を積み重ねていけば、自ずと、日本会議の小ささ・弱さが目につくようになった。活動資金が潤沢なわけでも、財界に強力なスポンサーがいるわけでもない。ほんの一握りの人々が有象無象の集団を束ね上げているにすぎない。この程度の団体は、80年代以前であれば、単なる「圧力団体の一つ」として扱われていただろう。---

 しかしながら、その規模と影響力を維持してきた人々の長年の熱意は、特筆に値するだろう。本書で振り返った、70安保の時代に淵源を持つ、安東巌、椛島有三、衛藤晟一、百地章、高橋史郎、伊藤哲夫といった、「一群の人々」は、あの時代から休むことなく運動を続け、さまざまな挫折や失敗を乗り越え、今、安倍政権を支えながら、悲願達成に王手をかけた。この間、彼らは、どんな左翼・リベラル陣営よりも頻繁にデモを行い、勉強会を開催し、陳情運動を行い、署名集めをしてきた。彼らこそ、市民運動が嘲笑の対象とさえなった80年代以降の日本において、めげずに、愚直に、市民運動の王道を歩んできた人々だ。その地道な市民運動が今、「改憲」という結実を迎えようとしている。彼らが奉じる改憲プランは、「緊急事態条項」しかり「家族保護条項」しかり、おおよそ民主的とも近代的とも呼べる代物ではない。むしろ本音には「明治憲法復元」を隠した、古色蒼然たるものだ。しかし彼らの手法は間違いなく、民主的だ。

 私には、日本の現状は、民主主義にしっぺ返しを食らわされているように見える。

 やったって意味がない、そんなのは子供のやることだ、学生じゃあるまいし・・・・・と、日本の社会が寄ってたかってさんざんばかにし、嘲笑し、足蹴にしてきた、デモ・陳情・署名・抗議集会・勉強会といった「民主的な市民運動」をやり続けていたのは、極めて非民主的な思想を持つ人々だったのだ。そして大方の「民主的な市民運動」に対する認識に反し、その運動は確実に効果を生み、安倍政権を支えるまでに成長し、国憲を改変するまでの勢力となった。このままいけば、「民主的な市民運動」は日本の民主主義を殺すだろう。なんたる皮肉。これは悲喜劇ではないか!

 だが、もし、民主主義を殺すものが「民主的な市民運動」であるならば、民主主義を生かすのも「民主的な市民運動」であるはずだ。そこに希望を見いだすしかない。賢明な市民が連帯し、彼らの運動にならい、地道に活動すれば、民主主義は守れる。2016年夏の参院選まで、あと数か月。絶望するには、まだ早い。---

 


 で、終わったのですが、この本が刊行されたのは 2016年3月。

 夏の参院選は、自民党の勝利で終わりました。

 日本だけでなく、世界中の先進国と言われる国々で、「民主主義」が危機に瀕しています。

 民主主義とは何か? 改めて考える必要があるようです。 

 

 

 

 


日本会議の研究  菅野完著  扶桑社新書 ⑥

第5章  「一群の人々」

--- 本章では重要人物に焦点を当てながら、「一群の人々」を浮き彫りにしていきたい。

 まず取り上げるのは、日本政策研究センター代表・伊藤哲夫。

 一般の人になじみのある人物ではないかもしれないが、第一次安倍政権発足以前から、安倍晋三の周りに常に付き従い、一部では「安倍政権の生みの親」とさえいわれる、重要人物だ。--- 

 日本政策研究センターは、『明日への選択』という月刊機関誌を発行している。この機関誌は、まるで安倍政権が提案する諸政策の代弁をしているかのような誌面構成をしている。---

--- 彼は、第一次安倍政権誕生前から、安倍晋三とべったりとくっつき、ことあるごとに彼をプロモートしてきた。---

--- 当選回数も少なく大臣経験もない「若造」の幹事長就任は、前代未聞といっていい。この大抜擢を行ったのは、時の総理総裁・小泉純一郎。小泉はこのとき、不文律として自民党の中で長年尊重されてきた「総幹分離原則」(一派閥への権力集中を防ぐため総裁職と幹事長職を同じ派閥から出さないという人事上の原則)を無視して安倍晋三を幹事長に抜擢している。まさに、小泉の代名詞ともいえる「サプライズ人事」の典型例だ。

 ある意味、安倍晋三は、「小選挙区制の申し子」といえなくもない。中選挙区制の時代であれば、いかに小泉に絶大な国民的人気があたとはいえ、党内の因習や権力バランスを無視し、当選回数の少ない若手議員を自派閥から幹事長に抜擢することは困難を極めたはずだ。--- 同時にこの異例の抜擢は、安倍の脆弱さも物語る。そして、この大抜擢のわずか2年後、小泉のあとを継ぎ、安倍は総理総裁まで上り詰める。が、いかんせん、2年である。自派閥の中にさえ、中川直秀や町村信孝など、安倍よりもはるかに当選回数も閣僚経験も豊富な人材がひしめいていた。派閥の領袖としてさえ権力基盤を構築しえないまま、安倍は総理総裁になったのだ。それまでの総理総裁と比べ、安倍の党内権力基盤は驚くほどに脆弱だ。日本会議や「生長の家原理主義者ネットワーク」をはじめとする「一群の人々」が安倍の周囲に群がり、影響力を行使できるのも、この権力基盤の脆弱さに由来するのではないか。安倍は他の総理よりつけこみやすく、右翼団体の常套手段である「上部工作」が効きやすいのだ。--- 

 2015年8月2日、「第4回『明日への選択』首都圏セミナー」と題するセミナーが都内某所で開催された。---

 「セミナーはこの通りに進行しました」と、この参加者が提供してくれたレジュメには、「日本政策研究センター」が目指す憲法改正の内容と手順が克明に記載されていた。

 レジュメで示された「憲法改正のポイント」は大きく分けて以下の3つだ。

 1.緊急事態条項の追加

 非常事態に際し、「三権分立」「基本的人権」等の原則を一時無効化し、内閣総理大臣に一種の独裁権限を与えるというもの。

 2.家族保護条項の追加

 憲法13条の「すべての国民は、個人として尊重される」文言と、憲法24条の「個人の尊厳」の文言を削除し、新たに「家族保護条項」を追加するというもの。

 3.自衛隊の国軍化

 憲法9条を見直し、明確に戦力の保持を認めるというもの。

 ここで注目すべきは、「改正対象」の順番だろう。

 長年、改憲論議は「憲法9条」を中心に行われてきた。しかし日本政策研究センターが提示する憲法改正リストのトップは、緊急事態条項であり、憲法9条は一番最後に来ている。---

