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期日前投票。


 期日前投票に行ってきました。


 天気予報で、明日は大雨になると言っているので今日のうちに行ってこようと思い立ちました。


 行ってみて、びっくり!


 投票所は、長蛇の列が出来ていました。

 こんな光景を見たのは初めてです。


 投票に対する熱がいまいち盛り上がらないという記事もあり、地盤が固い自民党に票が集まってしまって、安倍晋三がまた、大きな勘違いをするのではないかと心配しているのですが、この長蛇の列は無党派層の関心の高さをあらわしているのかもと嬉しくなったりしました。

 が、家に帰って調べてみたら、期日前投票が出来るのは、私が行った場所だけだったことが分かりました。


 うーーーん、どういう傾向なのか。開票の結果を見るまでは何とも言えません。


 安倍晋三が首相を続けることだけは、何としてでも阻止したい。

 日本の将来のためです。祈ることにします。





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昆虫?


 また、不思議な「顔」シリーズです。

 昆虫に見えませんか?

 何かを探す眼と、揃えた両足。


 昆虫?.jpg


 花です。

 しかし、どう見ても「昆虫」に見えます。

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ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力     箒木蓬生著 朝日新聞出版  ⑤


第8章  シェイクスピアと紫式部


第9章  教育とネガティブ・ケイパビリティ


 教育は一見すると、分かっている事柄を、一方的に伝授すればすむことのように思えます。--- そうした幼稚園から大学に至るまでの教育に共通しているのは、問題の設定とそれに対する解答に尽きます。

 その教育が目ざしているのは、本書の冒頭で述べたポジティブ・ケイパビリティの養成です。平たい言い方をすれば、問題解決のための教育です。しかも、問題解決に時間を費やしては、賞讃されません。なるべくなら電光石火の解決が推賞されます。この「早く早く」は学校だけでなく、家庭にも浸透しています。わが子に対して、「早く早く」を母親がひと言も口にしない日はないのではないでしょうか。

 「早く早く」を耳にするたび私は、90歳の高齢者に、息子と娘が「早く早く」と急かす光景が重なります。足元もおぼつかない高齢者に、「早く早く」と言うのは、「早く死ね」というのと同じだからです。ここに迅速さの落とし穴があります。---


 

 江戸時代、武士の子弟が小さい頃から、返り点をつけただけの漢籍を内容がよく分からないまま素読させられたのは、現在の教育とは正反対の極にあります。

 子供は何のために素読をするのか、まず分かりません。ただ声を出すだけで、意味も分からないままです。しかし何十回と繰り返していくうちに、漢文独特の抑揚が身についてきます。漢字の並びからぼんやり意味が摑めるようになります。

 この教育には、教える側も教えられる側にも、分からないことへのいらだちがありません。分からなくてもいいのです。子供は、言われるがままに何回も音読を繰り返します。つっかえつっかえ読んでいたものが、いつの間にかすらすらと読めるようになります。

 一方の教える側も、手取り足取りは教えません。ゆっくり構えています。その漢籍が自分にまだ理解できないような、深い内容を含んでいるのかもしれません。教える内容を、教える者自身が充分に分かっていない可能性もあります。それでも教える素材に敬愛の念をいだいているのは確かです。子供に音読させながら、自分もその文章の背後にある真実を見極めようとしているのかもしれません。

 ここには、そもそも土俵としての問題設定がありません。ひたすら音読して学ぶだけです。さらに言えば、学びの先にあるものも、判然としません。簡単に言えば、素養でしょうか。たしなみです。現代風な表現では教養です。

 素養や教養、あるいはたしなみは、問題に対して早急に解答を出すことではありません。むしろ反対かもしれません。解決できない問題があっても、じっくり耐えて、熟慮するのが教養でしょう。

 そうなると、今日の学校での教育が教育の本質から逸脱しているのが分かります。---


 本来、教育というのはそれが本当のあり方ではないでしょうか。

 ところが、今日の教育は画一的です。横並びで1年1年を足並揃えて、上級学年に上がっていく体制になっています。

 その結果、採用されたのが到達目標とその達成度です。その到達目標も、個々人に合った目標ではありません。あくまで1年毎の建前としての到達目標です。私は学校教育が到達目標を設定したときから、学校が変質したような気がします。---

