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下り坂をそろそろと下る  平田オリザ  講談社現代新書 

序章  下り坂をそろそろと下る

--- 私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ここに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がっきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。

 一つは、日本は、もはや工業立国ではないということ。

 もう一つは、もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。

 そして最後の一つは、日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないということ。

--- 私たちはこれから、「成熟」と呼べば聞こえはいいけれど、成長の止まった、長く緩やかな衰退の時間に耐えなければなりません。その痛みに耐えきれずに、これまで多くの国が、金融操作・投機という麻薬に手を出し、その結果、様々な形のバブルの崩壊を繰り返してきました。この過ちも、もう繰り返してはならない。

 人口は少しずつ減り、モノは余っています。大きな成長は望むべくもない。逆に、成長をしないということを前提にしてあらゆる政策を見直すならば、様々なことが変わっていくでしょう。もちろん原発は要りませんし、大きな開発も必要ない。オリンピックも本当に必要なのかどうか。---

 今年は、敗戦後70年の年です。戦後100年まで(それを戦後として迎えることが出来るのなら)、これからの30年間は、日本と日本人が、この小さな島国(厳密に言えば中途半端な大きさを持ってしまった極東の島国)が、どうやって国際社会を生き延びていけるかを冷静に、政治や経済の問題と同等に、私たちの心の中、金子光晴が「精神のうぶすな」と呼んだ「マインドの問題」と向き合うことだと思います。「寂しさが銃をかつがせる」ことが再び起こらないように、私たちは、自分の心根をきちんと見つめる厳しさを持たなければなりません。寂しさに耐えることが、私たちの未来を拓きます。---

 

第1章  小さな島の挑戦 ─── 瀬戸内・小豆島 

--- 橋で本州とつながってしまった四国という大きな島は、これまであまり必要とされてこなかった「他者とのコミュニケーション能力」、もう少し詳しく言うなら、異なる価値観や文化的な背景を持った人にきちんと自己を主張し、また他者の多様性をも理解する能力(=対話力)を必要とするようになった。ここに、他府県に先駆けて、四国各県でコミュニケーション教育がより強く求められるようになった背景がある。

第2章  コウノトリの郷 ─── 但馬・豊岡 

--- お酒の好きな中貝市長は酔うとよく「ここでいいのだ。豊岡でいいのだ」と口走る。いや、酔っていないときも口にすることはあるのだが、酒が入るとその頻度が増す。

 この「ここでいいのだ」は諦めのつぶやきではない。まさに『天才バカボン』のバカボンパパが「これでいいいのだ」と力強く宣言するように、これは自己肯定の宣言だ。---

第3章  学びの広場を創る ─── 讃岐・善通寺 

--- そもそも学長が「これからはコミュニケーション教育が大事だ」と考え、ネットで検索をして、私が大阪大学で行っている授業に関心を持ち、わざわざ自ら見学に来たことから話が始まった。

 アメリカの大学は、そのほとんどがリベラルアーツ(教養教育)を基軸としており、そこには必ずと言っていいほど演劇学科が設置されている。この演劇学科は、もちろん専攻生向けの授業も出すが、それ以外に、他学部他学科向けにコミュニケーションに関わるような授業も出している。副専攻で演劇をとっている学生も多くいて、医者や看護師やカウンセラーなど、対人の職業に就く者は、それを一つのキャリアとさえしている。---

 たとえば、四国学院大学では、幼保(幼稚園の先生や、保母さん保父さん)や教員養成課程にも、少しずつ演劇教育を取り入れることになった。--- 一つの幼稚園に一人でも、ダンスの振り付けが出来たり、照明や音響にも詳しい先生がいれば、発表会のクオリティは確実に上がる。--- 保護者の感動を倍加することができる。現場を抱える園長先生たちなら、そういったことは直感で理解できるというわけだ。---

 私は、四国学院大学の演劇コースに通う学生たちに、何よりも誇りと自信を持ってもらいたいと願い、カリキュラムを編成してきた。それは、先の豊岡市の章で書いたのと同様に「ここでいいのだ。私たちは善通寺で世界の演劇を学ぶのだ」という誇りである。---

 文化資本、とりわけセンスや立ち居振る舞いなどの身体的文化資本は、おおよそ20歳くらいまでに決定されると言われている。分かりやすい例は「味覚」だろう。味覚は、幼児期から12歳くらいまで(最も早い説では3歳までに)に形成されると言われている。--- 音感なども、比較的、早い段階で形成される能力だろう。言語感覚などは、もう少し長期で形成されるだろうが、子どもの頃からの読書体験や言語環境が、子どもの成長に大きな影響を与えることは想像に難くない。

 この身体的文化資本を育てていくには、本物に触れさせる以外に方法はないと考えられている。---

 しかし、そうだとしたら、現在の日本においては、東京の子どもたちは圧倒的に有利ではないか。東京、首都圏の子どもたちは、本物の(世界水準の)芸術・文化に触れる機会が圧倒的に多い。

 もう一点、この文化資本の格差は、貧困の問題と密接に結びついている。---

 教育の格差と貧困の問題が直結していることは、ここ数年、多くの人によって語られ、社会問題化してきた。しかし、この文化資本の格差の方が、今後、より大きな問題になるだろうと私は予測している。まず第一に、この文化資本の格差は発見されにくい。--- 親が劇場や美術館やコンサートに行く習慣がなければ、子どもだけでそこに足を運ぶことはあり得ない。そして、その格差は、社会で共有されにくい。---

--- この文化資本の格差が、大学入試や就職に直結する時代がやってきている。放置しておけば、この格差は負の連鎖となって、日本の社会に大きな断絶をもたらすだろう。

 ここまでのことを地方都市の講演会で話すと、「いや、しかし地方には豊かな自然が残っていて、そこで育まれる感性もあるのではないか?」といった反論が出てくる。--- しかし、現実はどうだろう。---

 小豆島の塩田町長はよく、「小豆島の子どもたちは、意外と自然に触れていない」と嘆く。小学校が統廃合され、多くの子どもがスクールバスで学校に通うようになった。通学路は、寄り道、買い食い、待ち伏せなど、子どもたちが様々な社会性を身につける重要なツールなのだが、それが一挙に奪われてしまった。家に帰っても、少子化で近所に子どもがいない。人々は自動車で移動するような社会システムを作ってしまったために、子どもは家でゲームをするしかなくなる。だから地方都市ほど、子どもが参加できる文化活動を公共機関が用意してあげないと、貧困家庭でなくても、よほど意識の高い層以外は、子どもを家に閉じ込めてしまうことになる。---

--- 現実を受け入れられないのは大人の勝手だが、迷惑を被るのは子どもたちの方だ。地方ほど、少しずつでも教育システムを変革し、文化政策を手厚くして、本物の芸術に触れ、そこから感性を豊かにし、さらにそれを表現へと結びつける施策が必要になる。---

第4章  復興への道 ─── 東北・女川、双葉 

--- おそらく竹浦の復興の秘密の一つは、この「番屋」にあるのではないかと感じた。かつて漁村には、人々が集う番屋と呼ばれるコミュニティースペースが必ずあった。そこは、漁師たちの待機場所、早朝の漁に出るための仮眠、宿泊の施設でもあり、また天候の悪い日には、皆で集まって漁具を修理したり破れた網を繕ったりする作業場でもあった。

 西日本では、これ以外に若衆宿という別組織もあり、一定年齢になると村の若者はこの組織に入り、文字通り寝食を共にした。--- こういった漁に不可欠なコミュニケーション能力を身体化していく仕組みを、かつての共同体は持っていた。---

--- 震災から50日ほど経ったゴールデンウィークのただ中に、劇作家の別役実氏と『焼け跡と不条理』と題した対談をする機会に恵まれた。---

--- 今回の震災を戦後復興にたとえる人は多いが、だとすれば、戦後の焼け跡闇市の混乱や、そこから来る根拠のないバイタリティも必要なのではないかという疑問に対しては、以下のような話をされた。

 「混沌が何より大事だ。人々はリーダーシップの不在を嘆くが、こんな未曽有の事態では、誰がやったって、そううまくいくものではない。国のリーダーは、あのくらい頼りなくてちょうどいい。こういった混乱の中では、人々は局所対応をしていくしかないだろう。リーダーシップは、たぶん地方自治体の首長とかが発揮するのであって、国にそれを期待する方が間違っている」---

 原発で、これだけの事故が起こってしまった以上、そしていまも、放射線量が少量であっても出続けている以上、私たちは、絶対の安心を得ることはもはや出来ない。しかし、私たちは、「安心したい」のだ。「いくら何でも、そんなひどいことにはなりませんよ」と誰かに言ってもらいたいのだ。

「安心したい」という言葉は、いまも私たちが「安全神話」から抜け出しきれいていない証左だろう。だが、安心はない。原発に絶対の安全がなかったのと同じように、もはや絶対の安心もない。私たちは、この「安心はない」というところから、オロオロと、低線量放射線の時代を生き抜いていかなければならない。---

