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憲法の無意識   柄谷行人著  岩波新書 ⑤


Ⅳ 新自由主義と戦争


--- カントの平和論は、18世紀末に始まった世界戦争の中で書かれたものです。しかしこれは、ナポレオン戦争が終わったあと、19世紀の間、ほとんど話題にもならず、いわば、潜伏期にありました。それが急に浮上してきたのは、19世紀末の帝国主義時代のことです。そして、カントの構想がある程度実現されたものが、第一次大戦後の国際連盟です。しかし、すでに述べたように、国際連盟にはそれを提唱したアメリカが加入せず、ソ連も入っていない。したがって、つぎの世界戦争を阻止する力をもたなかった。

 第二次大戦後には、国際連合ができました。これは国際連盟に比べると、強力です。というのも、これは事実上、第二次大戦に勝利した連合軍が作ったようなものだからです。国際連合は多数の国際組織の集まりでもありますが、その中核は、国際連合安全保障理事会(United Nations Security council)であり、常任理事国は、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソ連、中国、すなわち、旧連合国でした。


 国際連合が強力に見えたのは、それが列強の連合体であったからです。--- それでもなお、国連はカント的な理念からは遠いものでした。それはむしろ、ルソーやカントが批判したサン・ピエールの唱えた君主らの国際連合に近いといえます。

 その意味で、カント的な平和論の潜伏はまだ続いていたといえます。それが再び浮上してきたのは、ソ連圏が崩壊し、第三世界が消えた時期、つまり、1990年以降です。私自身、カントの平和論に注目したのは、1991年、湾岸戦争が始まったときです。むろん、それは自衛隊の海外派遣の問題があり、憲法九条の問題がリアルになってきたからです。が、これはたんに日本独自の問題ではなかったと思います。

 ここでいえるのは、カントの平和論が重要となるのは、歴史的に一定の状況においてだということです。---

カントの平和論を必要とする状況は反復的であるということができます。ここで、18世紀末、19世紀末、そして、現在の時代に何が共通するのか、その共通性はどこから来るのか、という疑問がでてきます。

 その答えは、一言でいえば、三つの段階は、それぞれ「帝国主義的」段階であるということです。そういっても、意味がわからない人が多いと思います。帝国主義という言葉は、好き勝手に使われてきたので、意味が不確かだからです。---



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 で、この後、長い説明が続きます。

 

 それらを短くまとめることは不可能なのですが、敢えて強引にまとめると、下の図がその説明の中身です。


 世界資本主義.jpg


 これは、わかり易かった。



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 帝国主義的な段階とは、資本=国家が次のヘゲモニーをめぐって争う段階だといいました。そこで、最後の問題は、没落しつつあるアメリカに代わって、新たなヘゲモニー国家となるのはどこか、ということです。それが日本でもヨーロッパでもないことは、確実です。人口から見ても、中国ないしインドということになります。しかし、次の点に注意しなければならない。それは、中国やインドの経済発展そのものが、世界資本主義の終わりをもたらす可能性があるということです。

 資本は自己増殖ができないなら死ぬ。すなわち、産業資本は成長しないかぎり、終わってしまうのです。--- 

 そして、産業資本の成長は、つぎの三つの条件を前提としています。第一に、産業的体制の外に、「自然」が無尽蔵にあるという前提です。第二に、資本制経済の外に、「人間的自然(人間という自然)」が無尽蔵にあるという前提です。第三に、技術革新が無限に進むという前提です。しかし、この三つの条件は、1990年以後、急速に失われています。

 世界資本主義は1970年代に一般的利潤率の低下に襲われた。中国やインドの経済発展によって、そこから脱出できたように見えますが、実際にはそうではない。むしろ中国やインドの経済発展が、世界資本主義の限界を露呈しはじめたのです。

 それはたんに、資源の払底や自然環境の破壊をもたらすだけではありません。産業資本主義の条件そのものを消滅させつつあります。世界の農業人口の過半数が中国とインドに存在したのに、それらが急速に消えつつある。それは新たなプロレタリア=消費者を供給する源泉の枯渇を意味します。それは世界資本主義にとって致命的です。---


--- 今後、世界市場における資本の競争は、死にものぐるいになります。

 といっても、それは、ただちに他の資本=国家との戦争になるわけではありません。あるいは、ヘゲモニーを争う諸国の戦争が生じるわけではない。ここで、二つの対立を区別する必要があります。一つは、先進資本主義的な諸国家間の対立です。これは19世紀の帝国主義時代と同様に、互いに資源や市場を囲い込むことから生じるでしょう。それは「地域主義」という形の争いになります。

 もう一つは、そのような先進諸国に対する低開発国の闘争です。それは、昔よくいわれたように、「北」に対する「南」の闘争といってもいいでしょう。しかし、もはや「第三世界」は存在しません。ゆえにこの闘争は宗教的なかたちをとることになります。---


--- 世界戦争はとうてい起こらないだろうと、いま人々は考えている。が、突発した局地的な戦争が世界戦争に発展する蓋然性は高いのです。---

---現在の新自由主義的段階も、やはり戦争を通して終息する蓋然性が高いからです。

 しかし、それは最悪のシナリオです。現在の状況は、世界戦争を経なければ解決できないというわけではありません。真の解決はむしろ、世界戦争を阻止することによってこそもたらされるものだと思います。その場合、日本がなすべきでありかつなしうる唯一のことは、憲法九条を文字通り実行することです。私は第1章で、護憲勢力は憲法九条を護ってきたのではない、逆に憲法九条によって護られてきたのだと述べました。それは別に皮肉ではありません。実際に、日本人は憲法九条によって護られてきたのです。空想的リアリストは憲法九条があるために自国を護ることができないというのですが、われわれは憲法九条によってこそ戦争から護られるのです。



あとがき


--- 現在、世界中で資本主義経済の危機とともに戦争の危機が迫っていることは、まちがいありません。どの国もこの危機的状況において、それぞれに対策を講じています。そして、それが相互に感染し、恐怖、敵対心が増幅されるようになっています。その中で、日本で急激に推進されたのは、米国との軍事同盟(集団的自衛権)を確立するという政策です。それは戦争が切迫した現状の下では、リアリスティックな対応であるように見えます。

 しかし、各国の「リアリスティック」な対応のせいで、逆に、思いがけないかたちで、世界戦争に巻き込まれる蓋然性が高いのです。第一次大戦はまさにそのようなものでした。--- 防衛のための軍事同盟あるいは安全保障は、何ら平和を保障するものではありません。ところが、それがいまだにリアリスティックなやり方だと考えられているのです。そして、日本ではそれを実現するために、何としてでも「非現実的な」憲法九条を廃棄しなければならないということになります。

 この25年間(それ以前も同じでしたが)、憲法九条を廃棄しようとする動きが止んだことはありません。にもかかわらず、それは実現されなかった。今や保守派の中枢は、なぜ改憲できないのかはわからないままながら、たぶん改憲をあきらめているでしょう。そのかわりに、安保法案のような法律を作る、あるいは、憲法に緊急事態条項を加えるなどで、九条を形骸化する方法をとろうと画策しています。

 ゆえに、護憲派はと当面、九条がなくなってしまうのではないかということを恐れる必要はありません。問題はむしろ、護憲派のあいだに、改憲を恐れるあまり、九条の条文さえ保持できればよいと考えているふしがあることです。形の上で九条を護るだけなら、九条があっても何でもできるような体制になってしまいます。護憲派の課題は、九条を文字通り実行することであって、現在の状態を護持することではありません。---

--- 憲法九条は非現実的であるといわれます。だから、リアリスティックに対処する必要があるといつも強調される。しかし、最もリアリスティックなやり方は、憲法九条を掲げ、かつ、それを実行しようとすることです。九条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ「強力」な行為です。




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 「九条を護る」という、ただそれだけを言い続けている護憲派の人たちの行動は、若い人たちの賛同を得られなくなっているように見えます。


 それだけに、この本は、何故九条を護る必要があるのかを、わかり易く説明してくれている貴重な本だと思います。


 これを読むと、九条を護る姿勢に自信が湧いてきます。


 安倍晋三は、この本を読んでいないでしょうね。読書の蓄積が非常に乏しい人のようですから。



憲法の無意識   柄谷行人著  岩波新書 ④


Ⅲ カントの平和論


--- ふつうにいわれる「平和」というのは、戦争をしていない状態にすぎない。よって、平和条約というのは休戦条約です。それに対して、カントがいう「永遠平和」は、戦争がもたらす一切の敵対状態がなくなることを意味します。カントはそれを諸国家の連合によって創出するという構想を述べたのです。だから、国際連盟や国際連合はそれぞれ、カントの理念にもとづくといっても過言ではありません。このため、国際連盟や国際連合が現実にうまく機能してこなかったことは、カント的な理念が非現実的であるからだと批判されます。--- しかし、私の見るところ、それら批判者たちのカント理解は皮相的なものです。これから、それについて検討しようと思います。---



--- ルソーはサン・ピエールの「永久平和論」(1713年)を取り上げて、「抜粋」および「批判」(1761年)を書きました。サン・ピエールはヨーロッパ諸君主の国家連合体を構想した人ですが、それに対してルソーは、君主らの合意にもとづく国家連合の限界を指摘しました。たとえそれによって平和が実現されたとしても、「牢獄と平和」のようなものでしかない。真の平和を実現するためには、先ず、諸個人の社会契約によって人民主権にもとづく国家を形成すること、さらに、それらの諸国家が契約によって連合体を形成することが必要である、というのがルソーの考えです。

 しかし、彼はそれについて具体的な構想を述べなかった。ただ、「幾多の革命以外の方法では、国家連合が樹立されることはけっしてない」と結論したのです。同時に、彼はそこで躊躇せざるをえなかった。革命はそれ自体戦争を引き起こすからです。では、それは望ましいことなのか、恐れるべきことなのか。ルソーの論考はそのような懐疑で終わっています。---


 カントの『永遠平和のために』は1795年に出版されました。つまり、フランス革命(1789年)の後、周辺国家による干渉とそれに対する革命防衛戦争が起こった時期に書かれたのです。--- カントがこの本を書いたのは、よくいわれるように、そのような戦争を予感したからでしょうか。私も以前はそのように考えていましたが、そうではないということに気づきました。彼はむしろ楽天的な見通しをもっていたようなのです。この本で、彼はつぎのように述べています。それまでの「平和条約」pactum pacis はいわば休戦条約であって、戦争を廃止するようなものではない。条約はいつも破られるし、条約がむしろ戦争の原因になってしまう。そこで「平和条約」にかわって、彼は「平和連合」foedus pacificum を提起します。ちなみに、条約はVertrag(独)、treaty(英)であり、連合はVerband(独)、association(英)です。

 カントは前者を「たんに一つの戦争の終結をめざす」もの、後者を「すべての戦争が永遠に終結するのをめざす」ものと区別します。そして「永遠平和」は、国家間の敵対性を無化するような連合(アソシエーション)によってのみ可能である、と。---



--- ヘーゲルは、カントが『永遠平和』で提起した諸国家連邦の構想に関して、1821年につぎのように述べています。

 カントの構想の批判   もろもろの国家のあいだには最高法官などおらず、せいぜい調停者か仲介者がいるだけである。しかもこれすら、偶然の成り行きで、特殊な意志任せでしかない。カントは国家連盟による永遠の平和を表象した。国家連盟はあらゆる抗争を調停し、個々の諸国家それぞれから承認を受けた一機能として、すべての反目を鎮め、こうして戦争による決着を不可能ならしめる、というのである。だが、こうした表象は諸国家の合意を前提にしている。この合意は、宗教的、道徳的、あるいはその他のどんな根拠や側面においてにせよ、総じていつも特殊な主権的意志に基づいてきたし、まただからいつも偶然性がまとわりついているにも拘らず、である。---


 ヘーゲルの考えでは、条約であろうと、国際法であろうと、それらが機能するためには、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければならない。ゆえに、覇権国家がないかぎりは平和はありえない、というのです。だから、カントのいう「理想論」は大衆には人気があるだろうが、現実的政治においては無力でしかありえない、と。---


 無力という点では、第二次大戦後にできた国連もさほど違いはありません。結局、国連が機能するのは、覇権国家(旧連合軍)に支えられたときだけです。その上、覇権国家は自分の都合で、国連を無視して動きます。国連はいつも非現実的な理想主義として嘲笑される。その場合、使われる理屈は、ヘーゲルがカントの国際連盟構想を批判したときと同型です。---


--- 永遠平和のための国家連合を構想したとき、カントは、人間の攻撃性、そして、暴力にもとづく国家の本性を容易に解消することはできない、という認識に立っていたのです。したがって、カントは、国際連邦を構想しつつ、それが人間の理性や道徳性によって実現されるとは考えなかった。が、それが実現されないとも考えなかったのです。それは実現される。ただし、それをもたらすのは、まさに人間本性(自然)の「非社交的社交性」、いいかえれば、戦争であると、カントは考えたのです。

 このような逆説的・弁証法的な考え方は、ヘーゲルの「理性の狡知」に対して、「自然の狡知」と呼ばれることがあります。しかし、「理性の狡知」が神学的議論の言い換えにすぎないのに対して、カントの「自然の狡知」は唯物論的なものです。だからこそ、それは後期フロイトの認識を先取りするものとなりえたのです。

 実際、カントのいったことは、「自然の狡知」を通して実現されたというほかありません。たとえば、国際連盟が不十分なものながらも実現されたのは、第一次大戦があったからこそです。また、後期フロイトの認識も、第一次大戦後に彼のもとを訪れた戦争神経症の患者たちを通して得られたのです。---


 ルソーは、革命と永遠平和に関して懐疑的であったといえます。事実、彼の懸念は的中しました。フランス革命は大戦争をもたらしたからです。カントは『普遍史』の段階では、このようなルソーの懐疑の上で考えようとしました。それに関して、彼は二つの論点を明確にしました。第一に、永遠平和は、人々が善意によって実現するような理想ではない、ということです。それをもたらすのは、むしろ戦争であり、人間の「反社会性」である。---