 そして、この考え方は、自民党内に設置された憲法改正推進本部の動きと一致する。---

 先に登場したセミナー参加者は「さらにその先があるのです。実をいうと、会場で驚くべき発言があったのです・・・・・・」と会場で見聞きした内容をさらに証言してくれた。---

 質疑応答になり、一人の男性が挙手し、「日本政策研究センターの優先順位はわかったし、緊急事態条項の追加などであれば合意も得やすいとは思う。しかし、我々は、もう何十年と、明治憲法復元のために運動してきたのだ。今日のこの内容の話を、周りの人間にどう説明すればよいのか?」と質問したというのだ。

 この質問に対する日本政策研究センターの回答は、「もちろん、最終的な目標は明治憲法復元にある。しかし、いきなり合意を得ることは難しい。だから、合意を得やすい条項から憲法改正を積み重ねていくのだ」という趣旨だったという。---

 この「何十年と続いてきた運動」とそれを支える「我々」こそが、「日本政策研究センター」と「日本会議」をつなぐポイントだ。---

 これまでも何度か触れたように、今現在の「生長の家」教団は政治運動から完全に撤退している。撤退以前の 「生長の家」政治運動は、政界内外で大規模に展開されており、玉置和郎、村上正邦という当時の自民党総裁選にも影響を及ぼす有力な国会議員を擁するまでに至っていた。しかし、「生長の家」はその政治運動の絶頂期に突如「生長の家政治連合」ならびに「生長の家政治連合地方議員連盟」の活動を停止する。---これまで「生長の家」の動員力に頼っていた各種運動は突如の撤退宣言により大混乱に陥ったという。

 時系列としては、「伊藤哲夫は『生長の家』が政治運動から撤退したことを契機に『日本政策研究センター』を設立した」とも見えなくもない。もしそうであれば、伊藤哲夫は1984年以前に「生長の家」政治運動に深く関わっていたはずだ。---

 『理想世界』昭和51年(1976年)11月号に、伊藤はいた。---

 鼎談の相手は、生長の家青年会の会長・森田征史と副会長・安東巌。当時の伊藤哲夫の肩書は、「中央教育宣伝部長」だったらしい。---

 やはり伊藤哲夫は、「生長の家」教団が1983年10月に突如として政治活動を停止したため、教団での立ち位置を失い、一本独鈷として活動するために、やむなく「日本政策研究センター」を立ち上げたと考えるのが自然だろう。

 日本政策研究センターの設立から31年。今や伊藤哲夫は安倍首相の筆頭ブレーンと言われるまでの存在になった。言い換えれば、「安倍首相の筆頭ブレーンは『生長の家』の元幹部」ということでもある。

 2人目の重要人物に話を移そう。

 安保法制審議が山場を迎えていた2015年6月10日。---

 衆院平和安全法制委員会における質疑で、民主党議員・辻元清美から「(集団的自衛権を合憲とする憲法学者が)こーんなにいる、と示せなければ、法案は撤回した方がいい」と指摘された官房長官・菅義偉は

 長尾一紘・中央大名誉教授

 百地章・日本大教授

 西修・駒澤大名誉教授

の3名を「集団的自衛権を合憲とする憲法学者の具体名」として挙げた。

---このニュースが流れた当時、大方の反応は、「あれだけ『たくさんいる』と豪語していたのに、たった3名とは・・・・・・」というものであった。

 だが、問題は、数ではない。その顔ぶれだ。

 すでに述べたように、日本会議はそのフロント団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を通じて、目下、1000万筆を目指して全国的な署名活動を展開している。---

 また、もう一つのフロント団体「『二十一世紀の日本と憲法 』有識者懇談会」(民間憲法臨調)を通じては、各界の識者や政治家を招聘して、「憲法フォーラム」と題するパネルディスカッションを全国各地で展開するなど、地味ながらも地に足をつけた運動を展開中だ。---

--- 菅官房長官が挙げた3名の憲法学者 ─── 中央大名誉教授・長尾一紘、日本大教授・百地章、駒沢大名誉教授・西修 ─── は、皆、この2団体の役員なのだ。---

 百地章が静岡大学を卒業したのが1969年。ちょうど東京では、長崎大学の椛島有三(現・日本会議事務総長)を中心として「全国学協」が結成された頃だ。

 全国学協は「生長の家」の学生信徒の運動を軸として「民族派学生の全共闘」を目指して結成されたもので、あくまでも運動目標は「左翼・セクト学生運動との闘争」にあった。そのため民族派学生運動のなかから「闘争一本やりではなく、サークル団体として学生たちに文化的な活動を通じて思想教育をする運動体が必要だ」との機運が高まる。その結果生まれたのが、「全日本学生文化会議」だ。--- 結成大会が開かれたのは1969年11月。この結成大会の実行委員長を務めたのが、静岡大学を卒業し京都大学修士課程に進んだ直後の百地章だ。---

 その後、「全国学協」をはじめとする民族派学生運動は、左翼学生運動の終焉にともない下火になる。だが、「全国学協」の社会人組織として椛島有三が作った「日本青年協議会」と、百地章が結成大会の実行委員長を務めた「全日本学生文化会議」はその後も運動を展開し、ついには巨大組織・日本会議の事務局を担う運動体となった。---

--- 前述のように、百地章のみならず、長尾一紘と西修も、日本会議フロント団体の役員という特殊な背景を持つ。--- 

 言うまでもなく、集団的自衛権は、日本の将来を左右する重大な課題だ。このような課題を議論するにあたって、特殊な政治意図をもった特殊な人々の主張に依拠することが、果たして許されるのだろうか。---

 そして3人目。

 2015年11月5日、毎日新聞が「記憶遺産意見書:日本、『南京』否定派を引用」と題して、政府がユネスコに提出した、中国による南京事件の記憶遺産登録に反対する意見書の内容について、疑義が挟まれていることを報じた。 

 記事によると、この意見書を作成したのは明星大学教授の高橋史郎。高橋はこの意見書で、南京事件の発生そのものを否定する論調で知られる亜細亜大学教授の東中野修道の著作から一部を引用し、中国側が提出した写真に対し「関連性が疑われる」と反論を行ったという。さらに記事では外務省関係者による「高橋教授は保守派の中ではバランスの取れた研究者だ」というコメントが添えられ、あくまでもこの意見書を堅持しようとする政府サイドの姿勢が描かれている。---

--- この写真に写っている人物は

 日本青年協議会(日青協)会長兼日本会議事務局長 椛島有三

 安倍総理大臣の首相補佐官 衛藤晟一

 安保法制のイデオローグ 百地章

 日青協の経済界窓口 森藤左ヱ門

 そして、本節の主役、高橋史郎、だ。

--- つまり、高橋史郎は、「日本会議と親密」どころか、「日本会議の推進母体」たる「日本青年協議会」の幹部だったのだ。---

--- 今や高橋は、外務省が「バランスの取れた研究者だ」と評価するまでの存在になった。

 だが、本稿で振り返った高橋の来歴を見て、果たして彼を「バランスの取れた研究者」と評価できるだろうか?