 いずれにしても確かなことは、20キロ、30キロという避難区域の一つの目安は、それが役人が決めたものである以上、おそらく「裁判で因果関係が問われない範囲」ということを想定しているのだろうと思う。役人というのは、意識するしないにかかわらず、常にそのようにものを考え、行動する習性を持つ。そして、それは、国家という巨大組織を運営していく上での目安としては、あながち間違った指標とは言えない。私たちはいずれにしても、どこかで「線引き」をしなければならないのだから。---

 では、政治には、これ以上のことは、何も出来ないのか? 私はそうではないとも思う。---

 犯してしまった罪の大きさにおののいて、きちんとオロオロとするべきなのだ。そのことでも、けっして人々に安心を与えることは出来ないだろうが、いや、マスコミは「ほらやっぱり危険なんじゃないか」と十年一日のごとくに叫ぶだろうが、それでも政府は、若干の信頼は手に入れられるかもしれない。---

 哲学者の鷲田清一氏は、このような「オロオロと」歩いて行くタイプのリーダーシップを、「しんがりのリーダーシップ」と呼んでいる。

 これからの日本と日本社会は、下り坂を、心を引き締めながら下りていかなければならない。そのときに必要なのは、人をぐいぐいとひっぱっていくリーダーシップだけではなく、「けが人はいないか」「逃げ遅れたものはいないか」あるいは「忘れ物はないか」と見回ってくれる、そのようなリーダーも求められるのではあるまいか。滑りやすい下り坂を下りて行くのに絶対の安心はない。オロオロと、不安の時を共に過ごしてくれるリーダーシップが必要なのではないか。---

 現代社会は、資本家が労働者をむち打って搾取するというような時代ではない。巨大資本は、もっと巧妙に、文化的に搾取を行っていく。「文化の自己決定能力」を持たずに、付加価値を自ら生み出せない地域は、簡単に東京資本(あるいはグローバル資本)に騙されてしまう。

 ここで重要なのは、旧産炭地(もちろん、すべての旧産炭地がそうだったと述べているわけではない)が、手厚い保護政策のために、自分の懐が痛まないという錯覚にとらわれた点だろう。要するに、利用額無制限のクレジットカードを持ってしまったようなものだ。もう少し厳しい表現を使うなら、開発政策の犠牲になった先住民族たちを、保護政策でアルコール依存症にしてしまったようなものだと言い換えてもいい。

 地域の自立再生には、そのような一方的な保護政策に打ち勝つための「文化の自己決定能力」が、どうしても必要だ。

 ではその能力(センス)は、どのようにして育つのだろう。それは畢竟、小さな頃から、本物の文化芸術に触れれていくことからしか育たないと私は思う。もしそうだとするならば、東京の一人勝ち状態は、今後も半永久的に続くことになる。なぜなら首都圏の子どもたちには、それだけの機会がふんだんに保証されているのだから。---

 このまま有効な文化政策をうたなければ、東京と、その他の地域の文化格差は、今後も広がる一方になるだろう。東京一極集中の最大の要因はこの点にある。---

 そこで人びとは、「地産地消」を叫ぶようになった。しかし、エンゲル係数が25%を切るような先進国では、農産品だけを地産地消していても、やはり地域の経済は回っていかない。

 消費社会において重要なのは、「ソフトの地産地消」だ。自分たちで創り、自分たちでた楽しみ、自分たちで消費する。そこに付加価値をつけると、他の地域の人びとをも楽しませることができる。---

 そんなことはみんな分かっている。分かっているけれども、それができないのはなぜだろう。農協や漁協が悪いのか。私はそうではないと感じる。

 付加価値を生みだすだけの人材が、決定的に不足している。---

 今回の震災で、あらためて明らかになったことの一つは、いかに東北が東京の、あるいは京浜工業地帯の下支えになってきたかという事実だった。それは電力やサプライチェーンだけのことではない。東北は、東京に対して、中央政府に対して、主要な人材の供給減だった。日清日露の戦場ではまさに一兵卒として、大正、昭和初期には満蒙開拓の先兵として、戦後は集団就職、出稼ぎの発進地として。

 この人材供給のシステムは、高校の学校教育レベルから始まっており、偏差値の序列に従って中央へ中央へと人材が吸い上げられる仕組みとなっている。盛岡一校へ、岩手大学へ、東北大学へ、東京大学へ。進学は常に、上り列車に乗って進んでいく。

 では、この三陸の地の復興は誰が担うのか?

 まだ、この期に及んで、国家のための教育を続けるのか? ---

 

第5章  寂しさと向き合う ─── 東アジア・ソウル、北京 

--- 心理学の世界に「確証バイアス」という言葉がある。人は誰でも、自分の主張に都合のいい情報、自分が下した判断を後押しするような情報を集めてしまいがちになる。またその逆に、反証となるような事実からは目を背けたり、あるいはその収集を怠ったりしてしまう。---

 いまの日韓のぎくしゃくとした関係は、下り坂を危なっかしく下りている日本と、これから下りなければならない下り坂の急勾配に足がすくんでいる韓国の、そのどちらもが抱える同根の問題を、どちらも無いことのように振舞って強がりながら、国を賭けてのチキンレースをしているようにしか見えない。

 そしてその傍らには、青息吐息になりながらも、猛スピードで急坂を登っていく中国という巨人がいる。問題は一筋縄では解けないだろう。

 だが、合わせ鏡のような存在の日韓両国は、だから、この下り坂をお互いに認めて、その寂しさを共有することも可能だと、私は希望も抱いている。成長を捨てた代償として得る成熟の果実を、私たちは求めるべきではないか。---

--- 一つの民族、一つの文化の中にも、様々な感性を持った人々が暮らしている。性同一障害と同様に、文化の同一性障害も当然、存在するだろう。

 韓国人の中にも、きちんと計画を立てて物事を遂行する日本の風土を心地よく感じる人も多くいる。あるいは、日本人の中にも、新幹線の車中で、一分の遅れをうるさくアナウンスされることを疎ましく感じている人間も一定数いるだろう。

 もう一点、異文化理解や相互交流には、「自分たちの標準とするものが、世界の標準であるとは限らない」という認識を、きちんと持っているかどうかという座標軸がある。

 だから、これをマトリックスで考えるなら、四つの象限がここに立ち現れる。

 1、自国の文化を愛し、それを標準として他者にも強要してしまう人。

 2、自国の文化を愛しつつも、それが他の文化にとっては標準とはならないことを知って、適切に振舞える人。

 3、自国の文化に違和感を感じ、それを強制されることに居心地の悪い思いをしている人。あるいは、自国の文化に自信を持てずに、他国の文化を無条件に崇拝してしまう人。

 4、自国の文化に違和感を感じても、それを相対化し、どうにか折り合いをつけて生きて行ける人。

 異文化理解を進めるということは、とりもなおさず、2と4の象限の住人を増やしていくことに他ならない。---

 もしも文明を成立し進化させる要件が、異なる文化が混ざり合い、押し合いへし合いすることにあるのなら、私たちの進まなければならない道は明らかだろう。東アジア文化圏の連帯を、よりいっそう強めるのだ。政治や経済、通貨などのEUのような結合はまだ先でも、文化やスポーツ、医療や学術などについて徹底した連帯を図って、文化の違いを認識し共有する。---

 東アジアの状況は欧州よりも複雑だが、それでもやはり、中国を孤立させず、日韓が下り坂を確かな足取りで下り、北朝鮮の体制の崩壊を待ち(あるいはそれを促し)、その受け皿をしっかりと作っていく。日本が日本固有の文化を守り、アメリカの属国にならず、中国の植民地にもならない道は、おそらくここにしかないと私は思う。

 第二次安倍政権が、 外見上、見事なスタートダッシュに成功したのには、主に二つの要因が挙げられる。一つはアベノミクスが、少なくとも表面的には成功して、株価と大企業の収益が上がったこと。もう一点は、ナショナリズム的な傾向を強めることで、自信を失っていた日本人に、なにがしかの希望のような幻想を抱かせたこと。もちろん、この二つは表裏一体となっていて、経済の一時的な回復が、「夢よ、もう一度」という気持ちを、多くの国民に抱かせることに成功したとも言える。---

 安倍首相とその周辺の人々には、おそらく二つの誤謬がある。

 一つは、日本が文明を輸出できる国だという錯覚。「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく」(2015年年頭所感)という妄想は、これを端的に表している。

 日本は、世界の中心で輝くことはない。「再び」とあるが、日本はこれまで、世界の中心で輝いたことなど一度もない。いや、どこの国であっても、世界の中心になど、なってはならない。

 もう一つの誤謬は、「絶対負けない」という不敗神話だ。しかし、こちらはもう少し複雑で、屈折しているのかもしれない。第一次安倍内閣は、余りにも悲惨な仕方で瓦解した。安倍首相にとっては、人生最大の屈辱であったろう。そして彼は、見事に政権の座に返り咲いた。過去の挫折が余りに大きかったために、今回、「自分は負けない」「第一次安倍内閣でも実は負けてはいなかった」という妄想に陥っているのではあるまいか。そうとでも考えなければ、国会で首相が質問者にヤジを飛ばすといった児戯を説明することは難しい。---