第二の点について述べます。それは、一国だけの革命はありえない、ということです。---


 『永遠平和』はその後に大きな影響を与えましたが、今いったように、それは狭い「平和論」に限定される傾向があります。しかし、カントが『普遍史』で指摘した問題は、平和論よりもむしろ革命論として重要なのです。というより、この二つは本来切り離せない問題です。

 諸国家の連邦は、諸国家で革命がなされたときにのみ成り立つ。が、ここに困難があります。カントが述べたのは、つぎのようなアンチノミー(二律背反)です。「完全な市民的体制」を創するような革命は一国だけでは不可能である。諸国家が連合する状態が先になければならない。一方、諸国家の連合が成立するためには、それぞれが「完全な市民的体制」となっていなければならない。では、どうすれば、この循環論を脱することができるでしょうか。

 私の見るところ、のちに同じ問題に出会ったのがマルクスです。彼の考え方では、完全な市民社会体制は人間の不平等を廃棄する社会主義であり、また、それは国家を廃棄するものでなければならない。それは、プラトンの考えたような共産主義、つまり、哲学者=王が管理するような国家社会主義とはまったく違います。この意味で、マルクスはアナーキストと同じです。ところが、国家を揚棄するような革命は、一国だけではありえない。国家は他の国家に対して存在するのだから。ゆえに、社会主義革命は世界同時的でなければならないと、マルクスは考えたのです。---

 こうみると、カントの考えたこととマルクスが考えたことがつながっていることがわかります。カントがいう「永遠平和」とは、たんなる「休戦」ではなく、戦争の原因である国家間の敵対性が終わることです。それは実質的には「国家の揚棄」を意味します。国家は他の国家に対してあるのだからこそ、そこに敵対性がなくなるならば、国家は存在しなくなる。厳密にいうと、社会的国家は残りますが、政治的国家は消滅する。カントがいう「世界共和国」とは、そのような状態です。---


 第一次大戦の末期に革命(2月革命)が起こりましたが、それは大戦中にロシア一国で起こった市民革命です。王制が廃止され、議会が創立された。しかし、その後に、レーニンやトロツキーは、軍事的に権力を奪う10月革命を強行したのです。この結果、フランス革命で生じたことがくりかえされた。外からの軍事的干渉がただちに起こったのです(たとえば、日本もシベリアに出兵し長期にわたって駐留しました)。そのため、国家を揚棄することを目指したはずの社会主義革命は、国家の強化と「恐怖政治」に帰結してしまった。---


 第二次大戦のあとには、もう一つの大きな出来事がありました。それは国際連盟の創設(1920年)です。これはカントの理念に触発されたものですが、その事態は、サン・ピエールの構想した諸国家連合に類似するものです。すなわち、帝国主義諸国家の連合体です。たとえば、国際連盟のもとに創設された統治制度である「委任統治制度」などは、植民地支配の新版にすぎません。しかも、国際連盟にはそれを提唱した米国が加入せず、ソ連も入らなかった。ゆえに、それは第二次大戦を阻止することができなかったのです。その後にできた国際連合も、根本的には、国際連盟と同じです。これは、第二次大戦に勝利した「連合国」が世界の諸国を管理する体制なのであって、本当の意味でカントにもとづくものとは到底いえない。なぜなら、ここには「市民革命」の要素が欠落しているからです。---


 一見すると、カントがここでいう「自然」は「神」を言い換えただけのようにみえます。しかし、彼はそれまで宗教的な摂理として語られてきた事柄を、唯物論的に見直す観点をもちこんだのです。それはフロイトを先取りするものです。そのとき、彼が最も重視したのは、先述した人間の自然的資質としての「非社交的社交性」です。これが不可避的に、敵対・戦争をもたらす。しかし、同時に、それは平和状態をも不可避的に作り出す。---

 

 第一次大戦の後に国際連盟が作られたのは、カント的な理念があったからだということは疑いありません。しかし、それはたんに「カント的理想主義」のためではありません。それは戦争そのものの結果です。カントは『普遍史』においてそれを見越していたのです。人々はまさに「国際連盟を結ぶ方向へ追い込」まれた。何によってでしょうか。--- 先ほど私は、カントがいった「非社交的社交性」ということは、利己心(人間の本性にそなわっている邪悪)のような意識レベルのものではない、と述べました。それは無意識のレベルにあるのです。---


 私は第2章で、フロイトが第一次大戦後に、戦争神経症患者に出会って、新たな認識を得たことを指摘しました。彼らの反復強迫的症状はそれまで想定していたような、快感原則とそれを抑制する現実原則の二元性という観点からでは説明できない、と考えたフロイトは、それらの根底に「死の欲動」を想定するにいたったのです。攻撃欲動は死の欲動から派生するものです。フロイトの考えでは、攻撃欲動(自然)を抑えることができるのは、他ならぬ攻撃欲動(自然)です。それは、カントの文脈でいえば、非社交的社交性(自然)の発露である戦争が、それ自身を抑制するように人々を「国際連盟を結ぶ方向へ追い込む」ということです。---


 なぜこの戦争はこのような戦争神経症をもたらしたのでしょうか。それはこの戦争が帝国主義戦争であったからです。たとえば、太古から部族間の戦争では、あるいは、近現代おいても民族独立などの戦争では、人々は命をかけて戦い、またその後はスムーズに日常生活に戻ることができた。しかし、すでに独立している国家が他国を侵略するような戦争となると、事情が違ってきます。戦争中にはさまざまなイデオロギーで粉飾されていても、それは戦場の現実、他国での現実によってはぎとられてしまう。そこから、さまざまな戦争後遺症が生じます。しかし、それらは意識的なものです。

 それに対して、フロイトが出会った患者らはむしろ何も覚えていない。だから、普通は病人扱いされるだけでしょう。ところが、フロイトは彼らの「無意識」の反復強迫に重要な意義を認めたのです。この反復強迫は自らの攻撃性を糾弾することです。つまり、それは、そうと意識することなしになされる戦争への批判なのです。フロイトは、それを行うものとして超自我を見いだした。---


 第2節で述べたように、ヘーゲルが『法の哲学』でカントの国家連合を批判したのは、つぎのような理由からです。国際法が機能するためには、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければならない。ゆえに、力がなければ、平和はありえない。こうしたリアリズムを踏まえた上で今後の世界を考えていかねばならないだろう、というわけです。---


--- 力にはさまざまなものがあります。たとえば、権威にも権力とは異なる力があります。しかし、私はさまざまな力を、「交換様式」の違いから説明できると思います。交換様式には3つのタイプがあります。そして、歴史的には、どんな社会もこれらの接合体としてあったということができます。ただ、どのタイプがドミナントであるかによって違ってくるだけです。

 第一に、贈与―お返しという交換です。未開社会では、これが主要な交換様式です。--- では、この交換を可能にする、あるいは不可避にするものはなにか。贈与を迫り、また、お返しを迫る力です。それはいわば「呪力」のようなものです。--- このような共同体では、掟に反した者に刑罰などは不要です。いうならば「アウト」と宣告されただけで、すぐに死んでしまいます。むろんストレスで死ぬのでしょうが、そこでは精霊の呪力のためだと考えられている。だから、彼らが掟を破ることはありえない。これは、法の原型といわれることもありますが、そうだとしても、この法を支えるのは、暴力ではありません。一般に、権力と区別される権威は、一種の呪力をもつということができます。--- 私はそれを交換様式Aと呼びます。---

 つぎに、二番目と三番目の交換様式、BとCについて簡単に述べます。支配─服従、収奪―再配分というような「交換」です。国家はこのような交換Bによって成り立っています。これは一見すると、交換に見えません。しかし、国家権力は、暴力によって共同体ないし個人を征服し収奪するだけでは成り立たないし、長続きしない。その支配は、相手が服従することによって安寧を得るという「交換」になっていなければならない。その意味では、Bの根源にも互酬性があるのです。

 むろん、国家は実力(暴力)なしにありえません。しかしまた国家の権力は、それが交換となるときにのみ、つまり服従する者がむしろ自発的に国家に従う場合にのみ、成り立つのです。---

 つぎに、交換様式Cですが、これは一般的に交換という言葉から、人々が連想するものです。この場合、交換は強制ではなく、自由意志でなされる。その意味で、AやBと違います。Cの原理が支配的となったのが近代世界です。--- Cにおいては、交換は各人の同意なしには、つまり自由なしになされない。しかし、それでそこに真に対等で平等な関係が生まれるかというと、そうではありません。それはCに固有の階級支配をもたらすのです。---


 交換様式Cは単独で成り立つわけではありません。それは、交換の契約が履行されることを保証する国家・法を必要とします。つまり、交換様式Bが必要です。さらに、それはある意味で、交換様式Aをも必要とします。たとえば、商品交換は多くの場合、信用を通してなされます。手形を渡して商品を受け取り、あとで支払うわけです。ある意味で、貨幣も古代において信用として始まったといえるのです。---


--- さらに事態を複雑にするのは、以上三つの交換様式およびそれに由来する力に加えて、いま一つの交換様式およびそれに伴うもう一つの力があるということです。

 それは交換様式Dです。Dは、厳密にいうと、交換様式ではありません。それまでの交換様式をこえるものですから。---

 簡単にいうと、Dは普遍宗教としてあらわれます。つまり、現実に存在するものではなく、理念としてあらわれる。Dはある意味で、Aの回復、つまり贈与の原理の回復です。しかし、大事なのは、それが同時に、Aの否定でもあるということです。また、それはAに根ざすBやCの原理を否定するものです。

 具体的にいうと、呪術とは贈与によって神を動かすこと(互酬)です。たとえばお供えをすることによって、願いをかなえてもらうことを期待する。この意味で呪術(ウェーバーの言葉では「神強制」)は、今日のいわゆる世界宗教にも残っています。それは超越神を仰ぐけれども、実際は、人間中心の宗教です。祈願によって神を動かそうとするのだから。また、人が望み決めたことを神の名において正当化するのだから。

 一方、普遍宗教は、そのような宗教の批判としてあらわれたのです。つまり、それまでの宗教にひそむ交換様式AやBの原理を批判するものとして。たとえば、イエスは「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」と説いた。それまでユダヤ教では、「目には目を」が普通です。--- イエスがここで開示したのは、まったく新しい態度なのです。それは交換様式A・B・Cを否定するものです。

 彼が提示したのは贈与です。しかし、それはお返しを迫るような贈与とは違います。--- 互酬交換の力を越えるような、純粋贈与の力があるのです。「愛の力」といってもいいのですが、それはたんなる観念ではなく、リアルで唯物論的な根拠をもつものです。


 私はその例として、憲法九条における、戦争の放棄、武力の行使の放棄を考えてみたいと思います。武力の行使の放棄は、敗戦・被占領の下では普通に生じる事態です。しかし、日本の戦後憲法における戦争放棄は、敗戦国が強制的に武力を放棄させられることとは違います。それは何というべきでしょうか。私は、贈与と呼ぶべきだと、と思います。

 では、誰に贈与するのか。先に引用したように、憲法の前文にはこうあります。《われらは、平和を維持し、専制と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ》。したがって、九条における戦争の放棄は、国際社会に向けられた「贈与」なのです。

 このような贈与に対して、国際社会はどうするだろうか。これ幸いと、攻め込んだり領土を奪うことがありうるでしょうか。そんなことをすれば、まさに国際社会から糾弾されるでしょう。したがって、贈与によって無力になるわけではない。その逆に、贈与の力というものを得るのです。それは、具体的には国際世論の圧力というかたちをとりますが、その圧力は軍事力や経済力とは別のものであり、また、それらを越えたものです。---


--- 第二次大戦後の国連や日本における憲法九条は、以上の過程を示しています。カントの構想は、したがって、たんなる理想主義ではありません。しかし、彼は、国家の軍事力や金の力を上回るような強い「力」がありうることを示さなかったと思います。そのため、「リアリスト」と称する人たちから、理想主義者として軽侮の的となってきたのです。

 実際、国連は無力であり、戦争を阻止するような力をもっていません。では、それを強くするにはどうすればよいか。軍事力をもった諸国家が国連を支えるというのでは、サン・ピエール型の国際連盟にしかなりません。それなら、「世界同時革命」を待つほかないでしょうか。私は国連の根本的改革は一国の革命から開始できると思います。それが世界同時革の端緒となるからです。

 たとえば、日本が憲法九条を実行することが、そのような革命です。この一国革命に周囲の国家が干渉してくるでしょうか。日本が憲法九条を実行することを国連で宣言するだけで、状況は決定的に変わります。それに同意する国々が出てくるでしょう。そしてそのような諸国の「連合」が拡大する。それは、旧連合軍が常任理事国として支配してきたような体制を変えることになる。それによって、まさにカント的な理念にもとづく国連となります。

 その意味で、日本が憲法九条を文字通り実行に移すことは、自衛権のたんなる放棄ではなく、「贈与」となります。そして、純粋贈与には力がある。その力はどんな軍事力や金よりも強いものです。---




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 「 九条における戦争放棄は、国際社会に向けられた「贈与」なのです。」 「 日本が憲法九条を文字通り実行に移すことは、自衛権のたんなる放棄ではなく、「贈与」となります。そして、純粋贈与には力がある。」
 ここまでが長かったのですが、しかし、この結論には、感動しました。
 レヴィ・ストロースも、「贈与の法則」を説いていました。
 「贈与」のもつ力には、納得です。
 





憲法の無意識   柄谷行人著  岩波新書 ③

 

Ⅱ 憲法の先行形態( の続き )