 高橋が「生長の家」の信徒であることは措くとしても、彼が「日本会議」の運営母体である「日本青年協議会」の幹部だという事実は揺るがない。つまり、右翼団体の幹部であり、かつまた正規の歴史学の教育を受けたことのない人物を、外務省は「バランスの取れた研究者」と評価していることになる。

 これは、どう考えてもおかしい。---

 本書のメインターゲットの一つ「日本会議」を支える「日本青年協議会」は、「生長の家」の学生運動からスタートしたものだ。--- さらに、「安倍晋三の筆頭ブレーン」と呼ばれる伊藤哲夫も、「生長の家政治運動」と切っても切れない関係にあるということも解説した。

 こうした事実からは、安倍政権が「生長の家」政治運動の関係者という「インナーサークル」の強い影響下にあるという、由々しき事態が見えてくる。---

 ここで、本書の問題意識について改めて触れておこう。

「安倍政権の反動ぶりも、路上で巻き起こるヘイトの嵐も、『社会全体の右傾化』によってもたらされたものではなく、実は、ごくごく一握りの一部の人々が長年にわたって続けてきた『市民運動』 の結実なのではないか?」---

 今や「安倍後継の最有力候補」との異名を持つまでになった自民党政調会長の稲田朋美が出演する「ダイジェスト 第6回東京靖国一日見真会」という動画のキャプチャ画像だ。

 この写真で稲田朋美が掲げている書籍は、生長の家の経典、『生命の實相』。---

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 政府が「集団的自衛権は合憲である」と主張する際には、百地章のコメントが必ず引用されていた。つまり、2015年の夏、官邸側のイデオローグのような立場にいた百地章は、『谷口雅春先生を学ぶ』創刊号の編集人だった。そして、「谷口雅春先生を学ぶ会」の会合で、稲田朋美は「祖母から受け継いだ」という「生長の家」の根本経典である『生命の實相』を振りかざしながら講演している。

「官邸側のイデオローグ」百地章と「安倍後継の最有力候補」稲田朋美は、「生長の家原理主義運動」という同じ志を持つインナーサークルに属するわけだ。---

--- 「一群の人々」の運動は結果として、「軍歌を歌う幼稚園」や「路上で猖獗を極めるヘイトデモ」に結びついた。そして今、「一群の人々」の運動は、そうした影響力を行使しつつ、彼らの悲願「改憲」に王手をかけている。

 


 

 何やら、ギラギラした情念と野心を偏った信念に注ぎ込み、権力を手に入れて自分たちに都合のよい世界を作りあげようとする人間が暗躍する「古代ドラマ」を観ているような気分になってきました。

 それが創られたドラマではなく、現実の、今の日本の政治の現場であることが、何とも怖ろしく思えます。

 それを、ただ、見ているだけの私たちということになっています。 


日本会議の研究  菅野完著  扶桑社新書 ⑤

第4章  草の根

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 2015年11月10日、日本会議が主導する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は、「今こそ憲法改正を! 武道館1万人大会」と称する集会を開催した。---

 会場に向かう経路で、最初に出くわしたのはこの両名。

---村田春樹。在特会の草創期に幹部を務めた人物だ。今は、在特会とは距離を置いている。しかしこの村田春樹、「グレンデール慰安婦像」で活発に活動する元在特会事務局長・山本優美子と同じく、「日本会議界隈に拾い上げられた在特会関係者」の筆頭だ。彼は椛島有三とともに同じイベントで講演したこともある。

---葛目浩一。関西の「行動する保守」界隈では新聞『アイデンティティ』の発行人として知られる。---また、葛目浩一は、生長の家関連団体での活動も確認されていることにも留意が必要だろう。---

 この「改憲1万人大会」に向けては、日本会議に所属する各組織からの動員がかけられている。動員の実施は当然の話であって驚くべきことでも揶揄することでもない。だが、その整然たる様は目をみはるものがあった。--- 誘導員の圧倒的多数はガードマンでもイベント会社の人物でもない。スーツを着た日本会議関係者だ。日本会議およびその周辺の人脈は、これまでたびたび武道館を会場に各種の「1万人大会」を開催してきた。そのたびにノウハウを蓄積してきたのだろう。実に慣れていて無駄がない。---

---一般参加者がほぼいないことは笑うべきことではない。--- 一般参加者がほぼいなくとも、1万人を若干超える計算になる。果たして、大会の中で発表された参加者数は、1万1300人だ。

 つまり、今回の日本会議による「今こそ憲法改正を! 武道館1万人大会」は、決して、「1万人しか来なかった」集会とはいえないのだ。「1万人集める」と公言し、その数をきっちり公言通りに叩き出した集会というべきなのだ。--- なんたるマネジメント能力! 容易に想像がつくように、この能力は、選挙においても発揮される。---

 これほど、政治家にとって魅力的なこともあるまい。確固たる固定票は得体の知れぬ「時代の風」や「無党派」なるものよりよほど頼りになる。---

 大会の開催中、日本会議事務総長・日本青年協議会会長の椛島有三は、終始、満足そうな顔で観客席を見つめていた。

 椛島は、宿願の達成を確信したにちがいない。---

 司会挨拶の後、国歌斉唱に進む。2時間ほどの大会の中で、この国歌斉唱は「会場全体の一体感」が生まれた数少ない瞬間の一つだった。適切な言葉でないかもしれぬが、「グルーブ感」さえある。

 この「国歌斉唱におけるグルーブ感の発生」こそが、日本会議を理解するカギの一つだ。一口に「保守系」といっても、動員対象となった各教団は、それぞれ掲げる政策目標も運動への温度感も違う。--- そんな多種多様な人々が「なんとなく保守っぽい」という極めて曖昧な共通項だけでゆるやかに同居しているのが「日本会議」だともいえる。そして「国歌斉唱」は「なんとなく保守っぽい」だけで集まる人々を束ねる数少ない要素の一つなのだ。

 国歌斉唱の他に、会場の一体感が生まれた瞬間があと2つある。 

 「日本国憲法を作った国・アメリカの出身です」と自己紹介したケント・ギルバートが「(9条を堅持するのは)怪しい新興宗教の教義です」と発言した瞬間と、当日予告編が初上映された改憲プロパガンダ映画のプロデューサーだという百田尚樹が「(日本人の目をくらますのは)朝日新聞、あ、言ってしまった」と発言した瞬間だ。---