 こうした教育の現場に働いているのは、教える側の思惑です。もっと端的に言えば「欲望」です。教える側が、一定の物差しを用いて教え、生徒を導くのです。物差しが基準ですから、そこから逸脱したさまざまな事柄は、切り捨てられます。何よりも、教える側が、問題を狭く設定してしまっています。そのほうが「解答」を手早く教えられるからです。

 しかしここには、何かが決定的に抜け落ちています。世の中には、そう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が、伝達されていないのです。前述したように、むしろ人が生きていくうえでは、解決できる問題よりも解決できない問題のほうが、何倍も多いのです。

 そこでは教える側も、教えられる側も視野狭窄に陥っています。無限の可能性を秘めているはずの教育が、ちっぽけなものになっていきます。もう素養とか、たしなみでもなくなってしまいます。---


 「 --- ことによると、学校現場は、すぐに解決できない問題だらけかもしれません。したがって、教育者には問題解決能力があること以上に、性急に問題を解決してしまわない能力、すなわち「ネガティブ・ケイパビリティ」があるかどうかが重要になってきます。

 そして、私たちだけでなく子供たちにも、問題解決能力(ポジティブ・ケイパビリティ)だけでなく、この「どうしても解決しないときにも、持ちこたえていくことができる能力(ネガティブ・ケイパビリティ)」を培ってやる、こんな視点も重要かもしれません。--- 」




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 この後の第10章は、「寛容とネガティブ・ケイパビリティ」というタイトルで「寛容」というテーマに添って、エラスムス、ルター、ラブレー、モンテーニュの考え方を紹介し、その続きに、メルケル首相、トランプ大統領、第二次世界大戦時の日本の為政者たちの「精神性」を考察しています。

 最後に、「おわりに───再び共感について」と題した章があります。涙なしには読めない少年の手紙を紹介していますが、この手紙の内容は、この本を読む人のおたのしみとしておきます。 


 第9章の最後、「 --- ことによると、・・・・・・・・・・・・・・・・  」の部分は、スクールカウンセラーをしている臨床心理士からの手紙の引用です。

 教育現場の息苦しさは、ここに書かれている通り、「到達度」「達成度」を目標としたときから始まったのだと、私も思います。

 この息苦しさから子どもたちを解放してあげないことには、日本の将来は明るいものにはならないと思います。


※ 蛇足ですが、第8章の「シェイクスピアと紫式部」を読んで、初めて、「帚木蓬生」というペンネームの由来に気づきました。著者は、紫式部のファンなのですね。

 自慢話になりますが、私は「源氏物語」を終わりまで読みました。(恐らく、専門家でもない人間で、最後まで読み通した人間は、そんなには多くないのではないかと思います。)

 ですから、「源氏物語」が、ドンファンの単なる女性遍歴物語ではないことを、若い頃から知っていました。

 年老いた光源氏は、年若い妻「女三の宮」の密通を知ります。自身が、父の若い妃藤壺と密通したときの父の想いを知ることになります。そのとき、光源氏が何を想ったか。

 この第8章を読んで、「源氏物語」の奥深さを改めて考えました。読み継がれる訳が分かります。






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ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力        箒木蓬生著 朝日新聞出版  ④


第7章  創造行為とネガティブ・ケイパビリティ


--- 創造行為の内実を精神医学から探る方法には、大別して二つあります。そのひとつがこれまで述べてきたような、創造性と精神障害の関連を調べるやり方です。もうひとつは、心理学的、精神病理的に、創造性そのものを解析する手法です。---


 衝撃的な論文は、米国のノーベル賞作家の7割がアルコール依存症だったという報告です。槍玉にあげられたのは、シンクレア・ルイス、ユージン・オニイル、パール・バック、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・スタインベック、ソール・ベロウなどです。この報告書は、作家たちが創造行為の賦活物としてアルコールの力を借りたのではないかと解釈していました。

 その他、統合失調症の性向と創造性を論じた研究もあります。概して統合失調症の傾向を持つ人は、新しいものの見方や、原始的な思考様式を持っていて、これが創造性に結びつくというのです。

 創造行為の苗床として、ストレスの重要性を強調する論文もあります。子供時代の不幸、例えば孤独、不安、生存への脅え、葛藤体験が、創造行為に対する持続的な動機づけを生むのです。

 美術分野での創造行為を解析した研究もあります。画家はまず、未知の表象に何がしかの構造を見ます。次にそれを緊密化しながら、白昼夢のように知覚し、最後に形象として表現するのです。この過程は、①問題の措定、②抱卵期間、③洞察、④伝達、の4段階を踏むのだと、この研究者は考えています。