 それについて述べる前に、戦後憲法がいかにして、帝国議会すなわち明治憲法の下で成立しえたのかを見ておきます。---


 旧憲法第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」です。この条文の解釈としてははじめ、穂積八束、その弟子上杉慎吉らが唱えた天皇主権説が有力でした。が、その後に、美濃部達吉の「天皇機関説」が台頭し、大正時代には支配的な見方となりました。天皇主権説は、事実上、藩閥政府による専制的な支配体制を裏づけるものでした。一方、天皇機関説は、議院内閣、政党内閣を裏づけるものとして、〝大正デモクラシー”を支える理論でした。この時期、摂政となった昭和天皇もそれを当然のものとみなしていたし、それ以後も同様です。---


 しかし、1930年代になって、軍部を中心にいわゆる〝ファシズム”が拡大したとき、状況が変わりました。美濃部達吉は1935年に天皇機関説に関して不敬罪で取り調べを受けて貴族院議員を辞任しました。興味深いのは、むしろ次の事実です。彼は戦後、枢密顧問官として新憲法草案の審議に加わりましたが、国民主権にもとづく新憲法を作ることに反対したのです。彼は次のように主張しました。第一に、明治憲法のもとでも議会制民主主義は可能である。第二に、明治憲法にもとづく以上、「国体」を変えるような新憲法はありえない。彼は審議で反対し、また、採決においても欠席棄権しました。

 一方、東京大学法学部憲法講座で美濃部の後継者であった宮沢俊義は、憲法改正の正当性を主張しました。---


 このような過程をふりかえると、法学者の議論は、実際になされたことの辻褄合わせでしかないように見えてきます。事実また、その通りなのです。それにしても、憲法の条文に関して、極端に異なる見解が成立するのはなぜでしょうか。それは条文がもともと両義的(曖昧)だからです。では、なぜ起草者らはそのようなものを作ったのか。なぜ誤解の余地がないようにしなかったのか。それらが書かれる過程で、さまざまな対立が生じ、それを文面上で解決しようとしたからです。ところが、時間が経ち、現実の情勢が変わると、条文が別の意味をもつように見えてくるのです。---


 戦後憲法は、明治憲法に則る帝国議会で議決されました。が、先にのべたように、そこに本当の意味での連続性はありません。たんに新たな体制を正当化するために、連続性が仮構されただけです。戦後憲法の「先行形態」を考えるとき、明治憲法だけを見ると、誤解に導かれます。むしろ、明治憲法以前を考えるべきなのです。むろん、明治以前に憲法はありません。が、成文法がないとしても、国家の体制・機構 constitution はあった。たとえば、徳川幕府の体制では、天皇はいわば象徴天皇としてあったといえるのです。

 先に私は、マッカーサーは天皇制を残そうとしたとき、かつての権力者が代々とってきた知恵を受け継いだと述べました。それは、天皇を斥けるのではなく、逆に天皇を仰ぎその権威にもとづいて統治するということです。その結果として、「万世一系」の天皇制が生まれた。そして、そのことがまた、天皇制に権威を与えたわけです。

 では、なぜそれが可能であったのでしょうか。たとえば、中国およびその周辺では、王朝は交替します。なぜなら、外から遊牧民が征服者として到来するからです。その場合、征服王朝は血統以外のところで、自らの正統性を示さなければならない。そこで、中国で支配的となった観念はつぎのようなものです。君主は天命を受けて統治する。中国の君主が天子と呼ばれるのはこのためです。天命は、民意・民心を通じて表れる。人民の支持がなくなれば、天命が尽きる。そして王朝が交替する。---

 日本には、外部からの征服王朝がなかった。ゆえに王朝の交替がなかったのです。---


 くりかえすと、日本では王朝の交替がなかった。王朝はそのままで、政権が交替したのです。そして、政権あるいは幕府の正統性は、天皇を握ることにあった。したがって、万世一系の皇室は、天皇が権威として続いて来たことを示すとはいえ、天皇が政治的な支配者として続いてきたことを意味しません。---


--- 日本では外から危機が生じるとき、いいかえれば、超越的なものが外から到来するとき、内部で天皇を超越化するということです。それを示す最初の例は「大化の改新」(645年)です。これが起こったのは、唐が新羅とともにヤマトに到来することが必至と見えた時期です。したがって、つぎのようにいっていいでしょう。日本では、天皇が超越的な存在として実権をもつような時期は、内外において危機的な状態にある。戦乱状態にあるということです。先にいったように、建武中興後に成立した室町幕府(1336年ー1573年)は、事実上、戦国動乱の時代です。

 それと対照的なのは、徳川家康の時期です。彼は天皇を鄭重に扱った。しかし、彼がそうしたのは、もし天皇を無視したら、豊臣系などの大名が天皇をかついで反乱を起こすに決まっていたからです。その意味では、織田信長、豊臣秀吉らも天皇を重視していました。---

 信長や秀吉は中央集権主義的、膨張主義的でした。信長は権力を握れば、天皇制を廃止するつもりだったのでしょうが、伝統的な体制を尊重する部下の明智光秀によって殺された。その後、権力を掌握した秀吉は「関白」となって皇室に近づいたのですが、その一方で、明帝国の征服を唱え、朝鮮半島を侵略しようとした。むろん、それは失敗に終わりました。

 徳川家康はその後に権力を握ったわけですが、彼はさまざまな点で、秀吉が行ったことの後始末をしなければならなかったのです。別の言葉でいえば、家康は秀吉の戦争のあと、すなわち「戦後」に対処する必要がありました。家康が図ったのは、「戦国時代」を完全に終わらせることです。それは王政復古によって始まった戦乱を二度ともたらさないようなシステムを構築することです。---


--- 陸の帝国を目指した秀吉の拡張主義がもたらした惨禍は、家康をして一切の膨張、発展を拒む縮小主義に向かわせました。彼がとった政策は、一見すると、鎌倉時代の「封建制」の回復です。彼は幕府を関東(江戸)に開いた。室町幕府はいうまでもなく、信長や秀吉が京都周辺にとどまったのと対照的です。家康は中央集権化を避けて、各地の藩を自律的な政府として残した。その点では「封建的」です。が、実は、徳川の封建制は極めて中央集権的なものです。それを示すのが参勤交代制です。毎年大名を遠方から首都に参勤させるような大がかりな財政的負担を強いる制度は、中国の帝国の全盛期でもありえなかったものです。---


 このように徳川体制では封建制が回復されたのですが、鎌倉時代と違って、独立自尊の武士はいなくなった。武士という身分は残ったものの、実際は官吏のようなものです。そこで、武力ではなく、法と礼による統治が目指された。---


 もう一つ重要なのは、徳川幕府の外交政策です。鎖国政策といわれていますが、実態は異なります。明・朝鮮と交易があったし、オランダとの交易もあったからです。---


 徳川の平和 Pax Tokugawana ということがよくいわれますが、その場合、国内の平和しか考えらていないのはおかしい。--- 徳川の体制はまさに秀吉の朝鮮侵略を頂点とする400年に及ぶ戦乱の時代のあと、つまり「戦後」の体制なのです。ふりかえると、徳川の体制は、さまざま点で、第二次大戦後の日本の体制と類似する点があります。

 第一に、象徴天皇制です。---

 第二に、全般的な非軍事化です。

 ある意味で、現在の憲法の下での自衛隊は、徳川時代の武士に似ています。彼らは兵士であるが、兵士ではない。あるいは、兵士ではないが、兵士である。このような人たちが海外の戦場に送られたらどうなるでしょうか。彼らは戦わなければならないし、戦ってはならない。そのようなダブルバインド(二重拘束)の状態に置かれます。それは、たんに戦場で戦うのとは別の苦痛を与えます。先ほどいったように、イラク戦争に送られた自衛隊員のうち54名が「戦力」でなかったにもかかわらず帰国後に自殺したということがそれを示しています。

 すでに明らかでしょうが、戦後憲法一条と九条の先行形態として見いだすべきものは、明治憲法ではなく、徳川の国制(憲法)です。先にいったように、戦後憲法は明治憲法における改正手続きに従い帝国議会で承認されたということになっていますが、そのような連続性は仮構であって、本当は、そこに切断があります。それは「8月革命」と呼ぶべき変化なのです。特に、象徴天皇をいう憲法一条と、戦争放棄をいう九条は明治憲法にないものです。が、それは日本史においてまったく新しいものだとはいえない。ある意味で、明治以前のものへの回帰なのです。---


 私は先に、憲法九条には、日本人が侵略的な戦争に向かったことに対する「無意識の罪悪感」があるのだ、と述べました。それは、フロイトによれば、いったんは外に向けられた「死の欲動」が内に向けられたときに生じます。しかし、戦争に行ったからといって、誰もが戦争神経症を病むわけではない。病む人は極めて少数です。同様に、侵略的な戦争を行ったからといって、また、その戦争に負けたからといって、憲法で戦争放棄を掲げることになるとは決まっていません。たぶん日本の他には例がないでしょう。---


 これを、占領軍の強制とか巧妙な検閲・操作というようなことで説明することはできません。他方で、それが日本人が侵略戦争によって罪を犯したという意識から来るということもできない。これはやはり「無意識」の問題なのです。ただ、それをもたらしたのは、「大東亜戦争」だけではない、といわねばなりません。

 敗戦が日本人にもたらしたのは、明治維新以後日本が目指してきたことの総体に対する悔恨です。それは「徳川の平和」を破ってたどってきた道程への悔恨です。それは、帝国主義的な戦争における攻撃欲動の発露から生じた「無意識の罪悪感」とはまた別のものです。が、まったく無縁ではありません。むしろ、「徳川の平和」がベースにあったために、第二次大戦後に「無意識の罪悪感」が深く定着したのだと思います。---


--- 徳川時代に入るまでは、武士の存在理由ははっきりしていました。それがよくわからなくなった徳川時代において、観念的意味づけが必要になったのです。時には儒教にもとづいて官僚としての在り方(士道)を説いたり、時にはそれを否定して無闇に死ぬこと(武士道)を説く。要するに、徳川時代は、どの身分・階層も250年以上戦争と無縁であった。これは日本史でも珍しい時期です。

 明治維新から36年後に日露戦争があり、それから40年後に、日本は第二次大戦で敗戦を迎えました。明治維新とともに開始されたプロジェクトは、77年ほどで挫折したのです。しかも、人類史上未曽有の兵器である原爆を蒙った。その後に、「再軍備」を唱えるような者が多数を占めるはずがありません。金輪際戦争には行かない、と思うのが当然です。吉田首相の言葉でいえば、再軍備などは「愚の骨頂」「痴人の夢」です。

 しかし、ここまで述べてきたように、このような戦争忌避の反応は、たんに明治以降の戦争体験から来るものではありません。それはもっと根深く「徳川の平和」とつながっています。この問題をあらためてフロイトの観点から見てみます。

 死の欲動とは、有機体が無機質であった状態に戻ろうとする衝迫です。たとえば、人類が定住する以前の遊動的バンド社会では、人々の集団は少数であり、また、いつでも他人との関係を切断できた。その意味で、彼らの社会は「無機質」であったといえるでしょう。しかし、定住以後の社会では、それらが多数結合された「有機体」になる。それは葛藤・相克に満ちた状態です。そのとき、攻撃欲動が生じるのです。それに対処すべく生じたのが、互酬の原理にもとづく厳しい掟をもった氏社会です。

 同様のことが、徳川体制についてもいえます。それは、長い戦乱のあとに築かれたシステムです。徳川体制とはいわば、「戦後」の「国制」constitution なのです。それが目指したのは、さまざまな禁止によって、攻撃欲動の発露を抑えることです。それによって、徳川体制では「無機質」的な状態が回復されたといえます。それが「徳川の平和」です。ところが、明治以後は開国し外に向かった。それは攻撃欲動の発露です。それが敗戦とともに、自らの内側に向かった。憲法九条がその結果ですが、これは同時に、「徳川の平和」にあった状態に戻ることを意味します。

 くりかえすと、憲法九条が根ざすのは、明治維新以後77年、日本人が目指してきたことの総体に対する悔恨です。それは「徳川の平和」を破って急激にたどった道程への悔恨です。したがって、徳川の「国制」こそ、戦後憲法九条の先行形態であるといえます。

 ただ、私がそのようにいうのは、憲法九条は日本文化に根ざしているという意味ではありません。また、徳川時代を称賛したいわけでもありません。憲法九条が含意するのは、カントが明確にした普遍的な理念が、なぜいかにして、他ならぬ日本において制度として定着したのかを示すことです。それは、日本人の意志あるいは理想主義によるものではない。それはむしろ、日本が侵略戦争を行ったことを通して、さらに占領軍による強制を通して実現された。私がそこに見いだすのは、いわば「自然の狡知」です。



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 「 徳川の「国制」こそ、戦後憲法九条の先行形態であるといえます。」


 考えてもみなかった論ですが、言われてみれば、納得できます。



 

憲法の無意識   柄谷行人著  岩波新書 ②


Ⅱ 憲法の先行形態


 私は先に、戦後憲法の九条は、本来、一条を作るために必要なものであり、二次的なものであったと述べました。しかし、その後、九条ばかりが問題とされるようになり、そして、それがいかなる経緯で作られたかが盛んに論じられてきました。その際に見落とされるのは、当初は一条のほうが重要だったという事実です。興味深いのは、一条と九条の地位が逆転したということです。


 その理由は、一条(象徴天皇制)が定着したことにあります。昭和天皇の時代には、それはまだ定着したとはいえなかった。昭和天皇が存命であるかぎり、戦争責任という問題が残ったからです。戦前に、天皇が立憲君主の制約を超えて政治にかかわったことは、はっきりしていますし、そもそも終戦の決断を天皇がしたことは確かです。さらに戦後の占領下でも、彼は占領軍のいいなりになったわけではありませんでした。むしろ、能動的にふるまった。彼の関心は何よりも、皇室の維持にありました。そのため〝忠臣”であった東条英機元首相を非難し責任を転嫁することをも辞さなかった。つぎに昭和天皇にとって重要だったのは、日本の安全保障でした。そのため、米軍による防衛をマッカーサーに求めたのです。---