---ここで会場の一体感が生まれたことは注目に値する。

 ケント・ギルバートの発言も、百田尚樹の発言も「9条遵守派」や「朝日新聞」という「なんとなくリベラルっぽい」とされるものを揶揄の対象としている。そしてその発言の瞬間にこそ、国歌斉唱のときと同じ、一体感が生まれた。利害関係の大幅に異なる各教団や団体の連帯感を生むものは、この「国家斉唱」と「リベラル揶揄」しかないのだ。---

 日本会議事務方が行っているのは、「国歌斉唱」と「リベラル揶揄」という極めて幼稚な糾合点を軸に「なんとなく保守っぽい」有象無象の各種教団・各種団体を取りまとめ、「数」として顕在化させ、その数を見事にコントロールする管理能力を誇示し、政治に対する圧力に変えていく作業なのだ。

 個々の構成員は高齢でそのくせ考えが幼稚でかつ多種多様かもしれぬが、これを束ねる事務方は、極めて優秀だ。この事務方の優秀さが、自民党の背中を押し改憲への道へ突き進ませているものの正体なのだろう。---

 不思議なことに、日本会議の改憲運動本部でありこの大会の主催者である「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は、独自の憲法案を発表したことはない。彼らの言う「美しい日本の憲法」とはいかなるものか、一切、語られたことはない。---

 しかし、今回、櫻井の口から改正の方向性と若干具体的な内容が初めて語られた。---

---彼女が具体的に名前を挙げたのは、

 ●緊急事態条項

 ●家族 

 の2点のみ。---

---この大会が開催された2015年11月10日、「改憲の具体的内容」として「緊急事態条項」を挙げた人物がもう一人いる。しかもその発言は、改憲大会で発せられたのではない。

 安倍晋三も10日午前(つまり大会の直前)に、衆院予算委員会で「緊急事態条項」を改憲の具体的項目として挙げているのだ。

 安倍の発言も櫻井の発言も、「日本政策研究センター」の改憲プラン通りということになる。安倍はこの大会に寄せるビデオメッセージを大会に先立つ5日前に収録している。両者の間に何らかの協議があったことは明白だ。決して、偶然の一致とはいえまい。---

 「改憲1万人集会」では会場には白髪が目立った。実際に、日本会議やその周辺が開催するイベントの参加者は高齢者が多い。---

 だが、スタッフは若い。

 なかにはどう見ても大学生にしか思えない若い男女もいる。---

 既に書いたように、日本会議の本部は日本青年協議会と同じビルのフロアに入居している。また、日本青年協議会の会長である椛島有三は、日本会議の事務総長だ。これらの事実に立脚して「日本青年協議会こそが日本会議のコアであり推進母体である」と指摘してきたが、スタッフも日本青年協議会から出ているとなると、「運動体としての日本会議は日本青年協議会が取り仕切っている 」と言い切ってもいいだろう。---

 


 

 日本会議の周辺に集まっている人たちは、確たる思想を持った人間たちの集団とは言えないようです。 

 

 


日本会議の研究  菅野完著  扶桑社新書 ④

第3章  憲法

 今まで度々登場した「日本会議の源流を作った男」椛島有三と、彼が率いる日本青年協議会。---

 目下、彼らの活動の焦点は「改憲」にある。---

 「憲法の時間です!」は『祖国と青年』名物の漫画コーナー。--- 漫画コーナーなので、通例では巻末に掲載されることが多い。だが、この4月号は違った。

 巻頭特集「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の年次総会報告記事のすぐ後、基調演説を行う櫻井よしこの大写しの写真が掲載されている次のページから、4月号の「憲法の時間です!」は始まっている。--- 実にくだらない。よく2015年にもなって、こんな陳腐な「ヤマト」パロディを恥ずかしげもなく描けたものだと思う。こんなもの誰が読むんだ。と、一笑に付そうとしたとき、最終コマに書かれた文字で、戦慄を覚えた。

 「憲法改正まであと四百八十日 ━━━━ 」

 これは、日本青年協議会による、「改憲へのカウントダウン」ではないのか・・・・・。 

 奥付によると『祖国と青年』2015年4月号の発売日は4月1日。2015年4月1日から480日といえば、2016年7月25日。参議院議員任期満了の日だ。この日までに参院選は実施され、新しい参議院議員が就任する。

 2016年の参院選が改憲の天王山になるという点は、大方の見方と一致する所だ。---

 前章でも触れたように、日本青年協議会は、「日本を守る会」の事務局であった40年前から今現在に至るまで、手堅い運動手法で自分たちの運動目標を着実に政策化し続けている。彼らが取り組んだ運動のほぼ全てが、立法化あるいは政令化され、現実のものになっている。その彼らが、「改憲」という最終目標にむけ、2015年4月の段階で明確にカウントダウンを始めていたのだ。---

 なぜ安倍政権は憲法を蹂躙し、立憲主義を踏みにじるのか?

 それを読み解く鍵はやはり日本会議であり、その中核である日本青年協議会にある。---

 日本青年協議会は、全国学協の社会人組織として発足しながらも、発足直後の1973年に全国学協から除名処分を受ける。学生組織の後ろ盾を失った日本青年協議会は、自前の学生運動組織を結成する必要に迫られた。そのために結成されたのが「反憲法学生委員会全国連合」、略称、「反憲学連」だ。

 「反憲法学生委員会全国連合」の名前が指し示す通り、民族派といえども彼らの狙いは、「改憲」ではない。あくまでも「反憲法」にこそある。

 「反憲法」とは、つまるところ、「現行憲法を徹底的に否定する」というテーゼ。---

--- 見逃せないのが、日本会議と最高裁元長官のつながりだ。---「元号法制化実現国民会議」。この団体はのちに、「日本を守る国民会議」と名称を変更し、日本会議の前身の一つとなる。その設立に並々ならぬ情熱を燃やし、初代会長に就任したのは、最高裁長官を退官したばかりの石田和外だった。また、2001年から2015年まで、14年間もの長きにわたって、日本会議会長を務めていたのは、元最高裁長官の三好達。--- このままいけば、今回の大法廷を代表した寺田逸郎長官が、退官後に日本会議の会長職に収まるのも不自然だとは思えないほどの勢いだ。

 


 

 最高裁長官が退官後、日本会議の会長職に就く。

 空恐ろしいことではありませんか。 


日本会議の研究  菅野完著  扶桑社新書 ③

第2章  歴史

 日本会議には多くの宗教団体が参加している。しかしそれは決して「カルトによる支配」でも「宗教右翼の陰謀」でもない。日本会議について知るためには、そうした幼稚で拙速な陰謀論的総括と誤解を排す必要がある。そうした認識を捨てたうえで、まずは、日本会議が辿ってきた歴史を振り返ってみよう。