 安倍首相は、日本がアジア唯一の先進国の座から滑り落ちたことを受け入れられない日本人の典型である。典型である以上、一定数の支持を保ち続けることは間違いない。

 しかし、いま日本人に必要なのは、その寂しさに耐えることだ。小さなプライドを捨て、私たちはゆりかごから外に出なけらばならない。安倍政権を攻める側もまた、この文化の構造を理解しなければ、本当の勝利は得られない。---

 

終章  寛容と包摂の社会へ 

--- おそらく、いまの日本と日本人にとって、もっとも大事なことは、「卑屈なほどのリアリズム」をもって現実を認識し、ここから長く続く後退戦を「勝てないまでも負けない」ようにもっていくことだろう。

 実際に、もがき苦しみながらも改革に取り組み、希望が見え始めている自治体はいずれも、現実を見据え、短期的、場当たり的な対策ではなく、確かな理念をもった長期的な取り組みを行っている所ばかりだ。それは、一見奇策に見えながら、「ここでいいのだ」という自己肯定感を伴った、実は堅実な街作りである。---

--- 今回の地方創生の最大の課題は、人口減少対策である。人口減少に歯止めをかけるための施策を競わせて、いいアイデアのある自治体には手厚く補助金を出すというのが、地方創生事業の実質だ。だが、この問題を考えるときに留意しなければならないのは、少子化、人口減少対策は、大都市圏と地方では、まったく異なる様相を持っている点だ。

 大都市圏では、「ワーク・ライフ・バランス」が叫ばれる。

 女性が社会進出を果たしても、きちんと子育てがしやすい環境を作る。男性も育児に参加する。子育てとは直接関係ない場面でも、残業を減らし、有給休暇を取得しやすくして、仕事とそれ以外の人生のバランスを見直していく。

 それらはとても大切なことだ。私自身、働く女性が「職業婦人」と呼ばれていた時代に、当時、都内唯一のゼロ歳児保育を受け入れる保育所に預けられた第一世代であるから、その切実さは身にしみて分かる。だがおそらくそれだけでは、少子化問題は解決しない。---

--- すなわち待機児童問題は、大都市圏の自治体、その数からのみ言えば、極めて少数の自治体が抱える問題なのだ。--- おそらく待機児童問題が常態化している自治体は、全国1742の市区町村のうち、多く見積もっても200あまりに過ぎないのだろう。他の1500の自治体は逆に、幼稚園、保育園も定数に満たず、子どもが欲しくてたまらない地域なのだ。

 アベノミクスのような資本集約型の構造改革を続ける限り、この問題は解決されない。いや、極端な市場原理主義、新自由主義は、この問題さえも過渡期の事柄であって、経済が好転すれば税収が上がり、大都市圏での子育て環境の整備が進むと強弁を張るかもしれない。だが、私はそれは無理だと思う。出産、育児といった人類にとって神聖な事柄は、経済合理性だけでは決まっていかないからだ。政府がどれだけ未来での問題解決を謳ったところで、人々は、将来に不安のある環境では子どもを生まないし育てない。

 「待機児童問題」に象徴される「ワーク・ライフ・バランス」のための様々な施策は、大都市圏のみが抱えている問題だ。地方には、まだまだ子どもを受け入れる余力があり、土壌がある。

 地方における少子化問題の本質は、「ワーク・ライフ・バランス」ではなく、「非婚化・晩婚化」だ。---

 地方の抱える問題は非婚化・晩婚化であり、「偶然の出会いがない」という点は序章でも触れた。偶然の出会いの場をことごとくつぶしておいて、人口減を嘆くのはナンセンスだ。---

 要するに、若者たちを地方に回帰させ、そこに「偶然の出会い」を創出していくしか、人口減少問題を根本的に解決する方策はないのだ。---

 真の地方創生にとって必要な施策を整理してみる。それは、序章で掲げた三つの寂しさと向き合うことと、相似形をなしている。

1、 もはや日本は、工業立国ではない。---

 成熟社会が到来すると、大量生産大量消費を前提にした労働集約型の産業構造が崩れていく。産業そのものの流行り廃りも激しくなり、労働人口は流動化する。企業は、幹部職員以外はできるだけ非正規雇用として、常に適切な人材を、適切な数だけ採用したいと考える。それ故、終身雇用制が崩れるのは、仕方のない側面もある。---

 もう一点、重要なことは、産業構造の転換のスピードが速くなってくると、人々は、若いときに身につけた知識や技術だけで一生、一つの職につくということが難しくなってくる。これはとくに製造業に顕著な傾向だ。そこには技術や資格の問題だけでは解決しないマインドの問題が含まれるから。---

 製造業従事者の再就職が難しいのは、コミュニケーション能力の問題が大きな比重を占めている。彼らはおしなべて、「自己アピールができない」と言われる。しかし、日本の中高年の男性は、幼少期、男親から「男は自慢話などするものじゃない」と教え育てられてきているのだ。今さら、そのメンタリティを変えるのは至難の業だ。---

2、もはや日本は、成長社会ではない。

 大きな経済成長や人口増加を前提としない。その厳しい状況をしっかりと受け止め、「勝てなくても負けない」街作りを指向する。 

 しかし、それをネガティブに捉えずに、大らかさと朗らかさを忘れず、知恵と勇気を持って状況に立ち向かう。

 総力戦で、人口減少をできるだけ食い止め、その間に持続可能な社会の実現を目指す。

 具体的には、まず外貨の稼げる基幹産業に注力する。そこで稼いだお金は、それが地域の中で回っていくように大事に使う。農産品だけではなく、ソフトの地産地消を心がける。---

3、もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない。

--- 日本のヘイトスピーチの特徴は、「在日特権を許さない市民の会」という名称に象徴されるように、どこかに隠された特権があり、それを糾弾するという体裁を取っている点にある(この点、前記したように、橋下徹氏の政治手法も似たような部分が多い)。この運動に参加している人々は、人種差別的な発言を繰り返すことで、単に彼らの屈折や鬱憤を解消した気になっているだけなのだが、隠れた特権の糾弾という衣装を纏うことで、あたかも自分たちが社会的正義を担っているかのように錯覚し陶酔している。

 いま、日本社会全体が、「自分以外の誰かがうまい汁を吸っている」と疑心暗鬼になり、妬みや嫉みが蔓延する息苦しい社会になっている。---

 失業者が映画を観に行ったり、生活保護世帯の方が演劇を楽しんだりすると後ろ指をさされるような社会と、子育て中のお母さんが芝居を楽しむと後ろ指をさされる社会、そして国会での心ないヤジ、さらにはヘイトスピーチまで、それらは奥の深いところでつながっているように私は思う。この猜疑心にあふれる社会を、寛容と信頼によって再び編み替えない限り日本の未来はない。---

--- 本当に、本当に、大事なことは、たとえば平日の昼間に、どうしても観たい芝居やライブがあれば、職場に申し出て、いつでも気軽に休みが取れるようにすることだ。職場の誰もが、「あいつサボっている」などと感じずに、「なんだ、そんなことか、早く言ってくれよ。その仕事なら俺がやっておくよ。舞台を楽しんできな」と言い合える職場を作ることだ。

 それが、私が考えるコミュニケーションデザインであり、コミュニティデザインだ。そのためのコミュニケーション教育だ。

 競争と排除の論理から抜け出し、寛容と包摂の社会へ。道のりは長く厳しいが、私はこれ以外に、この下り坂を、ゆっくりと下っていく方法はないと思う。--- 

 


 

 著者は、「まことに小さな国が、衰退期をむかえようとしている。」と、『坂の上の雲』の冒頭の一文をもじった文章から書き始めて、「そろりそろりと、この長い坂を下る方法を見つけていければと願っている。」と書く。 

 「 日本は 、もはや工業立国ではない 

   もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならない 

   日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではない 

   三つの種類の寂しさを、がっきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。」

 その通りだと、私も思います。

 これらの事実を、がっきと受け止めなければならないのに、「見ないようにしている」あるいは「気が付かないでいる」 人たちが多いのだと思います。

 後退戦をどのように戦っていくのか、これは、非常に難しい問題です。

 簡単ではありません。

 でも、行動に移さないことには、どうしようもないところまで来てしまったようです。

 豪華客船に乗った乗船客たちを船内から出さないようにして、外海の様子を見せない船に乗っているのと同じ状態だと思います。

 燃料も残り少なくなっています。

 操船している船員たちは高齢化して、操船能力が衰えてきています。

 この現実を、しっかりと見て、この状態でいかに上手く海を渡っていくか。

 一人ひとりの判断が、将来を決めるときが来ているのだと思います。 

 

 

 

 

 

 

 

 