 新憲法発布後も、昭和天皇は「象徴天皇」にとどまるどころか、さまざまな政治的介入をしています。天皇は1947年9月、米側に〝メッセージ”を送り「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出すという方針を示した(『実録』)。これによって、沖縄では、講和条約後も、さらに日本への復帰後も現在にいたるまで、在日米軍専用施設の74%が集中するという「軍備植民地」状態が続いています。---

 したがって、憲法一条が真に定着したといえるのは、1989年に昭和天皇が逝去した後です。---


 ところで、1989年は、日本の天皇が逝去しただけでなく、奇しくもソ連圏の崩壊が始まった年です。つまり、この年に起こったのは、昭和の終わりだけでなく、戦後の「米ソ冷戦体制」の終わりでもあった。事実、その後に湾岸戦争が起きたのです。発端は、イラクが隣国のクウェートを侵略したことにあります。このような地域紛争は、それまでなら、米ソの共同管理下で抑えられていたのですが、それがもはやできなくなった。--- しかし、アメリカはイラクを制裁するにあたって、国連の同意を得ました。これは旧「連合軍」以来の出来事です。

 このとき、日本は中東への派兵を迫られた。憲法九条が内外でリアルな問題となったのは、この時点が始めてです。日本の政府は、国連の下での平和維持活動のためという口実で自衛隊を現地に送った。ただ、まさに「平和維持活動」しかしなかったため、逆に、国際政治では評価されなかった、ということが、日本の政治家・官僚にとってトラウマとなったようです。次回は何としてでも軍を送る、というのが彼らの課題となり、それは2003年イラク戦争開戦時の小泉首相の態度にも如実にあらわれています。---


 以上のことから明らかなのは、1989年に、戦後の新憲法の一条が定着したとともに、九条もリアルな意味をもつようになったということです。現天皇は九条を守ろうとしています。もちろん、一条があるため、政治的な関与を慎重に避けていますが、彼の言動はつねに「九条」を志向するものです。これは奇妙な逆転のように見えます。もともとマッカーサーは天皇制を守るために九条を作ったのに、今や天皇・皇后は、九条の庇護者となっている。そればかりか、戦後憲法の庇護者となっている。---

 

 こう見ると、敗戦後とは事態が逆になっています。しかし、憲法一条と九条が密接につながっていることに変わりはありません。現天皇は日本の侵略戦争を悔い、今後けっして戦争をしないことをことあるごとに表明し続けています。彼は、昭和天皇の「戦争責任」を自ら引き受けることによって、皇室を護ろうとしているといえます。そして、それが昭和天皇を弁護することにもなる。つまり、九条を護ることが、一条を守ることになるのです。---


 マッカーサーはそれまで猛威をふるってきた天皇制ファシズムを根絶しようとしたのですが、天皇制そのものは残そうとした。なぜなら、米国の占領に対抗する者は、それを天皇の名の下に行うにきまっているからです。そして、このような判断は、日本で政治的実権をもった者が歴史的にくりかえしたきたことです。この点で連合国軍総司令官のマッカーサーは、いわば、征夷大将軍となった徳川家康のようなものです。彼が日本を統治するためには、天皇制が必要だったのです。---


 第二次大戦後、占領軍は天皇制ファシズムの基盤となったものを徹底的に除去しようとしました。陸海軍の否定、農地改革、財閥解体など。その一方で、マッカーサーは天皇制を遺そうとした。くりかえすと、そのとき、彼はかつての日本の権力者がとってきた知恵を受け継いだわけです。---


 明治憲法は、戦後憲法と違って、自主的に作られ、外から強制されていないといわれますが、それも事実ではありません。明治憲法を作ったのは、外に対して、日本が近代国家であることを示すためでした。それによって、幕末に締結された不平等条約を廃棄するためです。その意味では、明治憲法も外部への強い緊張に強いられて作られたのです。

 さらにいうと、明治憲法を作ったのは、憲法に書かれていない存在、つまりのちの元老たちです。おまけに、彼らは一枚岩ではない。たとえば、伊藤博文と山県有朋の対立があります。むろん、それは条文そのものからは見えないものです。が、それは条文における矛盾、あるいは曖昧さとしてあらわれているのです。天皇にしても、どうにでも読めるようになっています。だから、憲法の「解釈」として、天皇主権説も天皇機関説も成り立つわけです。


 このような問題を考えるために、私は少し変わった観点をとりたいと思います。それは、中谷礼仁(早稲田大学教授)が建築史に関して提起した「先行形態」という概念に示唆されたものです。中谷は大阪でそのことを考えた。大坂は奈良よりも古く、古墳や難波宮が存在したところなのですが、それらは長く埋もれたままでした。その発掘が80年代に開始された。中谷が注目したのは、古墳の存在を知らずに建設された現在の道路が見事に古墳群を迂回していたことです。---


 中谷はこのように、現代の都市が古代の条里制に基づき、また前方後円墳などの跡を避けて成立していることを見いだした。つまり、人々はなぜか過去のことを知らずにそうしているのです。中谷がいう「先行形態」とは、今は見えないし、存在しないものです。にもかかわらず、それによって現在の形態が規定されている以上、現に存在する、といわねばならない。

 条里制の輪郭が残ったのは、それが重視されたからではありません。「まったくその逆に、人々からほとんど意識されることがなかったがゆえに残存しえた」のである。≪先行形態は、現在の都市に影響を与え、実際に都市の変容を無意識のうちに支えるのである。というのも、もし先行形態が意識的にしか受け継がれないのであるとするならば、・・・・・とっくに過去における都市・都市建築的痕跡は消え去っているであろうからである。しかし、先行形態は、ほとんどその形態を宿命的に現在まで温存させる≫(「先行形態論」「セヴェラルネス」鹿島出版会)


 建築に関して「先行形態」を問うたのは、中谷が初めてでしょう。が、このような問題は、他の領域では問われてきたといえます。たとえば、先に述べたフロイトの精神分析の場合、幼年期に遡行することが根幹となっていますが、幼年期とはまさに「先行形態」です。忘却されたもの、抑圧されたものは必ず何らかのかたちで回帰するというのが、フロイトの確信であり、かつ精神分析の核心にある原理です。中谷が「先行形態は、ほとんどその形態を宿命的に現在までに温存させる」というのは、まさにそのことです。


 このように「先行形態」の問題はさまざまなところで見いだせるのですが、私が近年特に建築史における先行形態論に興味をもったのは、それが憲法の問題にもあてはまるのではないか、と思ったからです。私はかつて『隠喩としての建築』という本で、言語・数・貨幣を建築の隠喩として考察したことがあるのですが、それに比べると、憲法を建築に擬えることは「隠喩」というよりはむしろ「直喩」です。

 

 憲法は英語でいえば constitution ですが、これは構成・構造をも意味する言葉です。それは成文法に限定されるものではありません。--- 憲法は国家システムの組み立てを意味すると考えたほうがよい。実際、明治初期には、 constitution あるいはドイツ語の Verfassung は国体・国制などと訳されていました。したがって、憲法にかんして建築史の「先行形態」の論を適用することは、特に「隠喩としての建築」というほどのことでもないわけです。


 くりかえすと、「先行形態」とは、主要な原因となっているにもかかわらず、その後に忘却されてしまうようなものです。かつて存在していたが、その後に無くなった、にもかかわらず、今も人を動かしているもの。私はそれを日本の憲法に関して考えたいのです。---


--- 新憲法は戦後、旧憲法の下でなされた総選挙のあとに開かれた帝国議会で、旧憲法の改正手続きにしたがい成立しました。また、新憲法一条の天皇の規定は、旧憲法の一条の上にあることは明らかです。こうみると、旧憲法が戦後憲法の先行形態としてあるように見えます。

 しかし、これはたんなる見せかけです。このような手続きがとられたのは、極東委員会やアメリカ国務省が、マッカーサーに対して、日本国民の意志を無視して憲法改正を押し通すことがないように要請したからです。そこでマッカーサーは、日本政府が自らの手で案をまとめたかのような体裁をつくろおうとしたのです。そのために、旧帝国憲法を受け継ぐかたちをとったにすぎない。

 したがって、戦後憲法の「先行形態」を考えるとき、明治憲法だけを見ると、誤解に導かれます。明治憲法の「先行形態」をこそ考えるべきなのです。それは、明治維新以前にあった constitution です。むろん、それは成文法ではなく、国家の体制・機構、つまり徳川の体制です。




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 少しずつ、少しずつ、理解しながら進まないことには頭がついていきませんので、話の途中ですが、ここで切ります。

憲法の無意識   柄谷行人著  岩波新書 ①


Ⅰ 憲法の意識から無意識へ


--- 憲法九条が執拗に残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではありません。もしそうであれば、とうに消えていたでしょう。人間の意志などは、気まぐれで脆弱なものだからです。九条はむしろ「無意識」の問題なのです。--- ここではいったん、無意識は、意識とは異なり、説得や宣伝によって操作することができないものであるといっておきます。現に保守派の60年以上にわたる努力は徒労に終わったのです。いくら彼らが、九条は非現実的な理想主義であると訴えたところで無駄です。九条は、「無意識」の次元に根ざす問題なのだから、説得不可能なのです。意識的な次元であれば、説得することもできますが。そして、このことを理解していないのは護憲派も同様です。憲法九条は彼らが啓蒙したから続いてきたわけではない。九条は護憲派によって守られているのではない。その逆に、護憲派こそが憲法九条によって守られているのです。---


 しかし、保守派のなかに、九条が無意識の次元にかかわるものであることに勘づいていた人がいました。文芸批評家の江藤淳です。彼は1981年に、憲法九条が存在した秘密を、米占領軍の巧妙な言論統制に見ようとしました。--- 江藤淳は、憲法が連合軍総司令部(GHQ)によって起草されたこと、そして、その事実が民間検閲局(CCD)の「検閲」によって隠蔽されたことを指摘します。--- 戦前の日本の出版では、検閲がなされても、そのことが読者にはわかるようになっていました。--- 占領軍が検閲しているということは、ほとんど世間の常識でした。--- にもかかわらず、江藤淳が憲法九条を「検閲」の観点から見たことは、重要なヒントを与えます。実は、かつてこの論文を読んだとき、私は江藤淳が「隠微な検閲」というとき、フロイトを意識していたのかどうか、という疑問を抱きました。---

 

 前期のフロイトの考えでは、無意識には、欲望を満たそうとする「快感原則」と、それを満たすことがもたらす危険を避けるために抑制しようとする「現実原則」があります。そして、検閲は現実原則のあらわれである。現実原則とは、いわば社会の規範です。それが親を通して子供に刷り込まれる。そして、それが無意識において人を規制する、あるいは検閲する。---



 フロイトの考えでは、戦争における野蛮さは、ふだんは抑圧されていた「感情生活」が、国家がその抑制を解き放ったために露出したものにすぎない。その結果、起こるのは次のようなことです。《戦争はわれわれから、文明が後からかぶらせた層をはぎとり、われわれの中に原人間をふたたび出現させるのである。戦争はわれわれに、もう一度、自分の死を信じることができない英雄になることを強いる。戦争は、われわれに、疎遠な人に敵のレッテルを貼り、その死を招くべきであり、その死を願うべきであると思わせる》(「戦争と死に関する時評」『フロイト全集14』岩波書店)。---


 フロイトのこの見方は特に新しいものではありません。それまでの新カント派的な「知性」の哲学を否定する「生の哲学」と通底するものです。--- ところが、--- フロイトはこのような時代の趨勢とは逆の方向に転回した。つまり、文化=文明を肯定的に見るようになったのです。---

 重要なのは、フロイトの転回が、彼自身が戦争を経験したことによるのではない、ということです。彼を変えたのは、戦後に戦争神経症に苦しむ患者に出会ったことです。---


 それまで彼はつぎのように考えていました。人間の心は、快感原則と現実原則という二元性によって規定される。現実原則とは、いわば、親を通して刷り込まれる社会の規範です。無意識においては快感原則が支配的です。しかし、それが意識に出てくるとき、現実原則によって抑制され修正される。それが先ほど述べた「検閲」です。

 

 このような前期フロイトの考えは、通俗的なフロイト主義にも残っています。たぶん江藤淳がフロイトについて学んだエリック・エリクソンは、そのような心理学者の一人です。彼らによれば、人間は幼年期は快感原則によって生きているが、徐々に、現実に応じて、それを克服することによって「成熟」する。むろん、それには大きな「喪失」が伴う。そのことを、江藤淳は『成熟と喪失』に書きました。それは文芸評論ですが、憲法論に置き換えると、日本人は憲法九条のような幼年期の願望(快感原則)を断念し、他国との苛酷な関係の中にある現実を受け入れるべきだ、ということになります。それが「成熟」である、と。

 しかし、後期のフロイトはこのような二元論を放棄したのです。1920年には、次のように考えています。《反復強迫の仮定を正当化するものは十二分に残されているし、反復強迫はわれわれには、それによって脇に押しやられる快原理以上に、根源的で、基本的で、欲動的なものとして、現れてくる》(「快原理の彼岸」『フロイト全集17』岩波書店)。こうして彼は、快感原則および現実原則よりも根源的なものとして反復強迫を見いだした。この反復強迫をもたらすのは、人間のもつ「死の欲動」です。死の欲動とは、生物(有機体)が無機質に戻ろうとする欲動です。フロイトは、それが外に向けられたとき、攻撃欲動となると考えました。---


 このあと、フロイトは「自我とエス」(1923年)で、超自我という概念を提起しました。--- 超自我は、死の欲動が外に向けられて攻撃性としてあらわれたのち、何らかの契機を経て内に向かうことによって形成されたものだとフロイトはいいます。---


--- フロイトは、超自我は個人だけでなく集団にもあるという。というよりむしろ、超自我は集団(共同体)のほうにより顕著にあらわれる、と書いています。そして、彼は、文化とは集団における超自我であると考えました。---