--- 日本会議が公開している設立当初の文書を見ていこう。設立経緯を説明する「設立趣意書」は、

 我々「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」は、設立以来20有余年にわたり、戦後失われようとしている健全な国民精神を恢弘し、うるわしい歴史と伝統にもとづく国づくりのため相提携して広汎な国民運動を展開してきた。

  との書き出しで始まる。

--- この2団体のうち設立が早かったのは「日本を守る会」で、1974年のことだ。一方の「日本を守る国民会議」は、後述する元号法制化運動に際し、1978年に組織された「元号法制化国民会議」を前身として1978年に設立された。「日本を守る会」の出発から考えると日本会議の活動歴は、実に40年の長きにわたることになる。---

--- 「日本を守る会」は、地方議会での意見書採択運動の展開・全国各地での元号法採択要求デモの実施・各界著名人を招聘しての元号法シンポジウムの開催といった運動を大々的に展開し、政府与党への圧力を強め、その結果、運動開始後わずか2年で、元号法の立法という成果を獲得した。

 数々の保守系団体が長年かけても成功しなかった元号法制化を、「日本を守る会」がわずか数年で達成したことは、保守陣営に衝撃を与えた。この後、神社本庁や遺族会などの旧来の保守団体が「日本を守る会」の周囲に集まり、連帯を強め、運動手法を取り入れるようになっていく。

 元号法制定運動で40年前に鮮やかなデビューを飾った「日本を守る会」。それが、現在、我々が対峙する「日本会議」の源流だ。

 元号法制定運動を推進した「日本を守る会」の発起人は鎌倉円覚寺管長・朝比奈宗源。彼があるとき伊勢神宮に参拝し「世界の平和も大事だが今の日本のことをしっかりやらないといけない」と「天の啓示」を受けたのだという。このような宗教的な経験がきっかけであるため、「日本を守る会」はあくまでも宗教者と文化人の集まりとして政治家や経済人は入会させなかった。---

 一方で、今の日本会議の役員名簿からは消えている団体がある。

「生長の家」だ。

 そもそも、生長の家は、谷口雅治が1930年に創設した強烈な反共意識にもとづく右派的な教義を説く宗教団体であった。しかし、現在の「生長の家」は「エコロジー左翼」とでもいうべき路線を採用しており、日本会議とは基本的には一切の人的交流はない。 

 しかし、当時は違った。

 「生長の家」の創始者・谷口雅治は、戦後、公職追放となった。しかし、公職追放が解けた直後から「明治憲法復活」「占領体制打破」をスローガンの積極的な言論活動を展開しており「愛国宗教家」の異名を持つほどであった。また、強烈な反共意識と、折から勃興する創価学会への警戒心にもとづき、積極的な社会運動を60年安保の頃から展開してもいた。---

「生長の家」信者の子弟からなる「生長の家学生会全国総連合」(生学連)が結成されたのは1966年。ちょうど、左翼側では「ブント」が再興されたり、三派全学連が羽田闘争を開始したりと、後年「70年安保」や「全共闘運動」などと呼ばれる左翼学生運動の下地が整い出した頃だ。

 左翼学生運動は拡大を続け、全共闘運動は全国各地に波及し、各地の大学でバリケードによるキャンパス封鎖や各種左翼セクトによる自治会占拠などが相次ぐようになる。右翼学生は各地の大学にいたものの、質・量ともに太刀打ちできない。

 そんななか、日本社会主義青年同盟(社青同)を中心とする左翼学生が占拠し、授業中断が続いていた長崎大学を「正常化」することに生長の家信徒たちが成功する。

 「長崎大学で、右翼学生が、左翼学生からキャンパスを解放した」というニュースは全国の大学で圧倒的劣勢に立つ右翼学生運動の希望の星となった。--- 長崎大学での成功と実績をもとに「生長の家学生会」「原理研」「日学同」など民族派学生セクトが大同団結し、「民族派の全学連」を目指し、「全国学生自治連絡協議会」(全国学協)が1969年に結成される。

 しかし、「全国学協」の結成は、いささか遅きに失した。

 ノンポリの学生をも惹きつけ全国各地に飛び火した全共闘運動を代表とする左翼学生運動は、すでに安田講堂事件や日大闘争を境に下火になりつつあった。

 運動の主軸が「左翼学生運動への対抗」でしかない民族派学生運動としては、目標を失ってしまった格好だ。左翼学生運動という敵を失った彼らはご多分に洩れず内ゲバに走るようになる。

 「日本を守る会」が結成され元号法制定運動に取り組みだした1974年は、ちょうど、目標を失った民族派学生運動の迷走がピークを迎えた頃に重なる。

 この頃「日本を守る会」の事務局を取り仕切っていたのが村上正邦だ。

 後年「参院の法王」とまで呼ばれるようになる彼だが、当時は「生長の家」の組織候補として自民党から1974年の参院選挙に初出馬するも落選した直後ということもあり、生長の家を代表して「日本を守る会」の事務局の中心メンバーとして活動していた。--- 「全国学協」の前身は長崎大学で左翼学生のバリケードを解除し「学園正常化」を勝ち取った「生長の家」学生信徒グループだ。--- 生長の家の信者として「日本を守る会」の事務を取り仕切る村上正邦にとっては、同じ宗教の信者同士。なによりも、日本青年協議会を率いる人々は、長崎大学正常化運動を勝ち抜いた闘士であり、民族派学生運動のヒーロー。長年学生運動の現場で左翼学生運動と対峙し、左翼の運動手法も組織の動かし方も熟知している。これほどの適任者はいないだろう。

 かくて、1977年、日本青年協議会は、「日本を守る会」の事務局に入る。

 実質的に事務を取り仕切ったのは、日本青年協議会書記長・椛島有三。---

 椛島の率いる日本会議が、どのように政治に圧力を加えているのか。その格好の事例が、2015年春、観察された。

 2015年は戦後70年であり、安倍政権は「戦後70年安倍談話」を出すに際し、2月には有識者会議を設置した。この有識者会議の座長代理である北岡伸一(国際大学学長)は3月9日の段階で、「日本は侵略戦争をした。私は安倍首相に『日本が侵略した』と言ってほしい」と言明していた。にもかかわらず、北岡は、4月10日に突然、「『植民地支配と侵略』や『おわび』の踏襲にこだわる必要はない」と、全く逆の考えを示すに至った。

 この間、わずか1か月。---

 いったい、北岡伸一になにがあったのか? ---

 1994年6月に発足した村山内閣は、発足直後に、「日米安保反対」「日の丸君が代反対」「自衛隊は違憲」という従来の社会党の党是を連立維持のために放棄し、「日米安保も日の丸君が代も自衛隊も全部容認」と180度の路線変更を表明する。当然のことながら、社会党を支え続けてきた労働組合などは、この路線変更に反発した。--- 