桜。

 用があって、北鎌倉へ行ってきました。

 桜が満開でした。 あっちでもこっちでも、華やかに咲き誇っていました。 

 今年の桜は開化が遅かった上に、雨続きで外へ出る機会が少なかったため、東京のお花見のニュースを他人事のように聞いていました。

 ですから、今日の満開の桜にはびっくりでした。

 天気予報が外れて生憎の曇り空でしたが、満開の桜の華やかさを満喫することが出来ました。

 北鎌倉の駅舎(円覚寺側の改札口)の真ん前の桜です。

  北鎌倉のソメイヨシノ.jpg

 こちらは、円覚寺の山の上の方にある枝垂桜とソメイヨシノです。

  シダレザクラとソメイヨシノ.jpg

 最後に、途中の道端にあった「野仏」です。

 表情が不思議です。

  野仏.jpg

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ⑧

5章  太平洋戦争 (の続き)

 天皇に対して、この山本の作戦が説明され承認を得たのは、41年11月15日でした。真珠湾攻撃を含んだ全作戦計画を天皇に説明し、とくに真珠湾攻撃に関しては「桶狭間の戦にも比すべき」奇襲作戦であるとの説明がなされ、艦隊同士の主力決戦になっても「充分なる勝算」があり、持久戦になっても「海上交通線の保護は可能」だから、対米武力戦は可能だとされたのです。ここで大事なのは、桶狭間の戦というところでしょう。これは、1560(永禄3)年5月19日、これは旧暦でのことですが、大軍を率いる今川義元の本陣を十分の一ほどの軍勢しかない織田信長が急襲し、見事、勝利した戦をいいます。大坂冬の陣にしろ、桶狭間の戦にしろ、昭和天皇がこのような史実を用いた講談調の説得に弱いと見た海軍側の知恵であったのかもしれません。---

 中田整一さんという方はNHKの元プロデューサーで---その中田さんが、淵田美津雄という軍人の自叙伝をアメリカで見つけだして刊行したのですが、これがめちゃくちゃ面白い(『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』、講談社)。 

--- 淵田は戦後、キリスト教の布教師になり、アメリカで布教してまわったという変わった人ですが、淵田がアメリカで布教するのがなぜそれほど異様かといえば、彼こそは真珠湾攻撃のときの航空隊の総指揮官だったからです。--- 空母・赤城などから飛び立った300機あまりの飛行機を率いて、真珠湾を奇襲したのが淵田だった。

 この時期の日本海軍のパイロットは、飛行時間が長く、高い技術を備えていました。---

 それでは、なぜアメリカは戦艦を無防備な状態で真珠湾にずっと置いていたのでしょうか。---

--- 飛行機が戦艦に近づいて普通の爆弾を上から落とすというのは非常に難しかったわけです。これは戦艦に近づかなければならないからですね。戦艦には飛行機を迎撃するための高角砲などがついておりますから、飛行機はあっという間に近づく手前で撃墜されてしまう。それでは、どうやって戦艦を飛行機による攻撃で沈めるかというと、とにかく近づかないで済むようにする。そして、魚雷という便利なものを飛行機から海に落として、海の中に沈んだ魚雷がまっすぐに戦艦に向かってすすんでいくように、目標までの距離千メートルくらいから、魚雷を発射するわけです。

 魚雷は高度100メートルぐらいで飛ぶ飛行機から落とされると、ガーッと60メートルくらい、海面から沈む。この沈んだときの衝撃で機械が動き、魚雷についたスクリューが回り出して海面近くまで浮上し、あとは定深度6メートルを保って目標に向かってぐんぐんすすむ。そして目標の船、これは吃水(浮かんでいる船の船底から水面までの距離)7メートルなのですが、6メートルですすんでくるということは、船底から1メートルの火薬庫がある場所をちょうどよく狙って爆破する。魚雷はある意味よくできた兵器でありまして、飛行機はすでに安全なところを飛んでいながら、魚雷は敵艦の船の底、火薬庫を狙って海中をぐんぐんすすむわけですね。

 真珠湾は水深12メートルの浅い湾でした。戦艦は水面から船底まで7メートルあれば停泊させられますから、ここに停泊させるのは合理的です。そしてもっと合理的だったのは、水深が12メートルしかありませんから、投下されたときに60メートル沈むのが魚雷だとすると、これは無敵の湾だったことになります。--- 真珠湾は浅いので、魚雷が落とされれば、すでて湾の底に杭を打ったように突き刺さって、全然役に立たないはずだ、こうアメリカ側は考えていました。--- 海底スレスレまでしか沈まないように、そうっと魚雷を落とす技術などありえないと思っていた。そこなのです。

 戦争に関することでは、相手方に対する人種偏見が、大きく作用することがあります。--- 淵田たち海軍航空隊の訓練の様子は「月月火水木金金」などと形容され、休みもない厳しいものでした。そこでどのようなことをしていたかといえば、地形の似た鹿児島湾を真珠湾に見立てて、魚雷の落とし方を訓練していた。つまり、60メートル沈まないように魚雷を投下する訓練です。もちろん、そういった訓練だけでなく魚雷自体にも様々な改良がなされます。---

--- アメリカ側も、よもや日本側がこのような攻撃をしかけるとは思いませんから、水深12メートルの浅さに安心して、魚雷ネットなどの十分な防備をしていなかった。やはり、相手の能力の軽視は、どの国家の軍隊にもあるのですね。---

 保守的な月刊誌などが毎年夏に企画する太平洋戦争特集などでは、なぜ日本はアメリカの戦闘魂に油を注ぐような、宣戦布告なしの奇襲作戦などやってしまったのか、あるいは、なぜ日本は潜在的な国力や資源に乏しいドイツやイタリアなどと三国同盟を結んでしまったのか、という、反省とも嘆きともつかない問いが、何度も何度も繰り返されています。そのような議論を見ていつも私が思うのは、速戦即決以外で日本が戦争を行うプランをつくれただろうかということです。短期決戦以外につくれたのだろうか。そのあたりを考えていくと、哲学的問題にまでなります。---

--- 持久戦を避けたい国、電撃戦をやりたい国はいかなる行動に出るのか。ドイツの判断を考えると、日本の動きもよく見えてきますので、第二次世界大戦が始まる前まで少し戻って、ドイツの動きをお話しましょう。---

--- ソ連が世界の共産化を真面目に考えていると確信した彼らは、防共、反共、つまり共産主義打倒を真剣に考えはじめます。ナチスというと反ユダヤ政策にすぐ目が行きますが、反共という側面を見落としてはいけません。--- ドイツの国防軍などは日本軍を馬鹿にしていました。第一次世界大戦で総力戦の血の洗礼を受けてこなかったわけですので。けれども、その態度を劇的に変える。日本は、やはり地政学的に見てソ連に対する天然の要害(要塞)だったからです。ソ連が太平洋に出ていくためには、日本の海峡が三つもある。津軽、宗谷、対馬海峡です。ドイツは経済合理的な中国政策を捨て、日本を選択することになるのです。

 ここで大事なのは、ドイツが中国を捨てたことです。そうなると中国はソ連についていかなければならない。--- 日独の接近は中国とソ連の接近をもたらす。その裏面には、共産主義をどうするかというイデオロギーと地政学があった。持久戦を本当のところで戦えない国であるドイツと日本であるからこそ、アジアとヨーロッパの二ヵ所からソ連を同時に牽制しようと考える。アジアの戦争である日中戦争が第二次世界大戦の一部になってゆくのは、このような地政学があったからです。---

 日本人はドイツ人にくらべて、第二次世界大戦に対する反省が少ない、とはよくいわれることです。---

 日中戦争、太平洋戦争における中国の犠牲者は(数値は統計によっても異なり、議論もあるものですが)中国が作成した統計では、軍人の戦死傷者を約330万人、民間人の死傷者を約800万人としています。さらに台湾、朝鮮、南洋諸島など、日本の植民地や委任統治領になった地域の人々の労苦も、決して忘れてはならないものです。1938年に制定された国家総動員法に基づいて39年につくられた国民徴兵令、これは、戦争にあたって必要とされる産業に国家の命令で人員を配置できるとした勅令ですが、この徴用令によって植民地からも日本国内の炭鉱、飛行場建設などに多くの労働者が動員されました。朝鮮を例にとれば、44年までに、朝鮮の人口の16%が、朝鮮半島の外へと動員されていた計算になるといいます。

 しかし、太平洋戦争が、日本の場合、受身のかたちで語られることはなぜ多いのか。つまり「被害者」ということですが、そういう言い方を国民が選択してきたのには、それなりの理由があるはずだと私は思います。44年から敗戦までの1年半の間に、9割の戦死者を出して、そしてその9割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした。この感覚は、現代の我々からすれば、ほとんど理解しがたい慰霊についての考え方であります。

 日本古来の慰霊の考え方というのは、若い男性が、未婚のまま子孫を残すこともなく郷土から離れて異郷で人知れず非業の死を遂げると、こうした魂はたたる、と考えられていたのですね。---

 太平洋戦争が「被害」の諸相として国民に語られる背景の二つ目には、満州にからむ国民的記憶を挙げる必要があるでしょう。45年8月8日、それまで日本とは中立条約を締結していたことから、中立状態を保っていたソ連が、ドイツが降伏してから3ヵ月後に対日参戦するとの連合国側への約束どおりに、日本に参戦、侵攻を開始します。--- 満州に開拓団移民として多数入植していた人々が、ソ連軍の侵攻の矢面に立たされたこともあり、ソ連に対する憎しみの感情は戦後の日本で長く生きていたと思います。---

