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散歩。


 いろいろありまして、すっかり間が空いてしまいましたが、ブログの再開です。


 今日は言うことなしの上天気でしたので、買い物の帰りに足を伸ばして海岸まで行ってきました。


 残念ながら、富士山には雲が掛かっていて裾の方しか見えませんでしたが、撮ってきました。

 富士山の手前に見えているのは、江の島です。

 雲が掛かった富士山。.jpg


 河口の水が、今日は澄み切っていました。

 河口の水。.jpg



 話は、全く変わりますが、下の画像は「こんにゃく芋」です。

 皮を落として、煮て、すりつぶして、「こんにゃく」にするのだそうです。

 自分で育てた「こんにゃく芋」を「こんにゃく」にして、お店で出していると板前さんが見せて下さいました。

 こんにゃく芋。.jpg


 初めて見た「こんにゃく芋」でした。

 皮を少し残すと、「こんにゃく」の色が黒くなるそうです。



 

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箱根 長安寺。


 箱根の仙石原にある「長安寺」へ行ってきました。


 まず、行きの東名高速道路、松田のあたりで事故渋滞に巻き込まれました。

 でも、見て下さい。

 真正面に、美しい富士山の姿が。

 富士山。.jpg

 これなら、渋滞も苦になりません。


 その後、渋滞も解消して「長安寺」へ。

 駐車場を出て参道に入ると、直ぐに弁天池が見えます。

 弁天池。.jpg

 その、弁天池の中に面白いものが見えます。

 鯰の背に乗った「羅漢」さまです。

 ナマズ。.jpg

 この羅漢さまだけでなく、いろいろな表情の羅漢さまが、水の中のあちこちにおられます。

 そして、前に進んで山門です。

 山門。.jpg

 山門を入ると、正面が本堂です。

 本堂。.jpg

 本堂はこじんまりとした建物ですが、背面の山を含めた広い境内のあちこちに、「五百羅漢」像が配置されています。

 まだ、「五百」体には達していないようですが、数え切れないほどの羅漢さまたちがおられました。

 そして、羅漢さまたちの表情が豊かです。

 同じ表情の羅漢さまはおられませんでした。

 たくさん撮ってきたのですが、全部は載せられません。

 一部だけですが、どうぞ、見て下さい。

 五百羅漢 1.jpg

 五百羅漢 2.jpg

 五百羅漢 3.jpg

 五百羅漢 4.jpg

 五百羅漢 5.jpg

 五百羅漢 6.jpg

 五百羅漢 7.jpg

 まだまだたくさんの表情の羅漢さまたちがおられました。

 まるで、野外彫刻展を見ているようなたのしさでした。


 最後に、生きた「猫」です。

 どうやら、お寺で飼われている猫のようでした。

 猫。.jpg

 紅葉はまだ早かったようでした。

 紅葉。.jpg

 

 

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IZU PHOTO MUSEUM。

 

 静岡県長泉町にある、「IZU PHOTO MUSEUM」へ行ってきました。

 駐車場を出て美術館に向かおうとしたら、見慣れた作品が目に飛び込んできました。

 これです。

 淺井裕介 作品。.jpg

 そう、淺井裕介さんの作品です。

 「こんなに遠いところまで・・・・・。」と思ったのですが、そうではなくて今は、日本中に作品が存在しているんですよね。


 そして、「IZU  PHOTO  MUSEUM」の入り口です。

 写真美術館の入り口。.jpg

 正面入り口の壁に「IZU  PHOTO  MUSEUM」の文字が入っているのですが、少し見にくい。

 IZU  PHOTO  MUSEUM.jpg


 

 ここに来た目的は、「澤田教一 故郷と戦場」写真展を見るためです。


 澤田教一は、<安全への逃避>を含むベトナム戦争の写真で、1966年にピュリツアー賞を受賞したカメラマンです。

 カンボジアを取材した一連の写真により、1971年にロバート・キャパ賞も受賞しているのですが、澤田教一本人は、1970年、カンボジア取材中にプノンペン近郊で銃殺されて34歳で亡くなっています。