 支持基盤から愛想をつかされつつある社会党として、是が非でも実現しなければいけなかったのが、連立結成時に自民党と合意した「あの戦争は侵略戦争であった」と認める「戦後50年決議」の採択だ。しかし今度は自民党の内部から反発が出る。自民党内には「あの戦争は侵略戦争ではない」という意見が根強い。

 この反対意見を後押ししたのが、ほかならぬ、椛島有三率いる「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」だった。---

 かくて、社会党を支える護憲派市民団体 対  自民党を支える保守市民団体の様相を呈しつつ、「50年決議」が採択される予定の国会が開かれた。

 当時の参院自民党の幹事長は村上正邦。---

 当然のことながら、村上正邦は、「戦後50年不戦決議」反対派の急先鋒となる。---

 1995年6月6日。---

 自民党政調会長・加藤紘一や自治大臣・野中広務が中心となり、自民党執行部が進める文案作成作業は、社会党の「侵略戦争である」という見解を受けいれる形で進められていた。当然、これまで大規模な反対運動を展開してきた日本青年協議会のメンバーたちは受け入れることができない。---

 だが、この取引は加藤紘一と野中広務のコンビのほうが一枚上手であった。---

 ●村上正邦に伝えられた口頭発表文案の内容

 「また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行った行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」

 ●正式文案として書面発表された内容

 「また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」 

 自民党執行部は、村上正邦に伝えた口頭発表案に、「こうした」の4文字を加えることにより、「植民地支配」「侵略行為」の行為主体にも「我が国」が含まれると明記することに成功する。---

 この「詐術」を知った椛島有三や中川八洋は当然のごとく激怒した。---メンツを失った村上は、椛島有三たちに、「衆院で可決させるが参院では絶対否決させる」と約束し、どうにかこうにか彼らの怒りを鎮めた。

 このような経緯で、村上内閣時の「戦後50年決議」は、衆院可決/不採択という国会決議としては異例の結末を迎えたのだ。---

 注目すべきは、国会決議の文案作成の現場である参院自民党幹事長室を日本青年協議会のメンバーが占拠し、「参院の法王」とも呼ばれつつあった当時の参院最高権力者・村上正邦をも恫喝して、圧力を加えていたという点だろう。---

 本書が進むにつれ明らかにするように、現在の安倍政権の周囲には、「首相補佐官」「秘書」「有識者会議のメンバー」の形で、日本青年協議会のメンバーが多数存在している。そしてその顔ぶれは20年前に村上正邦を恫喝し、自民党に圧力をかけたメンバーとほぼ同じ「一群れの人々」だ。

 そんな状況下で、「安倍首相には戦略戦争であったと言ってほしい」と述べた北岡伸一。

 彼の周囲にひしめく「20年前と同じ顔ぶれ」とそうした面々の謝罪談話阻止にかける異常なまでの執念を考え合わせると、彼が相当の圧力 ─── 「参院の法王」にさえ「ネクタイを摑んで」「怒鳴り散らす」ほどの圧力 ─── を受けたであろうことは想像に難くない。---

 そして、ようやく迎えた戦後70年。

 発表された「安倍談話」は、前述の通り「謝罪も反省も侵略も植民地も、誰が主体なのか全く明確でない」のが特徴だ。

 もう、言うまでもないであろう。この「誰が主体であるか全く明確でない」 言い回しこそ、20年前、彼らが求めていた文案の方向性そのものではないか。---

--- 時計の針を戻したものは、「一群れの人々」である可能性が極めて高い。

 

          ------------------------------------------------

 日本会議は、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の2団体が合併して設立された団体であり、両団体の設立にあたって椛島有三率いる「日本青年協議会」が事務局として参画し、学生運動出身という来歴を生かしつつ、戦後の保守運動に新風を吹き込んだことは、元号法制定運動を振り返るかたちですでに述べた。

 一方、元号法制定運動の華々しい成功とほぼ同時期に手痛い失敗を経験した保守運動がある。

 それが、「靖国神社国家護持法制定運動」だ 。

--- いかに憲法や政令で神社と国家の結びつきが否定されたとはいえ、靖国神社自身が靖国神社の自身の行為として神道にのっとり、戦没者を慰霊することには変わりがない。また、敗戦直後の国民、とりわけ戦没者の遺族にとっては、靖国神社こそが公的な異例の場であるという認識に変わりがなかった。そこで、靖国神社や遺族たちは、いまいちど国家と靖国神社の結びつきを構築しようと、国に対し「靖国神社国家護持法」の制定を求める運動を開始する。--- 一説によると1970年までの20年間に集められた署名の累計は、1200万人に上るという。

 これほど大量の署名を集める運動を展開しながらも、靖国神社国家護持法案は国会提出にさえこぎつけない状態が続いた。原因は、意外にも宗教界からの反発だ。---

 神社本庁・靖国神社そして遺族会からの要請と、宗教界からの反対意見の板挟みになるなか、自民党は、靖国神社創立100周年にあたる1969年、ついに「靖国神社国家護持法案」を国会に提出する。---

 ところがなんと今度は、当の靖国神社と神社本庁が自民党案に反対を表明したのである。儀式から宗教色がなくなり法人格も宗教法人でなくなるのであればなんの意味もないというのが、彼らを法案反対に回らせた理由だ。

--- これまで各種宗教団体が主な担い手だった反対運動に、「狙いは政教一致の再現だ」と気づいた左翼勢力も加わり、激しさが増してゆく。---

 かくて、自民党が国会に提出した「靖国神社国家護持法案」は賛成陣営反対陣営の両方に亀裂を生み、廃案につぐ廃案を重ねることになる。ついには、1973年を最後に法案提出さえされなくなってしまった。

 この失敗に懲りた神社本庁・靖国神社および日本遺族会は、法案提出を諦め、1976年に「英霊にこたえる会」を結成し、運動方針を「首相や閣僚による公式参拝実施」に切り替えていく。---

 「靖国神社問題」の端緒は、「政治と宗教」であり「歴史認識」や「諸外国からの反発」ではない。そしてその「政治と宗教」の問題の最前線における大失敗と禍根が、日本会議の源流の一つだ。その点を踏まえると、日本会議にとっては、A級戦犯合祀の是非という「歴史認識」より、いかにして宗教性を保ったまま靖国神社で慰霊行事を行うかという「政治と宗教」の問題こそ重要なポイントだと言えまいか。

 日本会議にとって、靖国神社は「政治と宗教」問題の最前線である。

 と、考えれば、衛藤晟一や有村治子などの日本会議系議員たちが見せる靖国神社参拝への〝情熱”も理解できよう。 

 


 

 どうでしょう。

 これらを読んでも、安倍政権に日本の将来を任せたいと考える人はいるでしょうか。

 聞いてみたいです。 

 

 

 