 終戦時、海外にいた民間の日本人は321万人でした。陸海軍軍人がだいたい367万人ですので、合計で688万人が海外にいた。これは多いですね。そのうちの200万人が満州にいた。その200万人のうち、先に触れました抑留者の死亡を含め、ソ連の侵攻後に亡くなった人の総数が24万5400人といわれています。この数にはやはり圧倒されます。亡くなった方を除き、また、帰国のすべがなかった残留孤児や残留婦人などを除き、多くの国民は満州から引揚げます。先の人口から換算すると、敗戦時の人口の8・7%の国民が引揚げを体験していることになる。

 200万の老若男女が同時に体験した歴史的な事件というのは、民族として重い体験でしょう?--- 確かに満州からの引揚げ体験は過酷なものであったはずです。被害や労苦の側面から語られがちであるのは仕方ありません。ただ、そうした惨禍を生んだ根本に、日本政府の政策があったことを忘れてはなりません。一つだけ例を挙げておきましょう。長野県は満州への開拓移民が多かった県でした。長野県のなかでも、県庁所在地の長野市周辺や松本市周辺などの地域よりは、南信と呼ばれる県南部に開拓移民を多く出した村が多かったのですね。--- 飯田市の周辺で、開拓移民を最も多く送りだしたある村の満州移民の率は18・9%、つまり、村人5人に1人が満州に送りだされたということになります。--- 国や農林省などが1938年から推進する、満州分村移民の募集に積極的に応募する、というよりは、応募させられてしまうのですね。

 どのような仕組みかというと、こうです。32年ぐらいから試験的な移民は始まっていたのですが、初期に移民した人々から、満州が「乳と蜜が流れる」土地であるなどという国家の宣伝はまちがいで、厳寒の生活は日本人に向いていないのだとの実情が村の人々に語られはじめ、移民に応募する人々は38年ぐらいから減ってしまった。そこで、国や県は、ある村が村ぐるみで満州に移民すれば、これこれの特別助成金、別途助成金を、村の道路整備や産業振興のためにあげますよ、という政策を打ちだします。

 このような仕組みによる移民を分村移民というのですが、助成金をもらわなければ経営が苦しい村々が、県の移民行政を担当する拓務主事などの熱心な誘いにのせられて分村移民に応じ、結果的に引揚げの過程で多くの犠牲者を出していることがわかっている。---

 ですから、満州からの引揚げといったとき、我々はすぐに、ソ連軍侵攻の苛酷さ、開拓移民に通告することなく撤退した関東軍を批判しがちなのですが、その前に思いださなければならないことは、分村移民をすすめる際に国や県がなにをしたかということです。特別助成や別途助成という金で、分村移民送出を買おうとした施策は、やはり、大きな問題をはらんでいたというべきでしょう。---

 このような事実を知っているか知らないかで、現代社会の見方も、過去の歴史の見方も、ずいぶん変わってくると思いませんか。私は、この『満州移民』という本を書いた郷土史家の方々を深く尊敬します。この本のなかには、地域で暮らし、地域で生きてきた人だけに書ける内容がたくさん明らかにされています。賢明な開拓団長に率いられた村々では、元の土地所有者であったはずの中国農民と以前から良好な関係を築いていた。よって敗戦となるとただちに中国農民の代表と話をつけ、開拓団の農場や建物を「全部あなたにあげます」と話し、安全な地点までの危険な道の護衛を依頼して、最も低い死亡率で日本まで引揚げられた千代村の例などもありました。これは、歴史の必然に対して、個人の資質がいかに大きな影響を持つかということを正直に語っていて、迫力がありますね。

 日本人のなかには、過去を正しく見つめるドイツ人、そうはならない日本人、といった単純な対比はもういい加減にしてくれ、という人も多いと思います。ただ、私としては、やはり日本人が戦争というものに直面した際の特殊性というのでしょうか、そのようなものがデータとして正確に示されるのであれば、正視したいと常に思っています。

 その一つが捕虜の扱い方のデータです。--- ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1・2%にすぎません。ところが、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37・3%にのぼりました。これはやはり大きい。---

 このようなことはなにから来るかというと、自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても、そのまま捕虜の虐待につながってくる。---

 戦争には食糧がいる。ニューギニア北部のジャングルなどには自動車道はない。兵士の1日の主食は600グラムです。最前線で5千人の兵士を動かそうとすると、基地から前線までの距離にもよりますが、主食だけを担いで運ぶのを想定すると、なんと、そのためだけに人員が3万人くらい必要になるのです。しかし、このような計算にしたがって食糧補給をした前線など一つもなかった。この戦線では戦死者ではなく餓死者がほとんどだったといわれるゆえんです。---

 そして、このような日本軍の体質は、国民の生活にも通底していました。戦時中の日本は食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていた。--- 日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴収猶予がほとんどありませんでした。--- 肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちをも、国は全部兵隊にしてしまった。すると、技術も知識もない人たちによって農業が行われるので、44、45年と農業生産は落ちまくる。---

 それにくらべるとドイツは違っていました。ドイツの国土は日本にもまして破壊されましたが、45年3月、降伏する2ヵ月前までのエネルギー消費量は、なんと33年の1、2割増しでした。むしろ戦前よりもよかったのです。国民に配給する食糧だけは絶対に減らさないようにしていた。国民が不満を持たないようにするためにはまず食糧確保というわけです。

 やはり兵士にとっても国民にとっても太平洋戦争は悲惨な戦争でした。日本の炭鉱では、たくさんの中国側の捕虜や朝鮮半島から連れてこられた労働者が働かされていました。本来は捕虜に労働させるには十分な食糧と給料を出し、将校は労働させてはいけないなどのルールがあったはずですが、そのようなことはもちろん守られていなかった。そして膨大な死傷者が出ました。しかし、このような悲惨な側面は、兵士や国民自身の待遇や劣悪な記憶に上書きされ、国民や兵士の記憶からは落ちてしまうのです。

 さて、そろそろ講義もおしまいです。--- 5日間、いかがでしたか。---

─── 歴史をこんなふうに考えたことはなかった。いつもとは違う頭の使い方をした感じがしてクタクタになったけれど、かなり有意義だったと思います。太平洋戦争については、日本がなぜあんな可能性のない戦争をしたのか、これまで当時の人たちの感覚が全くわからなかったけれど、今回、いろんなデータを知ることで、「この時点の世界の動きを切り取れば、こんなふうに見えるんだ」とか思ったし、いろんな人の考えや文章に触れて、少しだけかつての人の感覚がわかったような気がした。

 有意義だったといってもらえて、とっても嬉しいです。今回の講義でいちばん工夫したのは地図でした。いろんなデータという言葉が出ましたが、みなさんが空間的に歴史をイメージできるようになれば、もう私はなにも言い残すことはありません(笑)。

 最後に、2005年の読売新聞による調査を紹介しておきましょう。「中国との戦争、アメリカとの戦争はともに侵略戦争だった」と思う人は34・2%、「中国との戦争は侵略戦争だったが、アメリカとの戦争は違う」と思う人は33・9%います。むしろ、ここで私が注目したいのは「あなたは、先の大戦当時の、日本の政治指導者、軍事指導者の戦争責任問題をめぐっては、戦後、十分に議論されてきたと思いますか、そうは思いませんか」という問いに、「全く議論されていない、あまり議論されていない」という回答が5割を超えていることです。---

 天皇を含めて当時の内閣や軍の指導者の責任を問いたいと思う姿勢と、自分が当時生きていたとしたら、助成金ほしさに分村移民を送りだそうと動くような県の役人、あるいは村長、あるいは村人の側にまわっていたのではないかと想像してみる姿勢、この二つの姿勢をともに持ち続けること、これがいちばん大切なことだと思います。

 

おわりに 

--- 私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例からの類推を行い、さらに未来を予測するにあたっては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っています。

 そのようなときに、類推され想起される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控え目で穏やかなものであるはずです。

 

文庫版あとがき 

--- 本書で私は、近代日本の戦争の歴史を書きました。それが成功しているかはわかりません。ただ、過去を正確に描くことでより良き未来の創造に加担するという、歴史家の本分にだけは忠実であろうと心がけました。じっくりとお読みいただければ幸いです。---

 

        解説                 橋本治 

----------- 高校生の時の私は「日本人はなんだってあんなバカげた戦争をしたんだろう?」と思っていました。だから、「その謎を解き明かしてもらえるのかもしれない」と思って、------ でも、加藤先生の話は、全然太平洋戦争のところへ行きません。いきなり「9・11テロ」の話で、「現在の話と昔の話がどう関係あるのかな?」と思ってしまいます。---

 戦争は「戦争」という単体で存在しているわけではない。「戦争を考える」ということであっても、「戦争を考えるための決まった筋道」があるわけではない。だからこそ加藤先生は、「戦争を考える時に、こういうディテールもあるということを知っていますか?」と教えてくれる。---