 今回は、それら受賞作品を含めた約300点の写真等が展示されていました。


 有名な写真ですから、これまでも見たことはありました。

 しかし、これほどの量の写真を見たのは初めてですし、丁寧に説明文を読みながら見たのも初めてです。


 改めて言うまでもないことですが、ずっしりと重い内容の写真たちでした。

 当たり前と言えば当たり前の話なのですが、アメリカ軍の兵士の顔もベトコンの兵士の顔も、倦んで、疲れて、早く終わらせたいという想いが強く伝わってくる表情でした。

 フエの古城を破壊するアメリカ軍の攻撃の様子は、シリアで展開されたIS軍の暴挙と変わらないのではないかと思いました。

 戦争は、いつの場合も、為政者が始めて、前線で戦うのは一兵卒です。

 そして、戦争に巻き込まれて逃げ惑うのは、何の罪もない一般市民です。


 この写真展を見れば、誰もが「戦争は嫌だ」と思うでしょう。


 こういう写真を、日本中の子どもたちに見せたいです。小さい子どもたちに見せたい。

 理屈ではなく、肌で、戦争のばかばかしさを知ってもらいたい。


 今の小学校の現場で、こういう写真を見せることは、きっと相当難しいことと思います。

 それでも、小学校の先生たちの中に、行動を起こしてくれる人が現れることを願います。



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草むしり。

 二つ目の台風が通り過ぎて行きました。

 幸い、被害はありませんでした。

 雨が降ったあとは、草むしりがし易くなります。

 という訳で、前から気になっていた、庭の草むしりの重い腰を上げました。

 草むしりをしていて、感動するものを発見しました。

 これです。

 名前を知らない花 1.jpg

 名前も分からない花ですが、ひっそりと咲いていました。

 そして、こちら。

 花? 新芽?.jpg

 花かと思いましたが、もしかすると、新芽?


 最後に、こちらは「ツワブキ」です。

 ツワブキ。.jpg


 手入れらしき手入れもしていないのに、ちゃんと咲く花。

 自然の生命力には、感動します。



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台風一過。


 天気は、台風一過の雲一つない秋晴れ。


 台風一過。.jpg


 しかし、私の気持ちは、全く晴れません。


 安倍晋三の続投?

 信じられない、考えられない開票結果です。

 

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期日前投票。


 期日前投票に行ってきました。


 天気予報で、明日は大雨になると言っているので今日のうちに行ってこようと思い立ちました。


 行ってみて、びっくり!


 投票所は、長蛇の列が出来ていました。

 こんな光景を見たのは初めてです。


 投票に対する熱がいまいち盛り上がらないという記事もあり、地盤が固い自民党に票が集まってしまって、安倍晋三がまた、大きな勘違いをするのではないかと心配しているのですが、この長蛇の列は無党派層の関心の高さをあらわしているのかもと嬉しくなったりしました。

 が、家に帰って調べてみたら、期日前投票が出来るのは、私が行った場所だけだったことが分かりました。


 うーーーん、どういう傾向なのか。開票の結果を見るまでは何とも言えません。


 安倍晋三が首相を続けることだけは、何としてでも阻止したい。

 日本の将来のためです。祈ることにします。





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昆虫?


 また、不思議な「顔」シリーズです。

 昆虫に見えませんか?

 何かを探す眼と、揃えた両足。


 昆虫?.jpg


 花です。

 しかし、どう見ても「昆虫」に見えます。

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ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力     箒木蓬生著 朝日新聞出版  ⑤


第8章  シェイクスピアと紫式部


第9章  教育とネガティブ・ケイパビリティ


 教育は一見すると、分かっている事柄を、一方的に伝授すればすむことのように思えます。--- そうした幼稚園から大学に至るまでの教育に共通しているのは、問題の設定とそれに対する解答に尽きます。

 その教育が目ざしているのは、本書の冒頭で述べたポジティブ・ケイパビリティの養成です。平たい言い方をすれば、問題解決のための教育です。しかも、問題解決に時間を費やしては、賞讃されません。なるべくなら電光石火の解決が推賞されます。この「早く早く」は学校だけでなく、家庭にも浸透しています。わが子に対して、「早く早く」を母親がひと言も口にしない日はないのではないでしょうか。

 「早く早く」を耳にするたび私は、90歳の高齢者に、息子と娘が「早く早く」と急かす光景が重なります。足元もおぼつかない高齢者に、「早く早く」と言うのは、「早く死ね」というのと同じだからです。ここに迅速さの落とし穴があります。---


 