日本会議の研究  菅野完著  扶桑社新書 ②

第1章  日本会議とは何か

 2015年2月4日。船田元(自民党憲法改正推進本部長・当時)は、安倍首相との会談の後、記者団に「憲法改正案原案の提示は2016年夏の参院選前ではなく、選挙後になる」という見通しを語った。

---「改憲の是非」ではなく「いつ改憲を行うか」が議論の軸となっているのは、なにも自民党内に限った話ではない。

 2014年10月、「平成28年7月に実施される予定の参議院選挙で、『憲法改正国民投票』 の実現と、過半数の賛成による憲法改正の成立をめざし、1000万人の賛同者を集めること」を運動目標とする「美しい日本の憲法をつくる国民の会」なる団体が旗揚げされた。

 同年10月1日に開催されたこの団体の設立総会に出席した衛藤晟一(首相補佐官)は、来賓挨拶で、「1993年に初めて自民党が政権を失ったとき(註:細川内閣成立をさす)、自民党内では党の綱領から自主憲法制定を外すべきではないかとの議論がなされたが、当時初当選だった安倍首相や我々やが『憲法改正を下ろすなら自民党なんていうのはやめるべきだ』と反対した。いまそのメンバーが中心となって第二次安倍内閣を作った。安倍内閣は憲法改正の最終目標のために、みんなの力を得て成立させた」と、述べている。(美しい日本の憲法をつくる国民の会2014)

 この「みんな」とは誰なのだろう?

 「美しい日本の憲法をつくる国民の会」のWebサイトを見てみよう。

 トップページをスクロールすると、まっさきに出てくるのが、3名の共同代表の顔写真だ。櫻井よしこ(ジャーナリスト)、田久保忠衛(杏林大学名誉教授)、三好達(元最高裁判所長官)という、おなじみの顔ぶれ。--- 役員名簿を見ると、事務局長を務めるのが、日本会議の事務総長である椛島有三であるのをはじめ、役員のほとんどが、日本会議の役員と重複する。この役員名簿の重複をみればわかるように、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は、「新しい時代にふさわしい新憲法」の制定を運動目標とする日本会議が、一般市民1000万人の賛同者を集めるために作った、別働団体なのだ。事実、10月1日の設立総会には多数の日本会議会員が参加していた。つまり、衛藤は、いならぶ日本会議の会員たちに「安倍内閣は我々みんなの力で作った」とエールを送ったのだ。

 衛藤晟一が、「みんなで作った安倍内閣」と日本会議の功績を讃えるのも無理はない。「日本会議国会議員懇談会」に所属する国会議員が第三次安倍内閣の全閣僚19名に占める割合は、8割を超えていた。

--- 公明党出身の閣僚以外はほぼ全員が、日本会議国会議員懇談会に所属しているのが、第三次安倍内閣の特徴だ。もはや、安倍内閣は、「日本会議のお仲間内閣」といっても過言ではないだろう。 

 このように日本会議は、今や、内閣のほぼ全ての閣僚に所属議員を輩出するまでに勢力を拡大した。

 ここまで勢力を拡大した日本会議とはいったいどういう団体なのか? 彼らはいったい何を目指すのか?

 まずは、彼らの主張を見ていこう。

--- 日本会議の目指すものは、

 1・美しい伝統の国柄を明日の日本へ

 2・新しい時代にふさわしい新憲法を

 3・国の名誉と国民の命を守る政治を

 4・日本の感性をはぐくむ教育の創造を

 5・共生共栄の心でむすぶ世界との友好を

 の6つであるという。これらの6項目にはそれぞれ美辞麗句がちりばめられた説明文がついている。その内容には立ち入らないものの、説明文を読めば、

「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」

 と、要約することができよう。---

 地方議会での意見書採択などの活動方法は、従来、リベラル陣営や左翼陣営が展開してきた運動方法であり、運動方法として特段の新奇性があるとはいえない。むしろ、日本会議が従来の左派が行ってきた運動方法を模倣しているように見える。---

 なぜ、日本会議はこのような動員力を保持するに至ったのか? 彼らの「実働部隊」ないったいどういう人たちなのか?

 こうした日本会議の活動や動員が指摘される際、必ずといっていいいほど言及されるのが、宗教団体の関係だ。---

 日本会議側も宗教団体との関係を特段否定するわけでもない。

 公式サイトに公開されている日本会議の役員名簿をもとに役員表を作成した。

 これをみると、顧問から事務局長まで、役員総数62名のうち24名が宗教関係者によって占められていることがわかる。役員の3分の1以上が宗教関係者という計算だ。日本会議は極めて宗教色の強い団体であるといえるだろう。---

 ここで改めて、どのような宗教団体が日本会議に参加しているかを、団体名ベースで見てみよう。---

---とりわけ目につくのは、佛所護念会教団や霊友会など、明治維新以降に生まれた、いわゆる「新宗教」と呼ばれる宗教団体の比率の高さだ。また、神社神道系、教派神道系、新教神道系、仏教系、諸教系と、実にさまざまな宗派にまたがるという点も特徴的といえるだろう。---

---伝統と格式を誇る古くからの宗教(延暦寺をはじめとする天台宗など)と、明治以降成立したいわゆる「新宗教」が肩を並べるなど、明らかに統一性が見られない。また、霊友会と、霊友会から分派した佛所護念会教団など、信仰の現場では信者層の奪い合いになるような団体も同居している。---

 この問いの答えを探るため、次章では、彼らが日本会議のもとに糾合するに至った経緯を、1960年代にまでさかのぼって検証する。---

 


 

 「日本会議」という存在の実態が明らかになるにつれ、その存在の怖ろしさがじわじわと迫ってきます。 


日本会議の研究  菅野完著  扶桑社新書 ①

 読み始めて直ぐから、気持ちが落ち着かなくなりました。

 捉えどころのない怖ろしさ、見えないものにじわじわと押し寄せられる恐怖といったような感覚です。

 知らなかったことの怖ろしさを、嫌というほど思い知らされて、途中から読むのが苦しくなりました。

 それでも、この実態を知らないまま、この後を暮らすことは出来ないとも思いました。

 読み通すのがこれほど苦しい本は、あんまりないと思います。

 参院選投票前に、この本をたくさんの人が読んでいたら選挙結果が変わっただろうと思うと、悔しい気持ちになります。

 


 

はじめに 

--- 本書執筆時点で直近の衆議院選挙である第47回衆議院総選挙(2014年12月14日施行)では、確かに、自民・公明の連立与党が、議席配分としては圧倒的な勝利を収めた。しかし、得票率を見ると自公連立政権=49.54% 野党・無所属合計=50.46%と、わずかとはいえ、野党の得票率が上回っている。---