 講義が終わても、この本一冊を読み終わっても、分かったところと分からないところがマダラ模様になっていて、「もう一遍、自分でまとめながら読まないと分からないな」という気になって、この本を読み返すと、その初めの方に≪歴史の試験は論述で書かせなければだめ、論理的に説明できる力は暗記ではないのだ≫と書いてありました。

 加藤先生は、「みんなで考えてよ、私は手掛かりを上げるから」と言っているのでした。

 


 

 終わりました。

 長かった。

 でも、「読むに値する」と、心から思わせてくれた本でした。

 読んだからといって、すぐに答えが見つかるということではありませんでした。

 「解説」で橋本治さんが書いているように、「みんなで考えてよ、私は手掛かりを上げるから」です。

 分からないことが多かった、そして今も分からないことが多い私ですが、この本を読んでから、新聞の記事に書かれていることがすっと頭に入った瞬間が何回かありました。

 東アジアの問題が、過去との繋がりと地図から理解できるようになっていたのです。

 講義の最後の日、「 --- いちばん工夫したのは地図でした。」 と書かれていましたが、本当に理解を助けてくれた地図でした。

 若い人たちに、是非、この本を読んでもらいたい読ませてあげたいと思います。 

 

 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ⑦

5章  太平洋戦争  戦死者の死に場所を教えられなかった国

--- この戦争は、1941(昭和16)年12月8日、日本軍による英米に対する奇襲攻撃によって始められた戦争ですが、--- まず、太平洋戦争の開戦を知らされたときの人々の感想や感慨を、ここでいくつか紹介しておきます。--- 竹内は、満州事変が起こされた年の1931(昭和6)年、当時の名称でいえば東京帝国大学文学部支那文学科、つまり中国文学を専攻していた。--- 自らの学問の対象となる国と戦争が始まるわけですから、大変なことですね。

 この竹内は、太平洋戦争の開戦の報を聞いて、ある意味、感動する。--- 開戦とともに「歴史は作られた」とする感性。泥沼の日中戦争が太平洋戦争へと果てしなくも拡大してしまったと、現代の我々が抱く受け止め方とは全く違った認識です。

 ここからわかるのは、日中戦争は気がすすまない戦争だったけれども、太平洋戦争は強い英米を相手としているのだから、弱いものいじめの戦争ではなく明るい戦争なのだといった感慨を、当時の中国通の一人であったはずの竹内が述べていることですね。竹内の文章には、「爽やかな気持ち」で受け止めたとの記述がありますが、同じようなことを小説家で文芸評論家でもあった伊藤整も日記のなかに書き留めています。---

--- これほど国力の差がある国と戦争をして、日本は、たとえばドイツがソ連を打ち負かすためにモスクワの30キロ手前まで進撃したのと同じように、アメリカのワシントン、あるいはイギリスのロンドンまで攻めてゆくつもりがあったのかと問われれば、それはなんぼ無謀な陸軍でも考えていなかったといわざるをえない。---

 具体的にいいますと、戦争をいったいどうやったら終わらせることができるのか、いちばん心配していたのは昭和天皇だったはずですね。--- 

 陸軍がこの御前会議のために準備した文書には、こう書かれている。来るべき戦争は英米欄(イギリス、アメリカ、オランダのこと)に対するものであって、その戦争の目的は、東亜、つまり東アジアにおける米英欄の勢力を駆逐、追い払って、帝国の自存自衛を確立し、あわせて大東亜の新秩序を建設することにある、と。

 さてこの後、軍部は突然歴史を持ち出すのですが、--- なにがなんでも戦争しろといっているのではないが、大坂冬の陣の翌年の夏、大坂夏の陣が起こったときに、もう絶対に勝てないような状態に置かれて騙されてしまった豊臣氏のようになっては日本の将来のためにならないと思う、こう永野は述べる。---

 さらに、41年10月18日に東条英機が首相となると、東条は、「対米英欄蒋(蒋とは蒋介石、つまり中国のこと)戦争終末促進に関する腹案」という文書を、陸海軍の課長級の人々につくるように命ずる。これが戦争を終わらせる計画ですよ、と天皇の前で説明するための材料を作らせる。ただ、この腹案の内容というのは、他力本願の極致でした。--- すべてがドイツ頼みなのです。---希望的観測をいくえにも積み重ねた論理でした。---

 参謀本部の第二課は陸軍の作戦計画を立てる部署ですが、彼らも天皇説得のための書類をつくっていました。--- 開戦当初は、通商破壊戦と航空機で相当の被害が出るものと予想されるが、事態はしだいに回復して、終局においては「戦いつつ自己の力を培養すること可能」と判断されている。物資を運ぶ輸送船や海軍艦艇の建造可能なペース、沈没させられる予想トン数、消耗する予想機数を挙げて、結論としては大丈夫、と太鼓判を押すのです。しかし、これは見込み違いの数値だった。---

 しかし、基本的には、軍は戦争をするなら早く開戦決意しようと考えていますから、希望的観測を述べるのです。--- 

 ただ、こういったお話だけでは、日本軍は噓つき集団だということになりかねませんので、いま一つの側面からも説明しておきます。現実に起こったことのレベルが日本側にとって予想外のすごさだったということは見なければなりません。

 アメリカは総動員体制に入った後、兵器の大量生産という点でものすごかった。1939年の時点では、アメリカは飛行機を年間で2141機しかつくれませんでした。それに対して日本は2倍以上、年間で4467機を製造する力があった。しかし、この日本側の優位は、アメリカが本気になったとき、あっという間に崩れるのです。41年の時点でのアメリカの製造能力は1万9433機、日本は5088機で、アメリカは日本の4倍もの生産能力を獲得している。そして、この比率は45年まで変わりません。アメリカという民主主義国が売られたケンカを買ったときに、いかに強くなるかがわかりますね。日本側の予測をはるかに超える事態でした。---

 1937年7月に北京郊外の華北地域で勃発した日中戦争は、華中地域に飛び火し、上海という国際的都市を巻き込んで、激しい航空戦が展開され、戦闘は37年8月半ばに本格化します。--- 外務省のアジア局長であった石射猪太郎は、8月17日の日記に「志那は大軍を注ぎ込んで陸戦隊セン滅を図っている、これに対して幾日もてるか。陸戦隊本部は陥落しはしないか」と、まことに心細いことを書いている。--- 伊東は日露戦争にも従軍経験のある高齢の軍人でしたので、10月10日の日記には、敵の長所として「敵の頑強振りは日露戦の[ロシア軍の] 旅順におけるものと大差なし。むしろ一部の点は[ロシア軍より]以上のごとく、いかに砲撃するも全滅するまで固守する風あり」と書く。---

 中国側が強かった理由は、もちろん、31年の満州事変以来、日本側のやり方に我慢がならなかったという抗日意識の高まりがまずはあります。それ以外の点でなにがあったかというと、覚えていますか。--- ドイツは40年9月27日、日本と三国同盟を調印することになる国ですが、38年5月12日に満州国を承認して明確に日本側と手を組むまでは、中国側に最も大量の武器を売り込んでいた国でした。兵器・軍需品を売り込むだけではなく、軍事顧問団も蒋介石のもとに送っていた。ドイツ人軍事顧問団に率いられた中国軍は、ダイムラー・べベンツ、ベンツですよ。ベンツのトラックで運ばれて戦場に赴いていたのですから、日本軍の持っていた国産の軍用トラックなどよりずっと性能がよかったはずですね。---

--- 中国とソ連の場合は、軍事的な関係がつくられ、37年8月21日に、中ソ不可侵条約を結んでいた。この条約の内容は、武器援助です。--- この、ソ連の軍事援助と同じ、あるいはもう少し道義的な意味の濃い援助を始めたのがアメリカとイギリスでした。英米は中国の各都市に巨額の経済的権益を持っている列強でしたから、日本側に中国との貿易を独占されることは我慢ならないことでした。---

 一方、39年1月、アメリカは日本に対し、航空機とその部品の対日輸出を禁止し、同年7月26日には、日米通商航海条約の廃棄を通告しました。---

 日本軍は、上海、南京、武漢を陥落させ、日本の実質的な占領地は、中国の産業文化の中心である長江下流域、中流域まで拡大します。--- ある国の国民性がどうだこうだというのは、少し怪しい。けれども、確かに日本人は少しひがみっぽいところがある、いじけやすい(笑)。 ソ連、アメリカ、イギリスが中国に援助しているのを見ると頭に血がのぼる。--- むろん、日本が戦争をしかけて、中国の対日政策を武力によって変えようとしたことからすべては始まっているわけですが、それは日本側には自覚されません。---

--- 主観的には、日中戦争を早く終わらせるためとして、日本軍はフランス領インドシナ、当時の言葉では仏印と呼ばれていましたが、この仏印への進駐を計画する。--- 39年9月1日、ドイツのポーランド進駐に対して、同3日、英仏がドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始まります。ドイツ軍は40年の前半までに、ヨーロッパで、ノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランスなどを急襲して、なんと同年6月13日、フランス軍が撤退した後のパリに無血入城し、ドイツ占領下のフランスにはヴィシー政権という傀儡政権がつくられる。