--- 超自我は、死の欲動が攻撃性として外に向けられたのちに内に向かうことによって形成されるものです。現実原則あるいは社会的規範によっては、攻撃欲動を抑えることはできない。ゆえに、戦争が生じます。それなら、攻撃欲動はいかにして抑えられるでしょうか。フロイトがこのとき認識したのは、攻撃欲動(自然)を抑えることができるのは、他ならぬ攻撃欲動(自然)だ、ということです。つまり、攻撃欲動は、内に向けられて超自我=文化を形成することによって自らを抑えるのです。いいかえれば、自然によってのみ、自然を抑制することができる。この「自然の狡知」とも呼ぶべき考えは、すでにカントにあったものですが、それについては別に論じます。---


 無意識というと、一般に、「意識されていない」という程度の大ざっぱな意味で理解されています。あるいは、潜在意識と同一視されます。--- しかし、フロイトは、そのようなものを「前意識」と呼んで、「無意識」から区別しました。前意識(潜在意識)に対しては、外から宣伝・教育などによって操作することが可能です。が、超自我は無意識に属するものなので、外から働きかけることができません。

 たとえば、フロイトは、強迫神経症の患者は、外から見ると罪悪感に苦しんでいるようにみえるけれども、当の本人はそれについては何も意識していない、ということを指摘しました。彼はそれを「無意識の罪悪感」と呼んだ。日本人が憲法九条にこだわるのは、それと同じです。日本人はドイツ人に比べて歴史的な反省が欠けているといわれることがあります。確かに「意識」のレベルではそういってもいいでしょう。しかし、憲法九条のようなものはドイツにはありません。憲法九条が示すのは、日本人の強い「無意識の罪悪感」です。それは一種の強迫神経症です。

 そのような無意識は、個人の場合には、精神分析医との対話において見えてくるかもしれませんが、集団の場合そのようにはいきません。しかし、総選挙となると、それが出てくるのです。つまり、戦争に対する国民の「無意識の罪悪感」があらわになります。それがわかっているので、改憲を狙う政党・政治家はいざとなると、憲法九条を争点から引っ込める。そして、選挙の後でまた改憲を唱える。それをくりかえしています。---


 何度もいいますが大事なのは、日本人に戦争に対する罪悪感があるとしても、それは意識的なものではない、ということです。もしそれが意識的な反省によるものであったなら、九条はとうの昔に放棄されたでしょう。意識を変えるのはたやすいことだからです。教育・宣伝その他で、人々の意識を変えることができる。それなのに、なぜか九条を変えることができない。そこで、改憲派は、教育・宣伝が不足しているからだと思ったり、護憲派の教育・宣伝が強いからだと考える。逆に、護憲派は改憲派の宣伝工作にいつも怯えている。そういう光景がずっと続いて来たのです。

 確かに、憲法九条には、戦争を忌避する強い倫理的な意志があります。しかし、それは意識的あるいは自発的に出てきたものではありません。九条は明らかに占領軍の強制によるものです。だから、真に自主的な憲法を新たに作ろうという人たちが戦後にはずっといたし、今もいます。しかし、憲法九条が強制されたものだということと、日本人がそれを自主的に受け入れたこととは、矛盾しないのです。私の見るところ、フロイトが1924年に書いた次の一節は、その質問に答えるものです。


 人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。(「マゾヒズムの経済論的問題」『フロイト全集18』岩波書店)


 フロイトのこの見方は、憲法九条が外部の力、すなわち、占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものです。先ず外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生みだし、さらに、それが戦争の断念をいっそう求めることになったのです。


 憲法九条は自発的な意志によってできたのではない。外部からの押しつけによるものです。しかしだからこそ、それはその後に、深く定着した。それは、もし人々の「意識」あるいは「自由意志」によるものであれば成立しなかったし、たとえ成立してもとうに破棄されていたでしょう。---


 憲法九条は、日本人の集団的な超自我であり、「文化」です。子供は親の背中を見て育つといいますが、文化もそのようなものです。つまり、それは家庭や学校、メディアその他で直接に、正面から伝達されるようなものでなく、いつのまにか知らぬ間に(背中から)伝えられるのです。だから、それは世代の差を超えて伝わる。それは、意識的に伝えることができないのと同様に、意識的に取り除くこともできません。---



--- ここで明らかなのは、マッカーサーの意図は天皇制の維持にあったこと、戦争放棄は、そのことに関して国際世論を説得するために必要な手段であったこと、しかも、戦争放棄はマッカーサーよりも、むしろ日本の幣原首相の「理想」であったことです。幣原は、第一次大戦後の外相であり、1921年のワシントン軍縮会議の代表でもあったことから、戦争を違法化するパリ不戦条約(1928年)について熟知していました。--- 日本はドイツとともに国際連盟を脱退し、またパリ不戦条約を踏みにじった。その結果が第二次大戦であり、敗戦です。そのような過程に具体的にかかわっていた幣原のような人が、戦後に日本はどうすべきかと考えたとき憲法九条を考えたのは、ある意味で当然です。---


 マッカーサーがそのような理想に共鳴したことは事実でしょうが、その一方で、彼が朝鮮戦争の勃発とともに、意見を変更して、日本政府に日本軍の再結成と朝鮮出兵を要請したことも事実です。それは、彼にとって憲法九条が第一義的なものでなかったことを証すものです。ところが、吉田首相はそれを拒絶した。---


 実際には、吉田首相はマッカーサーの要求に従って、警察予備隊を作りました。米軍が朝鮮半島に向かったあとの安全保障のためという名目です。しかし、吉田はあくまで憲法改正を斥けた。---



 くりかえしますが、憲法九条が作られたのは、日本人の深い反省によってではありません。それが簡単に成立したのは、むしろ重要なものではないと見えたからです。マッカーサーにとっては、憲法一条こそが重要で、九条は副次的なものでしかなかった。---


 とはいえ吉田首相は、九条がそれほど根の深いものであると考えてはいなかったと思います。彼は憲法改正をあきらめたわけではなかった。将来日本が独立し経済的に復興を遂げたら、このような世論は変わるはずだと考えていたのでしょう。爾来、保守派の政権はそう考えてきた。驚くべきことに、何と60年間にもわたってそう考えてきたのです。しかも、なぜ世論が変わらないかを問うこともなく。---


--- 最後に、世論と選挙の関係について一言述べておきます。結論からいうと、総選挙は、「集団的無意識」としての「世論」を表すものにはなりえません。なぜなら、争点が曖昧な上、投票率も概して低く、投票者の地域や年齢などの割合に偏りがあるためです。ただ、総選挙を通して、憲法九条を改正しようとする場合、最後に国民投票を行う必要があります。国民投票も、何らかの操作・策動が可能だから、世論を十分に反映するものとはいえません。しかし、争点がはっきりしている上、投票率も高いので、「無意識」が前面に出てきます。

 選挙で勝っても、国民投票で敗北すれば、政権は致命的なダメージを受けることになります。「解釈改憲」すら維持できなくなってしまう可能性もある。むろん、選挙でも、九条改正を唯一の争点としたなら、大敗するでしょう。だから、政府・自民党は、ふだんは公然と九条の改正を唱えているにもかかわらず、選挙となると、決して九条改正を争点にはしないのです。




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 「無意識」とは、興味深い指摘です。



 

韓国ドラマ「W」の後半部分。


 後半の13話~24話は、怒涛の展開です。

 

 話の展開がめちゃくちゃに早い上にドラマの構成が緻密過ぎて、話について行くのに苦労しました。


 一話ずつ、繰り返し観ながら、話の内容を細かくメモしました。


 そうしないことには、頭が混乱してしまうくらい話が緻密です。

 

 いやぁ、よくもこんなに緻密にドラマの構成を考えることができるものと、感心しました。


 ウエブ漫画の主人公のカン・チョル。

 カン・チョルは、自分の愛する(自分を愛している)人間たちの人生を守るためのストーリーを考えて、それをウエブ漫画上で実現させるために奮闘します。コンピューター工学専攻の知識と腕前がここで活かされることになります。


 カン・チョルの家族全員を射殺した犯人。

 カン・チョルがウエブ漫画の主人公であることを自覚したとき、それまでは架空の存在に過ぎなかった犯人も、意志を持つ存在に変化していたことが後で分かります。(その変化の鍵を握るのは、漫画家オ・ソンムだったことが後で分かります。)

 存在することになった犯人は、カン・チョルとその愛する人間を殺すことだけを考えて行動します。


 このウエブ漫画を描いた漫画家のオ・ソンム。

 この人物が、煮ても焼いても食えないよれよれの中年男です。


 売れない漫画家だった。

 売れないこと、そんな自分に自信が持てないこと、家族を養う力がないことなどなど、人生に絶望して酒浸りになり、完全にアルコール中毒となったオ・ソンムを、妻は見切りをつけて娘と一緒に家を出てしまう。


 そんな状況の中でも、ウエブ漫画「W」の中には、自分にはない、優秀な頭脳、不屈の精神力、強靭な身体を持った理想の若い男を描いていた。強い男「カン・チョル」は、漫画の中でどんどん強く大きくなっていく。

 そして、強く大きくなっただけでなく何故かオ・ソンムが描く画面とは違う動きをするようになる。

 カン・チョルが生きているように思えてきたオ・ソンムは、精神を追い詰められていく。

 漫画を描き続けることが怖くなったオ・ソンムは、唐突にもカン・チョルを漢江に飛び込ませて自殺させ、漫画を終わらせようと考える。自殺の場面を描き終えて、酔いつぶれた状態で眠り込んだオ・ソンム。ところが、朝、編集者からの電話で起こされて自分が描いた画面を見てみると、カン・チョルは橋の欄干にしがみついたまま、生きていた。


 カン・チョルのファンたちは歓喜して、カン・チョルの強靭な精神力を褒めたたえる。

 

 已む無く、オ・ソンムはカン・チョルの活躍を描き続けるしかなくなる。

 描き続けているうちに、ウエブ漫画「W」の人気はますます上がり、オ・ソンムは売れっ子人気漫画家となる。

 

 が、国中の人気を集めるカン・チョルはどんどん強い男となって、ますますオ・ソンムの恐怖が募る。

 自分の思い通りに描くことが出来ないようになったオ・ソンムは、アルコール中毒が重症化したのか、精神を病み始めたのかと心配になって、医者の診断を受けたりするがよく分からないまま過ぎていく。

 どんどん追い詰められていったオ・ソンムは、再びカン・チョルを殺すしかないと考えるに至る。

 娘のオ・ヨンジュに問い詰められたオ・ソンムは、自分が創り上げた主人公を自分がどうしようと自由なはずだ。カン・チョルを造った自分は「神」なのだと言い放ちます。


 この物語が妙な方向に走り始めたのは、漫画家オ・ソンムの姑息で意志薄弱な性格と、「致命的な勘違い」が原因だったということがだんだん分かっていきます。


 カン・チョル。犯人。オ・ソンム。

 3人が考えるストーリーが、時間軸と空間を越えて錯綜します。

 知恵でも力でも負けるオ・ソンムは、自分をそっくり丸ごと犯人に乗っ取られて、犯人の思い通りのウエブ漫画を描かされます。犯人の悪知恵は、ある意味で大したものです。


 息も継がせぬ展開が繰り広げられます。

 

 そういう物語の出発点に登場した一枚の「絵」があります。


 この物語の謎解きの「鍵」となる「絵」です。


 「父と子」、このドラマの核の一つとなるテーマが描かれた「絵」です。


 その「絵」から語り始めたいのですが、書き過ぎると「ネタばれ」になるのでしょうね。


 「謎解き村上春樹」という本は、たくさん出ています。

 

 それに倣って、「謎解き『W』」を私は書きたいです。書けるほどの仕掛けが一杯のドラマです。

 

 サスペンス&ラブロマンスドラマという触れ込みですが、私にはそれとは別に、もう一つのテーマが一緒に流れているように思えます。


 このドラマの演出家、脚本家が伝えようとしたことを辿ってみたいです。


 が、サスペンスの要素を多分に持つこのドラマですので、辿り過ぎると「ネタばれ」になってしまう心配があります。「ネタばれ」が問題にならない時期が来たら、きっと書きます。それまで待つことにします。

 

 美しいイ・ジョンソクを観るための「W」だったのですが、美しいイ・ジョンソクに見惚れながら、物語の中身に完全に引き込まれた「W」です。


 イ・ジョンソクは、脚本選びが上手だと言われますが、「揺れながら咲く花(학교2013)」「君の声が聞こえる」「ピノキオ」など、どれも説得力に溢れたドラマでした。今でも中身をきちんと覚えているほど何度も何度も繰り返し観ました。何回観たか、思い出せないほど観ました。それほどの気持ちにさせる内容のドラマでした。


 この「W」も、何度でも繰り返し観たくなります。構想も仕掛けも実に面白いドラマです。


 そして、イ・ジョンソクは、美しいだけではない俳優です。そこにいるだけで存在感のある天性の俳優です。


 「W」は、書いても問題がない時が来たら、きっと書きます。書きたい気にさせるドラマです。


 

応仁の乱  呉座勇一著  中公新書 ⑩


終章  応仁の乱が残したもの


 応仁の乱とは何だったのか。--- この大乱には様々な側面があるが、その本質は二つの大名連合の激突であったと言える。そして、そのような形で大乱が勃発したのは、室町幕府の政治体制そのものに原因がある。

--- 成立当初の室町幕府は諸将の反乱に悩まされた。南北朝内乱が落ち着いてくると、幕府は地方で戦っていた諸将に上洛を命じ、原則的に在京を義務づけた。彼らの動きを監視・統制しようとしたのである。その一方で、複数国の守護を兼ねる有力武将には「大名たいめい」として幕府の意思決定に参加することを認めた。これを守護在京制という。---


--- 京都に屋敷を構える大名たちが連歌や花見などで交流を持ったのは当然であるが、大名個人だけではなく大名家と大名家との間で結びつきがあった。紐帯をになったのは大名の家臣たちである。---