 これらの数字や分析を踏まえると、やはり、「日本の社会全体が、右傾化している」とは言い難い。

 社会全体として右傾化したとは言い難いにもかかわらず、政権担当者周辺と路上の跳ねっ返りどもだけが、急速に右傾化している・・・・・。これはなんとも不思議だ。

 少々、私事を挟む。

 私が「変な奴らが世の中で暴れ出しているぞ?」と思い始めたのは、2008年頃のこと。---

---「ネトウヨ」(ネットウヨク)という言葉通り、確かに彼らは、ネットを情報ソースにしている場合が多い。「2ちゃんねる」をはじめとするネットの言説に感化され、ネットでの呼びかけに応じて、デモや集会に参加する。だが、その大元のネットの書き込みをつぶさに見ていくと、個々人の勝手な妄想や思いつきから書かれた物もあるものの、大半は、「出典」が添えられている。そして、そうした「出典」はほとんどの場合、『正論』『WiLL』 『歴史通』といった、「保守論壇誌」だ。 

 この点に気づいた私は、保守論壇誌を手当たり次第に読み込むようになった。---

 そのうち、奇妙なことに気づく。こうした保守論壇誌に登場する面々には、「脈絡」がないのだ。--- 

 さらに、もう一つ奇妙なことがある。

 私が保守論壇誌の読み込みを始めた2008年頃といえば、第一次安倍政権の崩壊直後に重なる。体調問題からとはいえ、代表演説直後の辞任という前代未聞の大失態を演じた安倍晋三の政治生命は、完全に絶たれたように思われた。事実、当時の世論調査でも7割に上る有権者が「安倍の突然の辞任は無責任だ」と答えている。

 にもかかわらず、保守論壇誌には安倍晋三が登場し続ける。有権者から無責任と烙印を押され、安倍晋三自身も鳴りを潜めて表立った動きを示していなかった時期にも、なぜか、保守論壇の「識者」たちは、安倍晋三の名前に言及し続けた。さらには、極めて早い時期から、安倍晋三の再登板を熱望するかのような記事が並ぶようになる。

 これは奇妙なことではないか?

 路上で繰り広げられる醜悪なヘイトデモ参加者たちの一次的な情報源も保守論壇誌ならば、退陣し政治生命が終焉した安倍晋三を熱烈に応援し続けるのも保守論壇誌だ。その傾向は、安倍晋三が再び総理として返り咲いた後、さらに顕著になっていく。--- 安倍退陣から再登板まで、5年もある。あの5年間、彼らは全く同じことをやり続けている。その間、民主党政権の誕生と瓦解、東日本大震災など、さまざまな出来事があった。にもかかわらず、彼らは変わらない。同じことを繰り返している。何かある。この持続性と反復性を生む、何らかの原因があるはずだ。

 サラリーマンだった当時の私は、とある部局の責任者として勤務していた。予算や人事的な責任だけでなく、その部署における顧客対応と品質管理の最終責任も私の掌握範囲であった。製造ラインなりサービス部局なりのアウトプットが、ある「偏り」や「ばらつき」を示すとき、その「偏り」や「ばらつき」には必ず、原因が存在する。品質管理の手法とは、顧客アンケートや従業員アンケートなどといった定性的な情報に偏ることなく、徹底してデータを集め、そのデータを冷静に分析し、「偏り」や「ばらつき」を生むルートコーズ=根本原因を突き止めていく過程に他ならない。その根本原因は、しばしば、想定外のものであったりする。

 こうした品質管理の手法を「保守論壇誌」そして「保守論壇誌の登場人物」の解析に用いれば、彼らの「偏り」を生む根本原因を究明できるはずだ。

 そう狙いを定めて以降、手当たり次第に「サンプル」を集め出した。---

 そうして一つの答えに行き着いた。それが、「日本会議」の存在だ。

 日本会議とは、民間の保守団体であり、同団体のサイトによれば「全国に草の根ネットワークを持つ国民運動体」だ。

 私が集めたサンプルは、保守論壇人の一部が、これまで「右翼」あるいは「保守」と呼ばれてきた人々と、住む世界も違えば主張内容さえ大幅に違うということを示していた。サンプルから読み取れる彼らの主張内容は、「右翼であり保守だ」と自認する私の目から見ても奇異そのものであり、「保守」や「右翼」の基本的要素に欠けるものと思わざるをえないものばかりであった。

 そうした傾向は70年代から徐々に高まり、90年代中頃を境にピークに達し、その後現在に至るまで、そのピークを維持し続けていることを示した。

 そしてそうした保守論壇人の共通項が、民間保守団体「日本会議」なのだ。

 「日本会議周辺の保守論壇人は異質だ」

 「日本会議周辺は、これまでの保守や右翼とは、明らかに違う」

 集めたサンプルを虚心坦懐に読み解くと、そう結論づける他なかった。

 


 

 安倍晋三の政治姿勢を支えているものの正体が、明らかになっていきます。 


高麗川。

 

 訳あって、埼玉県日高市に行ってきました。

 埼玉県に足を踏み入れたのは、多分、生涯で初めてです。

 で、JRの高麗川という駅を利用したのですが、何とも風情のある駅舎でした。

  高麗川駅。.jpg

 そして、駅前にあるモニュメントに、不思議なものをみつけました。

  駅前モニュメント。.jpg

 「祝 高麗郡建郡1300年」と読めます。

 そういえば、途中に「高麗神社」という案内板がありました。

 調べました。

 「高麗神社」のホームページに、このような文章がありました。

  高麗神社由来。.jpg

 ふーーーーーん、知りませんでした。

 私の知らないことは、まだまだたくさんありそうです。

 話は、歴史のことではなく、電車のことに移ります。

 私が行きたい駅に向かう電車は、 1時間に1本しかありませんでした。

 しかも、乗ろうとしたら、これです。 

  手動ドア。.jpg

 手動ドアでした。

 乗る時は、停車中の電車のドアは開いたまま、長い時間発車待ちの状態でしたので問題無しだったのですが、降りる時どうしたら良いのだろうとドキドキしました。幸い、私が下りた駅は数名が降りてくれた駅でしたので、うしろからコソコソとついて降りました。

  いやぁ、近隣でも、ちょっとした旅行気分を味わうことが出来ますよ。 

 

 

 

 


庭の花たち。

 花が咲かなくて、寂しい庭になっているのですが、よーーく見ると、ひっそりと咲いている花たちがいました。

 まず、「モジズリ」です。

 モジズリ。.jpg

 ぴょこぴょこと、可愛らしい姿を見せてくれています。

 次に、「ドクダミ」。

 かなりの量を抜きましたが、まだ、あちこちに咲いています。

  ドクダミ。.jpg

 最後に、「南天」の花です。びっしり咲いています。

  南天の花。.jpg


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