 江戸時代、武士の子弟が小さい頃から、返り点をつけただけの漢籍を内容がよく分からないまま素読させられたのは、現在の教育とは正反対の極にあります。

 子供は何のために素読をするのか、まず分かりません。ただ声を出すだけで、意味も分からないままです。しかし何十回と繰り返していくうちに、漢文独特の抑揚が身についてきます。漢字の並びからぼんやり意味が摑めるようになります。

 この教育には、教える側も教えられる側にも、分からないことへのいらだちがありません。分からなくてもいいのです。子供は、言われるがままに何回も音読を繰り返します。つっかえつっかえ読んでいたものが、いつの間にかすらすらと読めるようになります。

 一方の教える側も、手取り足取りは教えません。ゆっくり構えています。その漢籍が自分にまだ理解できないような、深い内容を含んでいるのかもしれません。教える内容を、教える者自身が充分に分かっていない可能性もあります。それでも教える素材に敬愛の念をいだいているのは確かです。子供に音読させながら、自分もその文章の背後にある真実を見極めようとしているのかもしれません。

 ここには、そもそも土俵としての問題設定がありません。ひたすら音読して学ぶだけです。さらに言えば、学びの先にあるものも、判然としません。簡単に言えば、素養でしょうか。たしなみです。現代風な表現では教養です。

 素養や教養、あるいはたしなみは、問題に対して早急に解答を出すことではありません。むしろ反対かもしれません。解決できない問題があっても、じっくり耐えて、熟慮するのが教養でしょう。

 そうなると、今日の学校での教育が教育の本質から逸脱しているのが分かります。---


 本来、教育というのはそれが本当のあり方ではないでしょうか。

 ところが、今日の教育は画一的です。横並びで1年1年を足並揃えて、上級学年に上がっていく体制になっています。

 その結果、採用されたのが到達目標とその達成度です。その到達目標も、個々人に合った目標ではありません。あくまで1年毎の建前としての到達目標です。私は学校教育が到達目標を設定したときから、学校が変質したような気がします。---

 こうした教育の現場に働いているのは、教える側の思惑です。もっと端的に言えば「欲望」です。教える側が、一定の物差しを用いて教え、生徒を導くのです。物差しが基準ですから、そこから逸脱したさまざまな事柄は、切り捨てられます。何よりも、教える側が、問題を狭く設定してしまっています。そのほうが「解答」を手早く教えられるからです。

 しかしここには、何かが決定的に抜け落ちています。世の中には、そう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が、伝達されていないのです。前述したように、むしろ人が生きていくうえでは、解決できる問題よりも解決できない問題のほうが、何倍も多いのです。

 そこでは教える側も、教えられる側も視野狭窄に陥っています。無限の可能性を秘めているはずの教育が、ちっぽけなものになっていきます。もう素養とか、たしなみでもなくなってしまいます。---


 「 --- ことによると、学校現場は、すぐに解決できない問題だらけかもしれません。したがって、教育者には問題解決能力があること以上に、性急に問題を解決してしまわない能力、すなわち「ネガティブ・ケイパビリティ」があるかどうかが重要になってきます。

 そして、私たちだけでなく子供たちにも、問題解決能力(ポジティブ・ケイパビリティ)だけでなく、この「どうしても解決しないときにも、持ちこたえていくことができる能力(ネガティブ・ケイパビリティ)」を培ってやる、こんな視点も重要かもしれません。--- 」




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 この後の第10章は、「寛容とネガティブ・ケイパビリティ」というタイトルで「寛容」というテーマに添って、エラスムス、ルター、ラブレー、モンテーニュの考え方を紹介し、その続きに、メルケル首相、トランプ大統領、第二次世界大戦時の日本の為政者たちの「精神性」を考察しています。

 最後に、「おわりに───再び共感について」と題した章があります。涙なしには読めない少年の手紙を紹介していますが、この手紙の内容は、この本を読む人のおたのしみとしておきます。 


 第9章の最後、「 --- ことによると、・・・・・・・・・・・・・・・・  」の部分は、スクールカウンセラーをしている臨床心理士からの手紙の引用です。

 教育現場の息苦しさは、ここに書かれている通り、「到達度」「達成度」を目標としたときから始まったのだと、私も思います。

 この息苦しさから子どもたちを解放してあげないことには、日本の将来は明るいものにはならないと思います。


※ 蛇足ですが、第8章の「シェイクスピアと紫式部」を読んで、初めて、「帚木蓬生」というペンネームの由来に気づきました。著者は、紫式部のファンなのですね。

 自慢話になりますが、私は「源氏物語」を終わりまで読みました。(恐らく、専門家でもない人間で、最後まで読み通した人間は、そんなには多くないのではないかと思います。)