 だが大名たちの横の結びつきは、将軍に求心力がないと、派閥形成につながる。嘉吉の変で将軍足利義教が暗殺されると、諸大名の結集の核が失われ、細川・畠山両管領家による主導権争いが始まった。諸大名は将軍の下に結集するのではなく、両管領家の一方を頼るようになり、細川派と畠山派の派閥抗争が深刻化した。

 細川勝元が山名宗全と提携したのは、畠山氏を押さえ込むためだったが、畠山氏が内紛で弱体化すると、山名氏との同盟の重要度は低下した。山名氏の分国と境を接し、その圧迫を受ける備中守護家など細川氏庶流家は山名氏との提携にもともと否定的であった。山名宗全の側も、赤松氏再興に手を貸した勝元に不信感を持った。結果的に、新興勢力山名氏が覇権勢力細川氏に挑戦するという形で応仁の乱は生起したのである。---


--- 応仁の乱はなぜ起こったのか。--- 直接的な要因は畠山義就の上洛であろう。--- 義就を上洛させた山名宗全も当初の狙いは無血クーデターであり、細川方との全面戦争を企図していたわけではなかった。

 事態を決定的に悪化させたのは、御霊合戦への山名宗全の介入である。畠山義就と政長の一対一の合戦でも義就が勝利したはずで、宗全の援軍派遣は蛇足と言わざるを得ない。本来、諸大名の合従連衡は防御的・保守的なもので、連合して敵を攻撃する性格を有していなかった。だが、宗全の支援を受けた義就軍が政長軍を撃破すると、盟友の政長を見捨てた形をなった細川勝元は武士としての面目を失った。勝元が東軍を組織して開戦を決断したのは、成身院光宣らの進言もさることながら、戦争に訴えず宗全の横暴を認めては大名連合の盟主としての声望を失うという危機感に由来する。

 細川・山名という二者間の利害対立だけが問題ならば、当時者同士の交渉で妥協可能だった。--- けれども、勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標は急増し、参戦大名が抱える全ての問題を解決することは極めて困難になった。しかも長期戦になって諸大名の被害が増大すればするほど、彼らは戦争で払った犠牲に見合う成果を求めたため、さらに戦争が長期化するという悪循環が生まれた。---


--- 乱の前後で幕府の権力構造は大きく変化した。特筆されるのは、乱後ほとんどの大名が京都を離れ、在国するようになったことである。これは、大名による分国支配を保証するものが守護職補佐ではなく、大名そのものになったからである。---


 乱後もかろうじて維持されていた守護の在京原則は、明応の政変で完全に崩壊する。在京していた諸大名が次々と分国に帰ってしまったのである。---


--- 戦国期の将軍が統治する領域である「天下」は、京都周辺に限定されていたのである。俗に言う「守護大名」が将軍の権威を背景に分国支配を進めたのに対し、戦国大名は自分の力量によって「国」を統治した。したがって、将軍は戦国大名の内政には干渉できないのである。--- 戦国大名同士の戦争を将軍が調停することは間々見られるので、将軍が大名より高次の存在であることは変わらないが、将軍と諸大名が京都で協議を重ねることで戦争を阻止し全国的な政治秩序を維持する乱前の体制とは全く様相を異にする。

 室町幕府は将軍をリーダーとして推戴した諸大名の一揆である、という評価がある。嘉吉の変後の政治状況は諸大名の一揆を二分し、二大陣営の対立が応仁の乱を生んだ。だが皮肉なことに、応仁の乱の原因であり、また主体でもある二つの大名集団は、終戦と共にいずれも解体した。そして、従来の幕府政治では日陰者だった守護代層や遠国の守護が、戦国大名として歴史の表舞台に登場してくる。既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まるのである。---


--- 15世紀後半以降、在国するようになった守護・守護代は、国元に立派な館を築いている。これらの守護館(守護所)の遺跡は発掘調査によって全国各地で見つかっているが、そのほとんどが平地の、一辺が150~200メートルほどの方形館で、その敷地内には連歌や茶の湯を行う建物「会所」だあった(会所の多くは庭園の池に面して建てられた)。主殿・常御殿・遠侍などの配置も判で押したようである。---


 こうした守護館の構造は、「花の御所」(室町殿)などの将軍邸を模倣したものだった。地方に下ってきた守護や守護代はかつて京都で味わった文化的生活を懐かしみ、分国において華やかな日々を再現しようと試みたのである。---


 一方、現実の京都はというと、守護や奉公衆の在国化によって住民が激減し、市街域も大幅に縮小した。戦国期の京都は、武家・公家を中心とする上京、町衆を中心とする下京、および周辺の寺社門前町という複数のブロックから成る複合都市として機能した。数々の「洛中洛外図屏風」は豪華絢爛たる花の都を活写しているが、これは理想の京都を描いた「絵空事」であり、実像とは大きく懸け離れていた。地方における「小京都」の林立と京都の荒廃は、表裏一体の事態として進行したのである。

 

 応仁の乱が長期化・大規模化すると、両軍とも郷村の武力の取り込みに躍起になった。---

--- 乱中には郷村に対する兵粮支給も始まった。その最も早い例として、文明元年6月、東軍が山科七郷(現在の京都市山科区。荘園領主を異にする七つの本郷と九つの組織から成る)に恩賞として与えた半済が挙げられる(「山科家礼記」)。郷村に対する半済給付とは、要するに年貢の半分免除である。年貢が減って困るのは寺社本所、すなわち荘園領主であって、武家の懐は痛まない。ゆえに、武家勢力は半済給付の約束を乱発した。---


 郷村の半済要求は、基本的には戦功に対する恩賞を求めるという性格を持つが、それだけではない。戦乱や天災が起こった時には、為政者は困窮する民衆を善政によって救うべきである、というのが中世の社会通念である。--- 戦時の半済給与は「徳政」の一環であり、民衆がこれを要求するのは当然である、という認識があったと思われる。---



 戦国大名は恒常的な戦乱に備えるために、郷村に対して城郭の築造・修築のための普請役、戦時における物資輸送のための陣夫役を求めた。大名領国全体が侵略の危機に瀕した時には、郷村の百姓を徴兵することもあった。このような総動員体制を敷く以上、戦国大名は郷村の存立を維持するため民政に力を入れざるを得ない。大名が守護代以下に分国経営を委任し、その収益を京都で受け取るだけだった室町時代とは全く異なる社会が生まれたのである。---


--- 永世4年6月、細川京兆家の後継者争いの渦中で細川政元が暗殺される。--- こうした動乱の展開に尋尊はさほどの関心を示していない。自らの死期を悟った尋尊は、読経三昧の毎日を送っていた。永世5年5月2日、尋尊示寂。79歳だった。---

 

 その後、紆余曲折を経て、大永元年(1521)には、筒井・越智・箸尾・十市の4氏による連合体制が成立し、大和国は安定する。それは興福寺の大和一国支配を換骨奪胎するものであった。大和国人は興福寺の権威・権力を利用する形で支配を進めたのであり、ついに興福寺から自立することはなかった。---



--- 戦後歴史学が依拠した革命思想と反戦平和思想は矛盾することが多い。前近代社会において既得権打破の動きは、往々にして戦乱の形をとるからである。中世興福寺は大和国人の領主的成長を阻んだかもしれないが、一方で大和国の戦争被害を減らした。両面を合わせて評価しなければ、興福寺が気の毒だろう。

 以後も興福寺は、畿内に現れては消えていく武家勢力と折衝を重ねていく。--- 戦乱の時代をしたたかに乗り切った経覚と尋尊に敬意を表したい。



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 終わりました。


 長かった。


 今は使われていない漢字に苦労しました。


 それでも、読んでの満足感は、大きいものがあります。


 歴史を見る姿勢が変わりました。


 自分の無知が、情けなくなりました。


 いかに「知らない」かを知ったことが収穫でした。


 そして、今、この本が読まれる意味も、分かったように思います。


 この国の、現在のありようを考えるヒントが、たっぷりと含まれているように思います。




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 最後に、「オマケ」です。
 今朝の毎日新聞に載ったものです。
 拍手を送ります。
 金田クン。.jpg

 

応仁の乱  呉座勇一著  中公新書 ⑨


第7章  乱後の室町幕府


 応仁の乱によって将軍の権威が失墜したことはよく知られている。---


 とはいえ、足利義政も巷間言われるほどに無為無策だったわけではなく、幕府再建に努力している。その柱が寺社本所領返還政策である。これは、守護などの武家勢力が「寺社本所」、すなわち寺社・公家などの荘園領主から奪った所領を返還するというものである。---

 寺社本所領返還政策は守護の既得権益を侵すものであるから、その実現は容易ではない。---

--- この時代、土地を本来の所有者に戻すことは「徳政」、すなわち良い政治と認識されていた。義政が理想の政治を実現することで将軍の権威を高めようとした、という推定が一応は成り立つ。

 だが義政は一方で、諸国にある御料所(幕府直轄領)が守護・守護代以下に奪われているため、その代りとして、山城国内の寺社本所領の年貢の五分の一を徴収するという決定を下している(「大乗院寺社雑事記」)。--- 寺社や公家に負担を強いる義政の施策は同時期に展開された寺社本所領返還政策と矛盾するように見える。--- 義政の寺社本所領返還政策は慈善事業ではなく、むしろ守護勢力を抑圧し自身の利権を拡大するという一挙両得の将軍権力強化策だったのである。---


 文明11年(1479)11月22日、16歳の足利義尚は判始はんはじめを行った(「長興宿禰記」)。判始とは、文書に初めて自分の花押をすえる儀式のことである。中世において自分の花押を持つことは、法的な責任能力を持った一人前の大人の証である。義尚は既に元服して征夷大将軍に任じられていたが、花押を持っていなかったので、政治に携わることはできなかった。判始によって、将軍の名の下に文書を発給することが可能になったのである。

 だが、その後も義尚には文書発給の機会がなかった。父である足利義政が依然として政務をとっていたからである。これに不満を持った義尚は文明12年5月、突如本鳥を切って御所を飛び出し、出家を図った。--- あわてた義政は、近いうちに政務を譲ると約束して義尚をなだめたという(「長興宿禰記」)。---


 文明13年正月、足利義政は「隠居する」と言い出し、人々が年賀の挨拶に御所を訪れても面会しようとしなかった。---

 政務委譲というより当てつけ的な政権投げ出しに義尚は反発し、再び本鳥を切り、人々の年賀の挨拶を拒否した。天下を治める立場にある足利将軍家の父子が共に引きこもるという前代未聞の事態に、尋尊は「ただ事に非ざるものなり」とあきれ返った(「大乗院寺社雑事記」)。---


 文明14年12月には、足利義尚・日野富子が劣勢の畠山政長を見限って畠山義就に乗り換えるという方針を示した。義政はこれを撤回させ、再び父子の対立が激化した。---


--- 義政の執奏により、後土御門天皇が畠山義就治罰の綸旨を発給し、義就は「朝敵」と位置づけられた(「後法興院記」)。---


 両軍は久世・綴喜の郡境を挟んで退陣した。双方が総力を結集したため、互いに迂闊に動けず、睨み合いが続いた。---

 決定的な勝機を見いだせないまま、両軍は無為に滞陣を続けた。--- 最大の軍事力を擁し山城にも強い影響力を持つ政元が事態を収拾するという解決策は、最も現実的な選択肢だった。

 しかし局面を打開したのは、細川政元ではなく、南山城の国人(地元武士)たちだった。12月、彼らは「国一揆」を結成し、両畠山軍に撤退要求を突きつけた。要求を受け入れない側を攻撃すると国一揆が圧力をかけたため、両軍はやむなく撤兵に応じた(「後法興院記」)。---


--- 国一揆が寺社本所領の復活を宣言したのは、寺社本所のためを思ってのことではなかった。彼ら山城国人の言う寺社本所領の回復とは、具体的には大和の衆徒・国民など「他国輩」を荘園の代官に任命しない、ということであった(「狛野荘加地子方納帳」)。


 文明18年2月、山城国人は宇治の平等院で会議を開き、「国中掟法」を制定した(「大乗院寺社雑事記」)。以後、南山城の国人たちによる自治が行われた。---


--- 中世武士は主君に絶対の忠誠を求められることはなく、主君が家臣保護する義務を怠った場合、家臣が主君を見限っても何ら非難されなかった(拙著『一揆の原理』を参照)。--- 平たく言えば「家臣が主君を選ぶ」のである。



 文明17年(1485)4月、将軍足利義尚との対面の順番をめぐって、幕府の奉公衆と奉公人が対立した(「後法興院記」)。将軍親衛隊=武官たる奉公衆に対し、奉公人は文書行政を取り仕切る文官であって、もともと身分は低かったが、幕府機構の拡大にともない重要度が増し、地位の上昇を求めるようになっていた。両者の確執は拡大し、奉公人は一人を除いて全員が仕事をボイコットした。---


 応仁の乱以前において、室町幕府を支えてきたのは、複数国の守護を兼ねる在京大名たちであった(拙著『戦争の日本中世史』を参照)。---

 ところ応仁の乱終結後、大名たちは次々と分国に帰っていった。--- そして大名たちが京都からいなくなった分、奉公衆と奉公人の幕府内での存在感は相対的に高まったのである。

 こうなると、奉公衆と奉公人との間で主導権争いが生起するのは当然だ。だが平時においては、事務官である奉公人たちの方が明らかに有利である。押され気味の奉公衆が、足利義政に頭を押さえつけられている義尚に接近していったのも、これまた必然と言えよう。---


 義尚の将軍就任後も義政が政務に関わったのは、もともとは年若い義尚を後見することが理由だったと思われる。だが義尚が成長しても、義政は幾度も引退を宣言しておきながら、義尚の執政に容喙し続けた。唯一絶対の将軍による一元的な支配を目指す義尚にとって、父義政の存在は、今や障害でしかなかったのである。

 