 

 創造行為をする芸術家の認知様式に注目した論文もあります。その特徴的な能力とは、対立する曖昧な情報を統合する力、言い換えると、二つ以上の正反対の思想や概念、表象を同時に知覚して使う能力です。

 別の研究では、創造性の源になる認知の形式を六つの次元に分けて考察しています。それは、①知性、②知識、③能力をどこに集中させるかという知識様式、④性格、⑤動機づけ、⑥環境、の六つです。

 このうち④の性格特徴として指摘されているのが、いみじくも「曖昧な状況に耐え」、「切れ切れのものが均衡をとり一体となるのを待ち受ける能力」です。

 どうでしょうか。200年前にキーツが発見したネガティブ・ケイパビリティを彷彿させませんか。---

 詩的言語が生まれる具体的な状況として、キーツは次のように言います。「私が部屋の中で他の人々と一緒にいるとき、自分の脳が創り出すものにはとらわれず、私自身を私に帰さずにいます。すると同席しているひとりひとりのアイデンティティが私に迫って来て、ほんの一瞬、自分が無になるのです」。自分が無になったところから、詩的言語が発せられると、キーツは白状しています。

 本章の冒頭で、多くの芸術家たちがアルコールに溺れ、また精神の不調をきたしたのを見ました。これは、創造行為に伴うネガティブ・ケイパビリティの欠如だったとも解されるのです。---


 医師になる道を歩んでいたキーツは、途中で詩人になる道を選びました。キーツにとって、医学は詩作と対極の位置にあると思えたからでしょう。詩人が、自らのアイデンティティを消し去って、深く対象の中にはいり込むのに対し、医学は既に確固たるアイデンティティを獲得しており、明らかな目的と手段で患者に相対するからです。

 ところが医学でも、精神医学は特殊な位置にあります。簡単に言えば、さしたるアイデンティティも、確実な目的も治療法も手にしているとは思えません。詩人と精神科医は、違いよりも似た側面が多いのです。

 作家は物語の主人公を、自分の頭で創り出しはするものの、100%責任をもってその主人公を動かしていくかと言えば、そうではないのです。主人公が動いていくので、作家はそれを追うだけの存在になります。だからこそ、前に述べたように遠い先までは見通せないのです。

 精神科の治療も、これと類似しています。患者さんは千差万別であって、誰ひとりとして同一人物はいません。同じ診断名であっても、人となりと置かれた環境は違っています。--- 悪く言えば五里霧中、少しましな言い方をすれば、二人で月の光の下、岸の見えない湖をボートに乗って漕ぎ進めていくようなものです。オールを漕いでいるのは患者さんの場合もあるでしょうし、治療者が患者さんの指示でオールを漕いでいる場合もあるでしょう。

 作家と精神科医という二つの仕事が、私の中で矛盾せず、ひとつに溶け合っている理由は、以上の事情があるからです。---




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 精神科医の仕事、精神科の医療、、、、、 読めば読むほど難しいことが分かって、苦しくなります。


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ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力     箒木蓬生著 朝日新聞出版  ③


第3章  分かりたがる脳


--- 分かりやすくするための最大の便利帳が、マニュアルでしょう。

 マニュアルはたいていの接客業で作成されています。--- パソコンの詳しい説明と、心がこもっていない棒読みの応待は瓜二つと言っていいでしょう。マニュアルによって、脳が悩まなくてもすんだ結果が、本来のサービス精神を忘れたやりとりになってしまったのです。

 地震や火事のような緊急事態に備えても、マニュアルがあれば、もう脳は悩まなくてもすみます。すべてが分かったものとして、一大事のときも失態なく切り抜けられます。

 ところがマニュアルにない事態が起こったとき、マニュアルに慣れ切った脳は、思考停止に陥ります。まるでプログラムされていない事象が生じたときのコンピュータのように、作動停止してしまいます。

 ネガティブ・ケイパビリティを獲得するためには、記憶も理解も欲望も妨げになると、ビオンが言った背景には、精神分析学会におけるこうしたマニュアル第一主義に対する懸念があったのだと思ます。

 前章でも触れたように、精神分析学には蓄積された膨大な理論があります。こういう症状の裏には、こういった成育史が抽出できる。こういう事態は、これこれの治療段階で良く生じ、これこれの理由によるものだ、といった具合です。