 ですから、「源氏物語」が、ドンファンの単なる女性遍歴物語ではないことを、若い頃から知っていました。

 年老いた光源氏は、年若い妻「女三の宮」の密通を知ります。自身が、父の若い妃藤壺と密通したときの父の想いを知ることになります。そのとき、光源氏が何を想ったか。

 この第8章を読んで、「源氏物語」の奥深さを改めて考えました。読み継がれる訳が分かります。






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ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力        箒木蓬生著 朝日新聞出版  ④


第7章  創造行為とネガティブ・ケイパビリティ


--- 創造行為の内実を精神医学から探る方法には、大別して二つあります。そのひとつがこれまで述べてきたような、創造性と精神障害の関連を調べるやり方です。もうひとつは、心理学的、精神病理的に、創造性そのものを解析する手法です。---


 衝撃的な論文は、米国のノーベル賞作家の7割がアルコール依存症だったという報告です。槍玉にあげられたのは、シンクレア・ルイス、ユージン・オニイル、パール・バック、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・スタインベック、ソール・ベロウなどです。この報告書は、作家たちが創造行為の賦活物としてアルコールの力を借りたのではないかと解釈していました。

 その他、統合失調症の性向と創造性を論じた研究もあります。概して統合失調症の傾向を持つ人は、新しいものの見方や、原始的な思考様式を持っていて、これが創造性に結びつくというのです。

 創造行為の苗床として、ストレスの重要性を強調する論文もあります。子供時代の不幸、例えば孤独、不安、生存への脅え、葛藤体験が、創造行為に対する持続的な動機づけを生むのです。

 美術分野での創造行為を解析した研究もあります。画家はまず、未知の表象に何がしかの構造を見ます。次にそれを緊密化しながら、白昼夢のように知覚し、最後に形象として表現するのです。この過程は、①問題の措定、②抱卵期間、③洞察、④伝達、の4段階を踏むのだと、この研究者は考えています。

 

 創造行為をする芸術家の認知様式に注目した論文もあります。その特徴的な能力とは、対立する曖昧な情報を統合する力、言い換えると、二つ以上の正反対の思想や概念、表象を同時に知覚して使う能力です。

 別の研究では、創造性の源になる認知の形式を六つの次元に分けて考察しています。それは、①知性、②知識、③能力をどこに集中させるかという知識様式、④性格、⑤動機づけ、⑥環境、の六つです。

 このうち④の性格特徴として指摘されているのが、いみじくも「曖昧な状況に耐え」、「切れ切れのものが均衡をとり一体となるのを待ち受ける能力」です。

 どうでしょうか。200年前にキーツが発見したネガティブ・ケイパビリティを彷彿させませんか。---

 詩的言語が生まれる具体的な状況として、キーツは次のように言います。「私が部屋の中で他の人々と一緒にいるとき、自分の脳が創り出すものにはとらわれず、私自身を私に帰さずにいます。すると同席しているひとりひとりのアイデンティティが私に迫って来て、ほんの一瞬、自分が無になるのです」。自分が無になったところから、詩的言語が発せられると、キーツは白状しています。

 本章の冒頭で、多くの芸術家たちがアルコールに溺れ、また精神の不調をきたしたのを見ました。これは、創造行為に伴うネガティブ・ケイパビリティの欠如だったとも解されるのです。---


 医師になる道を歩んでいたキーツは、途中で詩人になる道を選びました。キーツにとって、医学は詩作と対極の位置にあると思えたからでしょう。詩人が、自らのアイデンティティを消し去って、深く対象の中にはいり込むのに対し、医学は既に確固たるアイデンティティを獲得しており、明らかな目的と手段で患者に相対するからです。

 ところが医学でも、精神医学は特殊な位置にあります。簡単に言えば、さしたるアイデンティティも、確実な目的も治療法も手にしているとは思えません。詩人と精神科医は、違いよりも似た側面が多いのです。