 長享元年(1487)9月、足利義尚は近江守護六角高頼討伐のため、自ら軍を率いて出陣した。---

 六角高頼は一戦して敗れると、すぐに行方をくらまし、以後は六角家臣の散発的抵抗が続いた。しかし足利義尚は帰京しようとせず、そのまま在陣を続けた。---

 長期在陣は奉公衆にとっても好ましいものではなかったはずで、六角討伐を近江に所領を持つ奉公衆の要望に足利義尚が応えただけ、と解釈することはできない。義尚には明確な目的があったと考えられる。

 

 ここで注目されるのは、在京奉公衆のみならず、在国していた奉公衆まで参陣している点である。応仁の乱によって、所領保持のために京都を離れる奉公衆が続出し、将軍の側近くに仕える奉公衆の人数は減少した。足利義尚は近江親征を利用して、応仁の乱で離散した奉公衆を自ら麾下に再結集しようとしたのである。この一大軍事動員は奉公衆の量的な回復に留まらず、質的な向上をも意図していただろう。戦場において共に戦うという絆によって、将軍と奉公衆との主従関係の強化を企てたのである。

 奉公衆対策だけではない。足利義尚は奉行人たちも連れていった。義尚が滞在した鈎の陣(現在の滋賀県栗東市に所在)は、実質的な政庁として機能し、奉行人たちが業務を行った。--- 義尚は、幕府の政治機構そのものを近江に移動するという荒業によって、足利義政からの干渉を脱したのである。---



 将軍側近勢力と諸大名の対立は宿命的なものであり、やむを得ないところもある。だが、結城政広らは将軍の威を借りて私利私欲に走り、奉公衆からも反発を受けた(「大乗院寺社雑事記」)。---


 長享3年(1489。8月21日、延徳に改元)3月、足利義尚(同2年6月に義熙と改名)は重病にかかった。---義尚は病床にあっても酒を飲んでいたというから(「大乗院寺社雑事記」)、酒の飲み過ぎが原因かもしれない。26日、義尚は逝去し(享年25)、討伐軍は目的を果たせぬまま義尚の遺骸を守って帰洛した。---

 足利義尚は志半ばで倒れた形になったが、仮に寿命が多少延びたとしても、彼の夢がかなったかどうかは疑わしい。義尚と細川政元ら諸大名との溝は深まり、側近衆と奉公衆との関係も悪化していった。病魔は八方ふさがりの状況から義尚を解放したとも言えるだろう。---


 翌延徳2年(1490)正月7日、足利義政が亡くなった(享年56)。これによって義材の将軍就任は時間の問題となり、父である義視が幕府の実権を掌握した。---

 ところが、日野富子と足利義視・義材父子の関係は、小川殿の相続問題をめぐって急速に悪化した。小川殿は細川勝元が所有していた邸宅の一つで、応仁の乱の文明3年(1471)頃から足利義政が利用していた。--- 富子はこの邸宅を細川政元に返そうとしたが、政元は「(義政・義尚という二代の)将軍がお使いになった邸宅を返していただくのは恐れ多いことです」と辞退した。そこで富子は4月27日、この邸宅を清晃に譲った(「蔭凉軒日録」)。---


--- 富子と政元が清晃を将軍に就けようとしているとの噂を耳にした義視は、清晃が小川御所に入居する前に、これを破壊してしまった(「後法興院記」「北野社家引付」)。日野富子は義視の暴挙に憤り、義視・義材を敵視するようになった。---


--- 足利義材の執政は、最初から多くの不安要素を抱えていた。しかも10月には母良子が亡くなり、翌年正月には父義視が53歳で病没している。後ろ盾である両親を失ったことで、義材は孤立を深めていった。---


 足利義材はかなり早い段階から近江親征を検討していたが、実現したのは将軍就任から1年ほどたった延徳3年(1491)8月だった。---

 驍勇無双の畠山義就が延徳2年12月に病没し(享年54)、嫡男基家(のちの義豊)に代替わりしてからというもの、足利義材は河内出兵の機会をうかがっていたが(「大乗院寺社雑事記」「後法興院記」)、奉公衆からの支持を固めるべく近江出兵を優先した。近江の問題が一段落したので、いよいよ河内に乗り出すことになったのである。---

 ところが、ここに驚天動地の事態が発生する。4月22日の晩、京都に残留していた細川政元が日野富子・伊勢貞宗と示し合わせて挙兵し、清晃を将軍に擁立したのである(足利義遐。のちに義高、義澄と改名)。これを明応の変という。---


 細川政元は足利義材の出陣直前、祝宴を張って義材を饗応するなどして、己の野心を隠した。尋尊が3月21日には新将軍擁立の噂を耳にしていることを考慮すると、陰謀の進行に全く気づかなかった義材はいかにも迂闊である。

 反義材派の京都制圧を知るや、諸大名や奉公衆は次々と義材を見捨てて京都に帰還した(蔭凉軒日録」「親長卿記」「後法興院記」「言国卿記」)。義材のもとに最後まで留まった幕臣はわずか40人ほどだったという。---


--- 応仁の乱中は西幕府に属し、乱後は長く美濃で亡命生活を送っていた義材と、義政。義尚に仕えてきた奉公衆たちとの関係はもともと希薄であった。葉室光忠ら側近を重用する義材の政治にも不満があった。義材と奉公衆との絆の弱さは、突然のクーデターによって露呈し、奉公衆の大量離反を生んだのである。---


 政変により河内の戦況は一挙に逆転し、足利義材と畠山政長・尚慶(のちの尚順)父子は正覚寺に孤立した。閏4月25日、正覚寺は陥落し、政長は自害、尚慶は紀伊に逃亡、義材は捕縛されて京都に護送され、上原元秀の屋敷に幽閉された。

 しかし6月末、足利義材は上原邸を脱出して越中に逃れ、自らが正統な将軍であると宣言した。奉公衆・奉行人の一部は京都を離れて義材のもとに走り、少なからぬ大名が義材を支持したため、足利義高(のちの義澄。以下義澄で統一)と足利義材(のちの義尹、義稙。以下義稙で統一)という「二人の将軍」が並立することになった。この対立は義澄・義稙の代では決着せず、おのおのの後継者も将軍の座をめぐって抗争を続けたため、「二人の将軍」の並立は常態化した。むろん、一方が朝廷から征夷大将軍に任命されれば、もう一方は正式な将軍ではないわけだが、そのような形式はもはや無意味になっていた。朝廷は京都の支配者を機械的に将軍に任命するだけだから、将軍とは畢竟「その時京都を支配している存在」にすぎない。---


 かつての研究では、応仁の乱後の室町幕府は有名無実なものとみなされ、研究対象として重視されなかった。けれども、1970年代の今谷明氏の一連の研究を契機に、戦国時代の幕府に関する研究が進み、乱後の幕府も一定の実質を備えていたことが明らかになった。戦国期の畿内政治史は「二つの政府」の抗争史として把握され、「二つの幕府」並立の起点として明応の政変がクローズアップされた。すなわち、応仁の乱ではなく明応の政変こそが戦国時代の幕開けであるという理解が生まれたのである。

 

 確かに、臣下が将軍の廃立を実行した明応の政変は下剋上の極致である、前代未聞の事態である。細川政元はいわば織田信長の大先輩にあたるわけで、彼の先駆性を評価する声が大きいのも分からなくはない。

 しかし、将軍が存在するにもかかわらず別の将軍を擁立するという構想は、細川政元の独創ではない。--- この構想の発明者は応仁の乱の西軍なのである。仮に西軍が東軍に勝利していたならば、足利義政は将軍の座から引きずり下ろされ、足利義視が新将軍として君臨したであろう。政元は西軍の戦略を模倣したにすぎない。---

 応仁の乱が生み出した政治対立の構図は終戦によって解消されることなく、以後も幕府関係者を拘束し続けたのである。



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 人望のある人間の下に人が集まるのは当然の成り行きです。


 実力を持たない将軍は、将軍であり続けることが難しくなっていったのですね。




応仁の乱  呉座勇一著  中公新書 ⑧


第5章  衆徒・国民の苦闘


--- かつて平城京という都が置かれていた奈良は、京都の南に位置することから「南都」とも呼ばれた。---

 興福寺の周辺には数十の小郷が形成され、興福寺はこれらを束ねる上位の行政単位として七つの郷を設置した。南大門郷・新薬師郷・東御門郷・北御門郷・穴口郷・西御門郷・不開門郷の七郷である。戦国時代の文献によれば、「南都七郷」と呼ばれた。--- 郷には寺社に所属する僧侶の他、寺社に奉仕する商工業者や芸能民が居住していた。彼ら都市民は「郷民」と呼ばれた。---

--- 南都七郷は興福寺から役を課されていた。いわば住民税である。有名なものに、七郷人夫役がある。興福寺の別当が建築工事や法会の準備などのために七郷から人夫を動員するのである。---


--- おん祭りには、興福寺の僧侶のみならず大和武士、すなわち衆徒・国民も流鏑馬十騎の奉納という形で参加している。また、おん祭りの挙行に際しては、大和国の東西南北の境に春日神人が派遣され、結界が張られる。大和国全体を聖域とするのである。おん祭りは大和一国を挙げての大規模な祭礼であり、興福寺による大和支配を象徴するものでもあった。--- 応仁の乱の最中にも毎年欠かさず開催された。---



 応仁の乱が勃発した要因は複数あるが、直接の引き金になったのは畠山氏の家督争いである。---


--- 応仁の乱が長期化する中、南朝皇子の末裔たちが混乱に乗じて動き出した。文明元年(1469)11月、南朝後胤の兄弟が、一人は大和国吉野の奥で、もう一人は紀伊国熊野で蜂起したのである(「大乗院寺社雑事記」)。

 後南朝勢力の蜂起に、西軍は深い関心を寄せた。西軍は足利義視を擁立したものの、しょせん義視は将軍の弟にすぎず、しかも後花園法皇から「朝敵」の烙印を押されていた。西軍は大義名分の面で依然として東軍に劣っていたのである。このため、南朝皇族の血を引く後裔を天皇として推戴することで、東軍の天皇・将軍の権威に対抗するという構想が生まれた。このアイディアを最初に思いついたのは、越智家栄だったようである。---


--- 応仁の乱はもともと幕府内の権力闘争であったが、南帝の擁立によって、新たな段階に進んだ。それは、「北朝の軍隊」として「室町の平和」を守るという、室町幕府の役割が失われたことを意味した。---



第6章  大乱終結


 文明3年(1471)7月、京都では疱瘡が大流行した。---


 この年の赤痢・疱瘡の大流行は、旱魃と戦乱のダブルパンチによるものだろう。飢餓と軍事徴発によって食糧は不足し、人々の体力は奪われていった。大量の餓死者や戦死者は都市衛生を悪化させ、疫病の大流行を招いた。---


 明けて文明4年(1472)正月、山名宗全と細川勝元との間で和睦交渉が始まった。---

 和睦の雰囲気を生んだ最大の要因は、士気の低下である。この年の正月、西軍の「構」で一色義直の家臣たちと畠山義就の家臣たちが毬杖で遊んでいた。毬杖とは、木製の杖をふるって木製の毬を敵陣に打ち込む正月の遊びである。ところが、その勝敗をめぐって喧嘩になり、双方合わせて80人の死者・負傷者が出たという。長期在陣のストレス発散のためにゲームをやったのだろうが、逆効果になってしまったわけで、厭戦気分の蔓延をうかがわせる(「経覚私要鈔」)。彼らを率いる大名たちが出口戦略を考えるのは当然と言えよう。


 もともと山名宗全と細川勝元は不倶戴天の間柄ではない。勝元が宗全と決別したのは、宗全が畠山義就に荷担して勝元盟友の畠山政長を攻撃したからだが、逆に言えば畠山問題さえ棚上げしてしまえば、両者の和解は可能である。---


--- 尋尊の日記によれば、既に文明2年6月の段階で西軍諸将は戦争継続に消極的で、積極的に戦っていたのは畠山と大内の両人だけだったという。---


 文明4年4月、山名家臣の太田垣が京都で西軍方として活動していた畑経胤のもとに書状を送ってきた。それによると山名宗全は錯乱状態で、狐にとりつかれたのではないかと家臣たちが懸念しているという(「経覚私要鈔」)。---

 真偽は不明であるが、宗全が正常な精神状態ではないという噂が流布することじたい、宗全の求心力低下を如実に物語っている。特に家臣の太田垣が主君の病状を触れ回っているのは異常である。山名家臣団は宗全を引退させることで細川氏との和睦を実現しようと画策したのであろう。いわゆる「主君押込」である。

 同じ頃、細川家中においても事件があった(「大乗院寺社雑事記」「経覚私要鈔」)。細川勝元・勝之親子が本鳥を切り、家臣たち十余人もこれにならったという。隠居の意思表示であろう。---

 両人は開戦の責任を取る形で隠居した。これによって、山名と細川の間のわだかまりは解消されたと言える。だが両軍の首脳が表舞台を去ったことで、諸将を束ねる存在が失われた。宗全と勝元が真になすべきだったのは、諸将を説得して正式な講和交渉を始めることだった。彼らはおのおの政権を投げ出す形で辞任してしまった。諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はだらだらと続いたのである。---


 文明5年3月18日、山名宗全が70歳で他界した。すると同年5月11日、細川勝元も44歳の働き盛りで死去した。死因はよく分からないが、心労がたたったものと思われる。---


 翌文明6年2月、講和交渉が再開された。---

 同年4月3日、山名政豊と細川政元の会見が実現し、和睦が成立した(「東寺執行日記」「東院年中行事記」)。---だが西軍の大内政弘・畠山義就・畠山義統・土岐成頼・一色義直は和議に応じず、陣を解散しなかった。東軍の畠山政長・赤松正則も臨戦態勢を解かなかった。結局、山名・細川の単独和睦となり、西軍と東軍の和議には至らなかった。---


--- 山名宗全と細川勝元という両軍の総帥が没し、山名・細川両氏の間で和睦が成立したにもかかわらず大乱が続いたのは、あくまで畠山政長打倒を目指す畠山義就が反細川の大内政広を巻き込んで徹底抗戦したからである。