 これらの定理を頭に入れておけば、目の前に生じた事態も、患者の症状も、迷わずに理解できます。理論をあてはめればいいだけの話です。本人は一向に悩む必要はありません。一種のマニュアル化です。

 これをビオンは嫌ったのです。これでは、生の患者と生の治療者との一期一会の出会い、交わされる言葉の新鮮さと重みが、台無しになってしまうと危惧したのです。---


 ブランショは、ソルボンヌで学んだあと医学部を出た神経精神科医で、パリのサンタンヌ病院で働いたこともありました。活動の幅は広く、小説家、文芸評論家、哲学者として著作を残し、95歳の高齢で死去しました。

 そのブランショの言葉は次のとおりです。

 ──── La reponce est le malheur de la question.

 ( 答えは質問の不幸である )

 つまりビオンに言わせると、ブランショの指摘のとおり、答えは好奇心にとって不幸であり、病気なのです。

 ──── The answer is the misfortune or disease of curiosity ─── it kills it.

 ( 答えは好奇心を殺す ) 

 ビオンはそうとまで言い切ります。---


--- ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐え抜く力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力を生み出すのです。



第4章  ネガティブ・ケイパビリティと医療


 このように、人間の営みに極めて重要なネガティブ・ケイパビリティが、教育の分野で、一顧だにされてこなかったのは、実に不思議です。

 わが国に存在する、あるいはかつて存在した教科書のどこを探しても、ネガティブ・ケイパビリティという言葉は出てこないでしょう。

 これはとりもなおさず、教育とは、問題を早急に解決する能力の開発だと信じられ、実行されてきた証拠でもあります。---




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 この後、


 第5章  身の上相談とネガティブ・ケイパビリティ

 第6章  希望する脳と伝統治療師


 と話は続き、第6章の最後に、マザー・テレサの言葉を紹介しています。

 ──── 誰に対しても、治療するだけというのは大変な間違いです。私たちは、心のすべてを差し出さなくてはなりません。



 ( 答えは質問の不幸である )・・・・・ ブランショのこの言葉は、深過ぎます。






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ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力     箒木蓬生著 朝日新聞出版  ②


第1章  キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」への旅


--- キーツの手本はあくまでもシェイクスピアであり、読みふける間に、シェイクスピアが持つ「無感覚の感覚(the feel of not feel)」に気がつきます。対象に同一化して、作者がそこに介在していない境地をさします。ここにキーツはシェイクスピアの情感的、霊的な偉大さを内在化させたのです。

 キーツにとって、真の才能とは、不愉快なものでもすべて霧消させることのできる、想像力の持つ強さです。シェイクスピアの登場人物がそうで、その行動が読者の心の中で現実性を増すのです。

 この「感じないことを感じる」ことや、「受動的能力」の概念が、1817年12月のジョージとトムの弟2人に宛てた手紙の中に登場する「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)の概念に結実します。---


第2章  精神科医ビオンの再発見


 キーツが短い生涯と引き換えるように残したネガティブ・ケイパビリティの概念は、長い間闇に葬られたままでした。それもそのはず、キーツがその言葉を記述したのは、わずか1回、それも弟たちに残した手紙の中だったからです。---

 だからこそ、キーツがネガティブ・ケイパビリティの用語を書き記した170年後、同じく英国のウィルフレッド・R・ビオンによって新たに言及されたのは、私には奇跡にしか思えないのです。ビオンがいなければ、200年後の今日でも、ネガティブ・ケイパビリティは闇に埋もれたままになっていたでしょう。

 ビオンは文学者ではありません。精神科医であり、精神分析医でした。しかもビオンがネガティブ・ケイパビリティを口にしたとき、既に英国精神分析学会の大御所でしたから、再評価は誰も無視できませんでした。これがキーツのネガティブ・ケイパビリティにとって第二の奇跡でした。---

 ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ、治療者と患者の出会いを支え続けることによって、人と人との素朴な、生身の交流が生じるのだとビオンは説きました。精神分析に限らず、人と人の出会いによって悩みを軽減していく精神療法の場において、ネガティブ・ケイパビリティは必須の要素だと、ビオンは考えたのです。