 作家は物語の主人公を、自分の頭で創り出しはするものの、100%責任をもってその主人公を動かしていくかと言えば、そうではないのです。主人公が動いていくので、作家はそれを追うだけの存在になります。だからこそ、前に述べたように遠い先までは見通せないのです。

 精神科の治療も、これと類似しています。患者さんは千差万別であって、誰ひとりとして同一人物はいません。同じ診断名であっても、人となりと置かれた環境は違っています。--- 悪く言えば五里霧中、少しましな言い方をすれば、二人で月の光の下、岸の見えない湖をボートに乗って漕ぎ進めていくようなものです。オールを漕いでいるのは患者さんの場合もあるでしょうし、治療者が患者さんの指示でオールを漕いでいる場合もあるでしょう。

 作家と精神科医という二つの仕事が、私の中で矛盾せず、ひとつに溶け合っている理由は、以上の事情があるからです。---




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 精神科医の仕事、精神科の医療、、、、、 読めば読むほど難しいことが分かって、苦しくなります。


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ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力     箒木蓬生著 朝日新聞出版  ③


第3章  分かりたがる脳


--- 分かりやすくするための最大の便利帳が、マニュアルでしょう。

 マニュアルはたいていの接客業で作成されています。--- パソコンの詳しい説明と、心がこもっていない棒読みの応待は瓜二つと言っていいでしょう。マニュアルによって、脳が悩まなくてもすんだ結果が、本来のサービス精神を忘れたやりとりになってしまったのです。

 地震や火事のような緊急事態に備えても、マニュアルがあれば、もう脳は悩まなくてもすみます。すべてが分かったものとして、一大事のときも失態なく切り抜けられます。

 ところがマニュアルにない事態が起こったとき、マニュアルに慣れ切った脳は、思考停止に陥ります。まるでプログラムされていない事象が生じたときのコンピュータのように、作動停止してしまいます。

 ネガティブ・ケイパビリティを獲得するためには、記憶も理解も欲望も妨げになると、ビオンが言った背景には、精神分析学会におけるこうしたマニュアル第一主義に対する懸念があったのだと思ます。

 前章でも触れたように、精神分析学には蓄積された膨大な理論があります。こういう症状の裏には、こういった成育史が抽出できる。こういう事態は、これこれの治療段階で良く生じ、これこれの理由によるものだ、といった具合です。

 これらの定理を頭に入れておけば、目の前に生じた事態も、患者の症状も、迷わずに理解できます。理論をあてはめればいいだけの話です。本人は一向に悩む必要はありません。一種のマニュアル化です。

 これをビオンは嫌ったのです。これでは、生の患者と生の治療者との一期一会の出会い、交わされる言葉の新鮮さと重みが、台無しになってしまうと危惧したのです。---


 ブランショは、ソルボンヌで学んだあと医学部を出た神経精神科医で、パリのサンタンヌ病院で働いたこともありました。活動の幅は広く、小説家、文芸評論家、哲学者として著作を残し、95歳の高齢で死去しました。

 そのブランショの言葉は次のとおりです。

 ──── La reponce est le malheur de la question.

 ( 答えは質問の不幸である )

 つまりビオンに言わせると、ブランショの指摘のとおり、答えは好奇心にとって不幸であり、病気なのです。

 ──── The answer is the misfortune or disease of curiosity ─── it kills it.

 ( 答えは好奇心を殺す ) 

 ビオンはそうとまで言い切ります。---


--- ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐え抜く力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力を生み出すのです。



第4章  ネガティブ・ケイパビリティと医療


 このように、人間の営みに極めて重要なネガティブ・ケイパビリティが、教育の分野で、一顧だにされてこなかったのは、実に不思議です。

 わが国に存在する、あるいはかつて存在した教科書のどこを探しても、ネガティブ・ケイパビリティという言葉は出てこないでしょう。

 これはとりもなおさず、教育とは、問題を早急に解決する能力の開発だと信じられ、実行されてきた証拠でもあります。---




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 この後、


 第5章  身の上相談とネガティブ・ケイパビリティ

 第6章  希望する脳と伝統治療師


 と話は続き、第6章の最後に、マザー・テレサの言葉を紹介しています。

 ──── 誰に対しても、治療するだけというのは大変な間違いです。私たちは、心のすべてを差し出さなくてはなりません。



 ( 答えは質問の不幸である )・・・・・ ブランショのこの言葉は、深過ぎます。






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