 つまり、日本側が仏印に飛行場を確保しようとして進駐する、これは、40年9月22日のことですが、このとき、交渉すべき相手方というのは、仏印を植民地として持っていたフランスのはずですが、そのフランスは今やドイツの占領下に置かれてしまったわけで、交渉相手はドイツの傀儡ともいえるヴィシー政権だった。北部仏印進駐を日本が行ったとき、日本の頭では、仏印側、仏印にいるフランス人の総督が日本軍の進駐を認めたのなら第三国が文句をいう筋合いはない、こう考えていたのだと思います。

 そして南進の理由の二つ目は、東南アジアの資源を日本自らが獲得しようという意図にありました。--- 日中戦争がなかなか終わらないのであれば、戦争継続のための資源を自力で南方に求める必要がある、こう考えるわけです。---

--- 蒋介石のアメリカに対する説得、いやむしろ、脅かしはなかなか効果的だったのではないですか。まずは、共産党の勢力が中国に広がるよと脅す。アメリカはもちろん、日本やドイツなど、アメリカの目から見た場合の全体主義国は嫌いでしたが、同時に、共産主義も嫌いでした。---そのうえで、日本は南進を考えているようですよ、その矛先はイギリス帝国にとって大変大事なシンガポールに向けられますよ、と第二の脅しに入る。

 アメリカはこの時点で第二次世界大戦に参戦していませんから、ドイツとイタリアに対して戦っているのはイギリスとフランス、まあ、フランスは降伏してしまったから、イギリスしかいない。そのイギリスの東アジア支配の拠点であるシンガポールが陥落してしまっては、かなりマズイ。アメリカもさぞや心配になったのでしょう。そして、最後の極めつきが、中国にパイロットと飛行機を援助してくれれば、中国を基地として日本の海軍基地を爆撃できますよ、そうすれば、アメリカの心配している日本海軍の戦力が殺がれるでしょう、と。ああ、見事な脅しと誘惑です。

 事実、中国は、40年11月、ワシントンに中国空軍作戦の代表者を送り込んで、41年までに飛行機500機をパイロット付きでくださいとアメリカに申し入れていました。---

 ここまでのお話の表面だけを理解すると、なんだか、英米ソなどの国々が中国を援助したから日中戦争は太平洋戦争に拡大してしまったといったような、非常に他律的な見方、つまり、他国が日本を経済的にも政治的にも圧迫したから日本は戦争に追い込まれた、日本は戦争に巻き込まれたのだ、といった考え方に聞こえるかもしれません。しかしそれは違います。日本における国内政治の決定過程を見れば、あくまで日本側の選択の結果だとわかるはずです。---

 ヨーロッパの戦争にずっと不介入でいればよかったのですが、ドイツ軍の快進撃を前に日本側に欲が出てくる。東南アジアにはヨーロッパの植民地がごろごろしている、植民地の母国がドイツに降伏した以上、日本の東南アジアへの進出をドイツに了解してもらわなければならない、こう考えるのです。また、ドイツ流の、一国一党のナチス政党による全体主義的な国家支配に対する憧れが日本にも生まれてくる。--- こうした国民の気運を背景に、日中戦争勃発時の首相であった近衛文麿が新体制運動に着手し、40年7月22日、再び首相の座につきます。この2ヶ月後、ドイツ、イタリアとの三国軍事同盟が締結される。

 この頃陸軍のなかでは、次にどうすべきか意見が分かれていました。---

 さてさてここで問題になるのは、当時のアメリカが、日中戦争を本気で仲介する考えを持っていたかどうかということです。--- 日米交渉の始まる41年4月の時点では、同年6月22日に勃発するドイツとソ連の戦い、独ソ戦争はまだ始まっていません。ということは、ドイツ軍の攻撃を全面的に引き受けていたのはイギリスだけだったのです。武器貸与法ができるまでイギリスは、なんと、金を払ってアメリカから武器を購入していたわけです。この点についての、イギリス首相チャーチルとローズヴェルト大統領とのやりとりが面白い。--- 「 ・・・・・・ イギリスはアメリカの戦争を戦っているのです。アメリカ製の武器に対しイギリスにはもはや支払い続ける能力がないのです」

 チャーチルの脅しもなかなかのものです。--- 本来はイギリスとともにドイツを抑えるべき国はアメリカなのに、アメリカの代わりにイギリスが単独で戦っているのですよ、というぼやきですね。--- 

 つまり、私がここでいいたいことは、アメリカにとって41年4月というのは、晴れてイギリスに対して多くの武器を一斉に積出しはじめていたときであったということです。 また、海軍の大建艦計画もようやく始まったばかりでした。連合国の兵器庫と自ら位置づけるアメリカとしては、時間が要る。時間を稼がなければならない。ですから、ハル国務長官も、41年4月16日、正式に日米交渉に着手するわけです。アメリカに中国との和平の仲介をやらせようとした日本の陸軍省軍務局のもくろみは一定の妥当性があったといえます。

 戦争への道を一つひとつ確認してみると、どうしてこのような重要な決定がやすやすと行われてしまったのだろうと思われる瞬間があります。たとえば、41年7月2日の御前会議決定「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(以下、これを「要綱」と略します)がそうですね。

 ポイントは南部仏印進駐が決定されたことにあります。日米交渉による道を選択していた陸軍省軍務局はどうして反対しなかったのでしょうか。また、イギリス一国を相手にするのは了解していても、イギリスとアメリカ両方の海軍力・航空兵力を相手にするのはちょっと、と躊躇していた海軍省はどうして反対しなかったのでしょうか。---

 7月2日の前になにが起こったかを考えてみます。6月22日、独ソ戦争が勃発する。当時の日本は、この年、41年4月13日、松岡洋右外相がモスクワに飛んで、ソ連と中立条約を結んでいた。つまり、日本とソ連はお互い敵対的なことはしませんよという確約をしていた。松岡にとってみれば、ソ連の対中国武器援助だけでも止めさせることができて、これはとてもよい条約ができたものだと喜んでいたわけです。一方日本は、ドイツとすでに40年9月、三国同盟を結んでいる。日独伊ソというような、いわば四国同盟に近いものができて、やれやれ、これで英米などの資本主義国と対抗できるかな、と考えていました。---

--- ところが、松岡のプランは6月22日の独ソ戦勃発で崩れてしまう。--- 松岡はそれまでの態度を一変して、ならばドイツが攻撃している間に、日本もソ連を背後からドイツと一緒になって攻撃してしまおうといいだす。つまり、「北へ進め」との大号令をかける。--- そこで、このような急激な北進論にとまどったのが、陸軍省軍務局と海軍(海軍省と軍令部を含みます)でした。このグループは、えっ、今、ソ連を攻撃されては困る、日米交渉の線もまだ可能性はあるということで、陸軍省と海軍が中心となって、北方戦争論を牽制するように動く。

 具体的には、外務省と参謀本部が急に主張しだした北進論を抑えるために、南部仏印へ進駐しましょうと声をあげて、南進に言及するようにしたのです。彼ら、陸軍省と海軍の考えでは、南部仏印進駐をしたからといって、アメリカがなにか強い報復措置に出るとは全く考えていなかったのですね。--- 彼らは、日本の南部仏印進駐が実行されたのを見たアメリカが、すぐさま、7月25日、在米日本資産の凍結を断行し、8月1日には、石油の対日全面禁輸を実行するとは予想していませんでした。--- 

 それでは、なぜアメリカは迅速な反応をしたのでしょうか。この点については、アメリカのハインリックス先生という方の研究があります。--- アメリカは、とにかく、ドイツ軍300万人によって侵攻されたソ連が10月まで戦線を維持して敗北しなければ、翌年の春まで安泰だと考えました。というのは、ソ連には冬将軍という強烈な味方があったからです。---

 アメリカとイギリスは、41年9月28日、ソ連に対して軍事物資を送る協定をソ連と結びましたが、これも、とにかく2年春までソ連戦線が持ちこたえてくれればよいとの考え方でした。41年夏のアメリカにとって、ソ連が元気づけられることであればなんでもやったわけです。つまりアメリカは、日本の南進に対して強く報復することで、ソ連が日本を心配しないで済むように、そのために強い反応を示したといえます。

 1941年9月6日の御前会議の際、天皇を説得するときに、軍令部総長がいった言葉を思いだしてください。しばしの間の平和の後、手も足も出なくなるよりは、7割から8割は勝利の可能性のある緒戦の大勝に賭けたほうがよいと軍令部総長は述べていました。緒戦というのは、最初の戦い、速戦即決の最初の部分の戦いという意味です。今から考えれば日米の国力差からして非合理的に見えるこの考え方に、どうして当時の政府の政策決定にあたっていた人々は、すっかり囚われてしまったのでしょうか。

 この点を考えるには、軍部が、37年7月から始まっていた日中戦争の長い戦いの期間を利用して、こっそりと太平洋戦争、つまり、英米を相手とする戦争のためにしっかりと資金を貯め、軍需品を確保していた実態を見なければなりません。---

 一橋大学の吉田裕先生の研究によれば、1940年の1年分を例にとってどれだけが日中戦争に使われ、どれだけが太平洋戦争への準備として使われたかといえば、なんと3割しか日中戦争に使われていない。残りの7割は、海軍は英米との戦争のために、陸軍はソ連との戦争を準備するために使っている。---