 これによって、ネガティブ・ケイパビリティの有益さは、文学・芸術の領域を超えて、精神医学の分野にも拡大されました。人が人を治療する場では、ネガティブ・ケイパビリティは決して無視できない貴重な概念と化したのです。これを、ネガティブ・ケイパビリティにとっての第三の奇跡と言っていいでしょう。---


--- 1939年第二次世界大戦勃発、ビオンの二度目の従軍は、精神科医としてのチェスターにあるデイヴィッド・ヒューム陸軍病院勤務です。第二次大戦で、将兵がかかる最大の病気は精神疾患でした。これが精神科医の重要性をいやが上にも高める契機になったのです。大戦前の陸軍病院には、わずか2人の精神科医と5、6人の精神科研修を受けた医師がいるのみでした。これが大戦末になると、精神科医は300人以上に増員されていました。

 今や精神科医の任務は、将兵が精神疾患にかからないようにする予防、そして罹患者の治療、加えてその後のリハビリテーションと、拡大しました。この流れが第二次大戦後の英国精神医学を決定づけたのです。---


 1960年代の終わり頃から、メラニー・クラインに興味を持った米国ロサンゼルスの精神科医たちが、主だったクライン派の分析医たちを招待し始めます。第三派の招待がビオンに届いたとき、招待者たちは、できれば一生ロサンゼルスに住んで欲しいとまで提案してきました。

 メラニー・クラインが1960年に死去したあと、クライン派の主として振る舞い続けるのを嫌っていたビオンは、要請を喜びます。1968年1月25日にロンドンを発ちます。--- 米国はこの頃ベトナム戦争で騒がしく、学生運動も盛んで、人種問題にも火がついていました。---

--- その過程で生まれたのが1970年刊の『注意と解釈』でした。その第13章の「達成の前奏もしくは代用」の冒頭で、ビオンはいみじくもキーツのネガティブ・ケイパビリティを初めて引用しました。


 この章でビオンが論じているのは、精神分析の実際がどう進められるべきかです。

 鍵概念としてビオンが選んだのは<達成の言語>でした。分析で交わされる言語は、行動の前奏や前兆としてではなく、行動の代用物の水準にまで高められなければならないと警告したのです。

 つまり分析で発せられる言葉は、手で殴ったり、足で蹴ったりする行為と同じくらいの、行動としての達成度を持つ必要があると説きます。

 精神分析では、分析者と患者が対峙し、言葉が交わされます。そのとき、双方それぞれに、〝ものの見方”というものがあります。ビオンはこの〝ものの見方”を忌避します。あまりにも固定した一方的な視点だからです。その代わりに、〝頂点”という用語を選びました。山の頂を想像して下さい。展望が開けています。〝ものの見方”よりはもっと広い視野を持ち、焦点もあちこちに浮遊できます。

 お互いにこの〝頂点”を持った人間と人間が言葉を交わすのが精神分析です。そこに起きる現象、さまざまな感情や様々の表現のどのひとかけらでも見逃してはなりません。それでなければ、達成の言語とは言えなくなります。

 このとき分析者が保持していなければならないのが、キーツのネガティブ・ケイパビリティだと言い切ったのです。

 キーツがネガティブ・ケイパビリティをも持ち出したのは、詩人や作家が下界に対して有すべき能力としてでした。ビオンは同じく、精神分析医も、患者との間で起こる現象、言葉に対して、同じ能力が要請されると主張したのです。

 つまり、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度です。

 そしてこの章の末尾で、ビオンは衝撃的な文章を刻みつけます。ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉ではいい表わしようのない、非存在の存在です。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着けるのだと結論づけます。

 これは精神分析に対する根源的な問いかけでした。学問というのは、記憶と理解が基本をなし、こうしたいという欲望もその中に詰まっています。それを捨ててこそ、浮かばれるというのですから、ある人々にとっては衝撃だったでしょう。---


 記憶も理解も欲望もなくといったビオンの指摘は、実に大切なところを突いています。なまじっかの知識を持ち、ある定理を頭にしまい込んで、物事を見ても、見えるのはその範囲内のことのみで、それ以外に広がりません。

 患者が発する言葉、ちょっとした振舞いにしても、精神分析学の記憶や理解があると、それは理論的にはこれこれにあてはまると簡単に片づけ、ありきたりの陳腐な解釈になってしまいます。