 山名宗全の決起は、足利義政親政の打破を目的としていた。だが、山名一族降伏後の西軍は反細川の色彩を強めていく。ここに応仁の乱は新たな局面を迎えた。--- 


 終戦工作を担ったのは、新将軍足利義尚の伯父、日野勝光であった。尋尊は勝光を「新将軍代」と呼んでいるが、政治の実権は依然として足利義政が握っており、勝光は実質的には義尚ではなく義政の代官であった。---

 文明7年2月、西軍の甲斐敏光が降伏し、足利義政から遠江守護代に任命された(「大乗院寺社雑記」)。--- かくして越前は完全に東軍の手中に落ち、西軍は一層不利に陥った。西軍の降伏は間近かと思われたが、文明8年6月に日野勝光が死去し、終戦工作は暗礁に乗り上げた。

 文明8年9月、足利義政は大内政弘に御内書を送り、終戦への協力を求め、受諾を得た(内閣文庫所蔵「古文書」、「黒岡帯刀所蔵文書」)。政弘の在京は10年近くに及んでおり、さすがに本国が心配になってきていた。12月、おそらく大内政弘の進言に基づき、足利義視は義政に対して「西軍への参加は謀反の意志によるものではなく、伊勢貞親に命を狙われていたがための自衛行動です」と釈明し、許しを乞うた。義政はこれを受け入れ、伊勢貞親の讒言を信じたことを詫びた。死人である伊勢貞親をスケープゴートにする形で、兄弟はようやく和解のきっかけをつかんだのである。

 以後、講和交渉をに担ったのは、日野勝光の妹にして足利義政正室たる日野富子である。---


 大内政弘の降伏が秒読みとなり、強気一辺倒だった畠山義就も身の振り方を考えざるを得なくなった。--- ついに畠山義就は京都の陣を引き払った。行き先は畠山政長の重臣である遊佐長直が守る河内若江城(現在の大阪府東大阪市若江南町)である。---

 東軍諸将は、撤兵する畠山義就の軍勢を追撃しようとはしなかった。おそらく足利義政から追撃禁止の命令が出ていたのだろう。義政は大乱の勃発当初から、義就を京都から出すことで、幕引きを図ろうとしていた。---


--- 11月3日、ついに大内政弘が東幕府に降参する。--- 足利義視は土岐成頼と共に美濃に下ることになった。---


 かくして西幕府はなし崩し的に解散し、応仁の乱は形の上では終わった。とはいえ、畠山義就や土岐成頼らは足利義政に降伏したわけではなく、京都から去っただけである。---


 経覚が波乱の生涯を閉じたのは、文明5年(1473)8月27日のことである。79歳であった。---

 

--- 9年9月22日、京都を発った畠山義就の軍勢は河内牧(現在の大阪府枚方市)に野営した。--- 畠山義就が京都を出る時に黙って見送ったのだから、義就が河内で暴れることは、幕府もある程度は覚悟していたはずだ。だが義就の勢いは予想以上のものであった。狼狽した畠山政長は足利義政に泣きつき、義政は朝廷に対し畠山義就治罰の綸旨をいただきたいと要請した。9月29日、東大寺・興福寺・金峰山・多武峰・高野山・根来寺・粉河寺の衆徒と伊勢国司北畠政郷(満雅の孫)に宛てて綸旨が発給された(「実隆公記」「兼顕卿記」「長興宿禰記」)。この時点では大内政弘ら西軍諸将は京都に駐留しているので、東軍は動かせない。このため義政は、朝廷の影響下にある寺社勢力と公家大名の軍事力を活用しようとしたのである。

 だが足利義政の対応は遅き失した。---


--- 畠山政長が河内に下向する義就を追撃しなかったのも、河内の防御に絶対の自信があったからであろう。


 ところが今回、義就が出馬するや否や、河内・大和の武士たちは一斉に決起し、義就の麾下に馳せ参じた。義就の名望が知れよう。

 畠山義就の魅力は、軍事的才幹もさることながら、守護家に生まれた御曹司でありながら、権威を物ともせず、実力主義を貫く点にある。「濫吹を表す輩(ルール無視の乱暴者)」(「建内記」)と公家・僧侶に恐れられた山名宗全でさえも、幕府政治を牛耳ることで富と権力を握ろうとしたという意味では保守的である。実際、自分が管領になるのではなく、娘婿の斯波義廉を管領に就けるという宗全の戦略は、斯波・細川・畠山の三家から管領を選ぶという幕府の秩序に則っていた。---

 これに比べて畠山義就は、そもそも幕府の命令に従うという発想がない。大乱が始まる前から、彼は幕府の大軍を向こうに回して河内で孤軍奮闘していたのである。--- 中央からの統制を嫌う地方武士たちが義就のもとに集まったのは、このためである。--- 畠山義就も戦国大名的な存在と言えよう。



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 畠山義就が、戦国大名の「はしり」ということなのでしょうか。

 

応仁の乱  呉座勇一著  中公新書 ⑦


第4章  応仁の乱と興福寺


 応仁3年(1469)、大乱は依然として続いていた。---

--- この時代には興福寺人事に幕府も関わっていた。---

 経覚は既に三度にわたって興福寺別当を務めている。--- 経覚は常に困難な時期に寺務を頼まれており、「困った時の経覚頼み」といった趣である。

 3月22日、南都伝奏の日野勝光の内意を受けて、九条家(経覚の実家)の家臣である信濃小路兼益が経覚のもとにやってきた。---

 既に何度か言及しているように、経覚は一貫して西軍よりである。西軍に属した越智家栄と親しく、東軍の成身院光宣と敵対しているからである。また、越前にある興福寺荘園を保全するため朝倉孝景と交渉したこともあり、その後も朝倉とのパイプを維持していた。---

 さしもの経覚もこの時期の別当就任には尻込みした。天下大乱の最中で、興福寺領はあってなきがごとき有り様である。収入が乏しい現状では、法会も満足にこなせそうにない。加えて経覚は高齢で、別当の激務に耐えられるか不安が残る。経覚は断った。

 ところが勝光は経覚の辞退を無視して、朝廷に働きかけた。結果、朝廷は3月30日に経覚を興福寺別当に任命してしまった(第1章冒頭で説明したように、興福寺は官寺なので、形式的には朝廷が別当の任免権を有する)。---


 寺務に就任した経覚がすぐさまに取り組んだ課題が、興福寺の経営再建であった。---

 興福寺は多くの荘園を持つが、大部分は代官に経営を任せきりで、現地の状況を把握していなかった。代官が荘園からの年貢をきちんと興福寺に進納してくれれば問題ないが、戦争による混乱もあって、年貢が入ってこなくなった。この状況を改善するには、代官を交替するとともに、しばしば現地に調査官を派遣して現地の様子、代官の仕事ぶりをチェックする必要がある。このような代官任せではない、荘園領主による直轄支配を「直務じきむ」という。だが、既得権を持つ代官たちは当然、抵抗する。この抵抗を排除して直務を実現するには、幕府の後ろ盾が不可欠だったのである。日野勝光の上申を受けた足利義政は「抵抗する者たちがいたら、幕府に報告せよ」と述べ、経覚の条件を飲んだ。---


 越前にある河口荘、そして坪江荘は、興福寺大乗院にとって重要な収入源であった。そのため尋尊・経覚は、越前の戦況については京都情勢に劣らぬ関心を寄せていた。---

--- 応仁元年(1467)5月には、朝倉孝景が斯波義廉に付き添って上洛している隙をついて、斯波義敏が越前に侵攻した。こうした混乱が続く中、経覚の隠居料である河口荘細呂宜郷下方からの年貢が滞るようになった。そこで経覚は応仁2年5月20日、木阿を使者として細呂宜郷に派遣することにし、その途次、京都で越前守護斯波義廉および朝倉孝景との交渉も行うよう命じた。

 木阿は経覚の同朋衆どうぼうしゅうである。同朋衆というと貴人の側に侍って楽しませる芸能者のイメージが強いが、身辺の世話をしているうちに側近的な役割を担う者が多い。木阿も茶の湯に通じていただけでなく、取次や使者としても活躍している。---

 だが、越前の状況は経覚が想定していた以上に深刻だった。5月22日、西忍が経覚のもとにやってきた。西忍は天竺人(インド人、ジャワ人、アラビア人など諸説ある)を父に持つ異色の人物である。--- 西忍の父は来日して京都の相国寺に住んでいたが、相国寺住職で義満の信任厚い禅僧・絶海中津の推薦により、時の将軍足利義満に仕えることになった。国際貿易に関する知識を買われたものと考えられる。彼は天竺ヒジリと名乗った。

 西忍は応永2年(1395)生誕で、経覚とは同い年である。幼名はムスルで、長じて天竺天次と名乗った。ヒジリは後を継いだ義持から疎まれ、家族ともども監禁された。ヒジリの死後、家族は許されたが、天次は京都を離れ、大和国に下って、立野に居住することになった。天次は母の出身地である河内国楠葉郷(現在の大阪府枚方市)の地名をとって、楠葉と改姓した。

 楠葉天次は当地の国民である戌亥氏の娘を娶った。永享元年(1429)、長男の元次が生まれた。同10年、足利義教の怒りを買った経覚が立野に移ってきた。経覚と天次は親交を深め、天次は経覚の弟子として出家した。西忍という法名も、経覚がつけたという。経覚は、不遇の日々を慰めてくれた西忍に深い信頼を寄せ、復権後も側近として重用したのである。---


--- 越前情勢は西軍不利に傾きつつあった。---



 応仁元年(1467)になって楠葉元次が後任を望み、経覚も支持した。--- この時期、元次は斯波義廉との交渉のために上洛するなど、老齢の父親に代わって経覚の手足となっていた。---


--- 荘園領主にとって有力武士との提携は諸刃の剣である。百姓を弾圧したり外部勢力の侵略を排除したりする上では有用だが、獅子身中の虫にもなりかねない。武士を積極的に利用しようとする経覚と、なるべく距離をとろうとする尋尊。両者の姿勢は好対照と言えるだろう。---



 尋尊への評価が低いのは、戦後歴史学が階級闘史観を基調としたことに一因がある。前著『戦争の日本近代史』でも論じたが、階級闘争史観とは、下の階級の者が上の階級の者に対して闘争を起こし、打倒することで歴史は進歩する、という歴史観のことである。この理論で応仁の乱を評価すると、尋尊は打倒される支配階級の側に回される。下剋上を嘆く尋尊は、武士や民衆の成長といった現実を受け入れられず愚痴をこぼすだけの無力な荘園領主の象徴にされてしまったのだ。

 だが「経覚私要鈔」を読めば分かるように、全ての荘園領主がぼやいていたわけではなく、経覚のように主体的に行動し、自らの力で戦乱を乗り切ろうとする者もいた。尋尊の事例を敷衍して、没落しつつある貴族や僧侶の退嬰性を語る研究傾向には問題がある。---


 経覚と尋尊は、尋尊の後継者への教育をめぐっても対立した。尋尊の後継者とは、次の門主になるべく大乗院門跡に入室した政覚のことである。

 政覚は、享徳2年(1453)、二条持通の息子として生まれた。--- 将軍義政が---二条家の若君を尋尊の弟子にしてはどうかと打診した。経覚に異論はなかったが、一つ問題があった。二条家は摂関家ではあるが、経覚の実家である九条家や、尋尊の実家である一条家と異なり、大乗院に子息を入室させたことが過去になかった。中世人は前例のないことを嫌う。

 そこで経覚の提案により、二条家の若君を将軍義政の猶子とすることにした。---

 12月8日、若君は京都から奈良興福寺に下り、大乗院に入室した。10歳である。若君は翌年には出家し、政覚と名乗った。

 以上の経緯から、経覚には、自分こそが政覚の後見人であるという自負があった。このため、政覚の指導をめぐって尋尊と対立したのである。---


 尋尊とて政覚の将来を考えていなかったわけではない。むしろ、次期門主として飾り立てるのに懸命だったと言える。--- 尋尊は政覚の晴れ舞台の演出にこだわった。美しい装束・輿を用意するのは当然として、多数のお供が付き従い、華々しい行列を組んだ。---

 これらに要する莫大な費用は、基本的に大乗院領の諸荘園にかける段銭によって賄われた。--- 尋尊が苦労に苦労を重ねて段銭を集めたのは、ひとえに政覚のためである。盛大な法会によって政覚の権威を高めようとしたのである。現代人の感覚では、民衆を苦しめる〝無駄な公共事業”にしか見えないが、身分秩序の維持強化こそが社会の安定、平和につながるという尋尊の考えも分からなくはない。

 応仁の乱で大和がほとんど戦場にならなかったのは、興福寺の権威が健在だったことと無関係ではない。筒井ら衆徒・国民は、小競り合いをすることはあっても、決して他国の軍勢を大和国に引き入れようとはしなかった。その理由の一端は、興福寺の法会や春日祭を無事に開催することにあったと考えられる。大げさに言えば、興福寺の存在が大和国を平和に保ったのである。---


 古市の迎福寺で生活する経覚の楽しみの一つに、古市氏が行う「林間」があった。--- 「林間」は基本的に風呂饗応と考えるべきである。--- 浴室は生け花、屏風、掛け軸、香炉などで飾り立てられた。--- 湯舟ならぬ水舟の上に、錦で作った富士山を浮かべたという。--- 現在の祭りでも御輿と並んで人形などの「造り物」が不可欠だが、中世においてはこれを「風流」または「造物」と呼んだ。---こうした風流は一回使ったら壊してしまい再利用はしないので、手間と費用はばかにならない。--- それはともかかく、応仁の乱のまっただ中に、このような豪壮な遊びが行われていた事実には驚かされる。経覚や古市胤栄にとって、京都での戦乱は対岸の火事だったのだろう。



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 応仁の乱の真っ最中に「林間」とは・・・・・・。


 京都での戦乱は対岸の火事だった・・・・・・。


 しかし、現在の私たちに、それを笑う資格があるでしょうか・・・・・。

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