 ビオンは、解釈とはそういうものではない、もう少し開放的で新鮮味に富み、新しい境地に踏み出すような力を有するべきだと説いたのです。

 こうして、キーツが生涯かけて発見したネガティブ・ケイパビリティの概念は、170年後、ビオンによって見事に甦りました。しかも活躍の場も一気に拡大したのです。---

 ビオンという単に医師、精神分析医だけにとどまらず、歴史や哲学、文学を修めた教養人であったからこそ、キーツの吐いた言葉に目をとめ、精神医学の分野で蘇生させたのだと思われます。

 私はここに何か眼に見えない、人智を超えた力が働いているように感じるのです。誤解を恐れずに言えば、神の手の作用を感じてしまいます。---




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 「 --- 若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて、目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく、精神分析学の知識で患者を診、理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。--- 」

 この指摘は、精神分析学の分野だけの話ではないように思えます。

 情報が溢れかえった今、私たちは検索して分かったような気になり、物事を単純化して満足しているのではないでしょうか。日頃の私たちの行動を、厳しく指摘しているように思います。




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ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力        箒木蓬生著 朝日新聞出版  ①


 はじめに───ネガティブ・ケイパビリティとの出会い



 ネガティブ・ケイパビリティ( negative capability 負の能力もしくは陰性能力 )とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力」をさします。

 あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。---


 精神科医になって5年が過ぎ、6年目にはいった頃でした。この時期は、精神科医として多少の自信をつける半面、自分の未熟さにまだ道遠しと思う、相反する気持ちに揺れ動く頃です。要するに、精神科医の仕事そのものと、その根底にある精神医学の限界に気づき始めた時期だったのです。---

 そんな折、目に飛び込んできたのが、「共感に向けて。不思議さの活用」という表題を持つ論文でした。--- 不思議に思って読み進めていく先に、「ネガティブ・ケイパビリティ」の記述があったのです。--- 能力と言えば、通常は何かを成し遂げる能力を意味しています。しかしここでは、何かを処理して問題解決をする能力ではなく、そういうことをしない能力が推賞されているのです。しかもその能力を、かのシェイクスピアが持っていたというのですから、聞き捨てなりません。

 さらに読んでいくと、キーツが詩人について語った部分も引用されていました。---

 医学論文はこれまでも多数読んでいましたし、その後も現在まで数えきれないほど読んでいます。しかし、この論文ほど心揺さぶられた論考は、古稀に至った今日までありません。このときの衝撃をもって学んだネガティブ・ケイパビリティという言葉が、その後もずっと私を支え続けています。---

<問題>を性急に措定せず、生半可な意味づけや知識でもって、未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず、宙ぶらりんの状態をもちこたえるのがネガティブ・ケイパビリティだとしても、実践するのは容易ではありません。

 なぜならヒトの脳には、後述するように、「分かろう」とする生物としての方向性が備わっているからです。さまざまな社会的状況や自然現象、病気や苦悩に、私たちがいろいろな意味づけをして「理解」し、「分かった」つもりになろうとするのも、そうした脳の傾向が下地になっています。--- 「分かる」ための究極の形がマニュアル化です。マニュアルがあれば、その場に展開する事象は「分かった」ものとして片づけられ、対処法も定まります。ヒトの脳が悩まなくてもすむように、マニュアルは考案されていると言えます。


 ところがあとで詳しく述べるように、ここには大きな落とし穴があります。「分かった」つもりの理解が、ごく低い次元にとどまってしまい、より高い次元まで発展しないのです。まして理解が誤っていれば、悲劇はさらに深刻になります。

 私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。---

 ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。



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「 ---<問題>を性急に措定・・・、生半可な意味づけや知識・・・、未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせ・・・、さまざまな社会的状況や自然現象、病気や苦悩に、私たちがいろいろな意味づけをして「理解」し、「分かった」つもりになろうとする・・・、「分かる」ための究極の形がマニュアル化です。--- ヒトの脳が悩まなくてもすむように、マニュアルは考案されていると言えます。」
 私が前の「共依存」で紹介した記事は、まさに、「考案されたマニュアル」でした。
 「ひとつでも当てはまれば『共依存』の可能性」があると提示された7つの項目は、その典型の「マニュアル」です。
 
 この本が紹介している「ネガティブ・ケイパビリティ」は、前の記事と相反する考え方を教えてくれています。
 
 因みに、「ネガティブ・ケイパビリティ negative capability」の capability は、cap(…を仕上げる)、able(能力がある)という意味を持つようです。
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 キーツはシェイクスピアにこの能力が備わっていたと言いました。確かにそうでしょう。ネガティブ・ケイパビリティがあったからこそ、オセロで嫉妬の、マクベスで野心の、リア王で忘恩の、そしてハムレットで自己疑惑の、それぞれ深い情念の炎を描き出せたのです。
 私たちが、いつも念頭に置いて、必死で追い求めているのは、言うなればポジティブ・ケイパビリティ(positive capability)です。しかしこの能力では、えてして表層の「問題」のみをとらえて、深層にある本当の問題は浮上せず、取り逃がしてしまいます。いえ、それどころか、そうした状況には、はじめから近づかないでしょう。
 なるほど私たちにとって、わけの分からないことや、手の下しようのない状況は、不快です。早々に解答を捻り出すか、幕をおろしたくなります。
 しかし私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか。
 だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティが重要になってくるのです。---
 本書では、これまで正面切って論じられてこなかったこの秘められた力を、さまざまな角度から論じています。---
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 と、始まりました。
 『共依存』の記事に不安を感じた後でしたので、興味深く読みました。
 この本も長いので、先ずは、ここで一旦切ります。
 

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雑感 ・・・ 「共依存」について。


 新聞に、「共依存夫婦」という記事が載っていました。


 『気づかないうちにパートナーと「支配と服従」の関係に陥っている。』

 そんな「共依存夫婦」が目立ってきたという記事でした。


 「共依存」という言葉は、最近になって知りました。

 夫のDVから逃れて実家に戻り、ただいま離婚調停中という知人の苦境を知ったときでした。

 妻に暴力をふるう夫は、妻と「共依存」の関係にあるのだということを、そのときに専門家から教えてもらいました。


 そういう過程で聞いた「共依存」という言葉でしたので、病的な性格の人間に見られる「症状」なのだと考えていました。

 

 ところが、今回の新聞の記事を読んで、少し不安になりました。

 不安になった訳は、以下です。


 下に書きだした項目の、ひとつでも当てはまれば「共依存」の可能性があるという記事なのです。

 ・ 理不尽だと思っても相手が言うことは許してしまう

 ・ 相手の要求を断るのが怖い

 ・ 無意識に相手の機嫌を取る癖がついている

 ・ 自分の気持ちより相手の気分が自分の行動基準になっている。

 ・ 相手の機嫌を気にして交友関係がおろそかになりがち

 ・ 相手に意見を言うのに大きなエネルギーが必要

 ・ 予定より遅れて帰宅するのが難しい


 私は、上に書き出した項目のかなりの部分が当てはまります。

 夫の家族と、狭い二世帯住宅で暮らしています。

 2人が結婚しなければ一緒に暮らすことのなかった他人同士が、波風を立てないように暮らすには、上に書き出したような項目は必要不可欠な「生活の知恵」です。

 と考える私は、長い間、そのようにして暮らして来ました。

 そう考えるのは私だけではなく、夫も、夫の家族も同じように考えてきたのではないでしょうか。所謂、「お互いさま」という考え方です。

 これは、「共依存」という言葉で表される状態だったのでしょうか。


 世間では、夫を指すのに「主人」という言葉を使う人が非常に多い。

 私は、「主人」という言葉は、「主人」と「使用人」というような「支配」と「服従」の関係にある間で使われる言葉だと考えますので、使ったことがありません。

 「夫」という、立場を表す言葉しか使ったことがありません。

 この、「主人」という言葉を使う人たちは、「共依存」関係にあることになりはしませんか。

 妻を「家内」(家の内)と呼ぶ人たちは、「共依存」関係をつくっているのではないでしょうか。


 この記事に従うと、「共依存」の状態にある夫婦は、非常に多いのではないかと不安になります。

 これは、社会学のテーマになりそう・・・・・と考えていたら、この論とは相反する考え方を展開する本を知りました。


 どんな考え方かは、次の記事で。



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ウーパールーパー?


 見て下さい。

 まるで、ウーパールーパー?


 ウーパールーパー。.jpg


 マヨネーズの容器の、底の面です。

 使い切って、捨てようとして見たら、顔に見えるではありませんか。

 水の中を泳ぐウーパールーパーに見えませんか?




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上野公園。


 久し振りに、上野へ行ってきました。


 で、公園内で見つけたものがありました。


 これです。


 上野公園内のスタバ。.jpg


 これって、以前からありましたっけ。



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