--- つまり日本側は、表向きは日中戦争ですよ、といいながら、太平洋戦争に向けて、必死に軍需品を貯めていたことになる。よって、戦いの最初の場面で、いまだ準備の整っていないアメリカを不意打ちにして勝利をおさめれば、そのまま勝てるかもしれないとの考えが浮かぶ。---

--- 日本側が、41年12月の開戦までに一生懸命ぎりぎりまで準備した飛行機と予算を使って打って出たとしても、その瞬間は、確かによいバランスで戦争をすることはできる。しかし、やがて圧倒的な潜在力に押し切られるわけですね。---

--- 英米二国の海軍を両方同時に相手にするだけの力は日本の海軍にはない。ならば、どうすべきか。山本が考えたプランについて、防衛相防衛研究所の相澤淳先生が解明した事実に基づいてお話ししましょう。山本は、相手国の主力戦艦が停泊する港に対して奇襲攻撃をしかけ、停泊している艦隊を飛行機による魚雷攻撃で一網打尽にする作戦を、もともとは日露戦争のときの体験から思いついたそうです。--- 港のなかに敵艦隊がごろごろしているというのは、チャンスなのではないか。こう山本は思いつく。そして、戦艦や空母を沈めてしまえば、新たに建艦をするためには、当時であれば1年から2年かかると思われていた。アメリカが建艦に手間取っている間に、日本側は、日本列島と朝鮮半島、台湾と、周辺の東南アジアの地域を哨戒するのに十分な飛行場を各地に建設し、そのネットワークを活かして制空権を確保すれば、自ずと、その下を通る船舶の安全も確保できると考える。---

 


 

 いよいよこの後、今となっては「無謀」としか言いようのない「真珠湾攻撃」に走ります。

 あと少しを残すだけになりましたが、最後を丁寧に扱いたいので、一旦、ここで切ります。 

 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ⑥

4章  満州事変と日中戦争  日本切腹、中国介錯論

--- 満州事変のほうは、1931(昭和6)年9月18日、関東軍参謀の謀略によって起こされたもので、日中戦争のほうは、37年7月7日、小さな武力衝突をきっかけとして起こったものです。---

 満州事変のほうは、2年前の29年から、関東軍参謀の石原莞爾らによって、しっかりと事前に準備された計画でした。関東軍というのは、日露戦後、ロシアから日本が獲得した関東州(中心地域は旅順・大連です)の防備と、これまたロシアから譲渡された中東鉄道南支線、日本側はこの鉄道に南満州鉄道と名前をつけましたが、この鉄道保護を任務として置かれ軍隊のことをいいます。その鉄道線路の一部を自ら爆破し、それを中国側のしわざだとして、中国北東部(満州)のなかでも、遼寧省の奉天(現在の瀋陽)にあった張学良の軍事的根拠地など、大切なポイントを一挙に占領してしまう。

 張学良は、このとき、東三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)の政治的軍事的な支配者であり、南京を首都とする国民政府の蒋介石主席ともよい関係を築いていた若きリーダーでした。---

--- 満州事変の計画性に対して、1937年7月7日に起きた日中戦争のほうは偶発的な事件、盧溝橋事件をきっかけにしていました。---

--- パリ講和会議のところで出てきた松岡洋右---かれはなんとその後、外交官を辞め、立憲政友会に属する衆議院議員になっていました。松岡は、1930(昭和5)年12月からの通常国会で代議士として初めての演説を行うのですが、そこは松岡のこと、この後、世のなかを席捲するフレーズ、「満蒙は我が国の生命線である」とやったのです。---

 松岡の主張は、第一に、経済上、国防上、満蒙は我が国の生命線(Life line)であること、第二に、我が国民の要求するところは、「生物としての最小限度の生存権」であること、にありました。---

 当時、中国では清朝が倒れ、新国家が誕生しようとしていた頃でした。この新中国に対して、今後どのように金を貸して、資本を投下するか、イギリスは米独仏の三ヵ国を誘いつつ、自らの強力なリーダーシップを維持しようとはかっていました。そのイギリスの動きに対して、日本とロシアは反発していたわけですね。---

 ところが---1917年にロシアでは革命が起きて、なんとなんと、政治体制が帝政から共産主義に変わってしまう。そして、帝政時代のロシアが日本と結んでいた秘密条約などは、他の列強などとロシアが結んでいた秘密条約とともに、すべて、新たにできた国家であるソ連政府によって世界に暴露されてしまう。南満州と東部内蒙古全体を、日本の勢力範囲であるとお互いに認めあっていた国が消滅してしまったわけです。---

 さらに清朝が倒壊して、中華民国が成立します。ロシアのみならず中国も、政治体制が変わってしまう。そうなった場合、条約上の権利のなかでも、たとえば、旅順・大連の租借や、中東鉄道南支線(これが南満州鉄道になるわけです)の譲渡などの、大きな項目、明確なゆるぎようのない権利などはさすがに安泰ですが、日本と中国との間で、条約が締結された当時から双方の議論が嚙みあっていなかった項目などについては、その解釈の違いがだんだんと目立つようになってしまうのです。解釈の違いをグレーゾーンなどと呼んでおきます。--- 満蒙問題の場合、そのようなグレーゾーンはなんであったかといえば、大きなものが二つありました。一つは日本側が中東鉄道南支線に、つまり南満州鉄道の沿線に鉄道守備兵を置く権利です。もう一つは、満鉄の併行線になりうる幹線と支線を中国側は敷設できないとの取り決めです。つまり、鉄道守備兵設置権と満鉄併行線禁止条項の二つでした。

 しかし、中国は日露戦争直後から、このような権利はそもそもロシアにさえ与えていなかったのだから、ロシアから日本に譲渡される根拠がない、と強く主張していたのです。---

 こうしたグレーゾーンは二国間で締結された条約などではよくある話で、その時々で、両国の政府が解釈をめぐって協調的に話しあうことで、双方の利益になるように解決される場合が大部分です。---

 満州事変が関東軍参謀の謀略によって起こされるまでは、日本政府のなかにも、外務官僚などを中心に自覚がありました。日本が主張する満蒙特殊権益は、日本が確信しているほどには外国勢力から承認されていないのではないか、という点への自覚です。---

 松岡洋右が「満蒙は我が国の生命線」と議会で大演説をぶった少し後の、1931(昭和6)年3月3日、参謀本部第二部(情報を扱う部署)の部長であった建川美次は、次のような内容の演説を行いました。---

 ここで、建川は、満鉄併行線禁止について、中国側が取り決めを守らないといって憤慨しています。グレーゾーンの解釈を、双方の話しあいによってではなく、自ら潔白で相手方は条約違反者であるといって、白か黒か黒白を決めようとする態度がうかがえます。---

 こうした講演会は、宣伝にかける陸軍側の異様な意気込みもあり、満州事変勃発後には、1ヵ月たらずの間に、全国の人口6500万人のうち、165万5410人が1866回の講演会に参加したとの憲兵の記録があります。---

 ここで満鉄会社について説明を加えておきましょう。満鉄というと、鉄道の管理にあたる小さな会社のようなイメージがありますが、それは違います。この会社は、1906(明治39)年6月、まずは鉄道運輸業を営むために設立されましたが、同じ年の8月、運輸業の他に、鉱業、ことに撫順と煙台の炭鉱採掘、水運業、電気業、倉庫業、鉄道附属地の土地・家屋の経営などを政府から任されることになりました。

 このように国家関連の投資が大部分を占めるという状況により、満蒙については国民から批判が起きにくい構造ができていました。---

 ここで、再び石原莞爾に登場してもらいましょう。--- 敗戦国ドイツに赴いた石原は、明治の日本陸軍がお手本にしたドイツがなぜ大戦に敗れてしまったのか、真面目に研究を重ねました。--- 当時、ドイツの敗戦は、敵の全主力を短期決戦によって包囲殲滅する方式を徹底してとらなかったことに起因すると見られていました。しかし石原は、そうではなく、この大戦が短期決戦の殲滅型の戦争ではなく、長期持久型の消耗戦争であったことをドイツ側が認識しなかった点に求めます。---

 石原の報告は二つの主張からなっていますね。一つは、日本とアメリカがそれぞれの陣営に分かれて、航空機決戦を行うのが世界最終戦争であると。そして二つ目は、対ソ戦のためには、中国を根拠地として中国の資源を利用すれば、20年でも30年でも持久戦争ができる、このような考えを主張しています。---

--- 軍人たちの主眼は、来るべき対ソ戦争に備える基地として満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること、そして、対ソ戦争を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得する、というものでした。国際法や条約に守られているはずの日本の権益を、中国がないがしろにしているかどうかは、本当のところあまり関係がない。--- 国民のなかにくすぶる中国への不満を条約論・法律論でたきつけますが、実のところ、軍人たちにとって最も大切な問題は、対ソ戦と対米戦を戦う基地としての満蒙の位置づけだったのです。---

 満州事変が謀略によって起こされたときの内閣は、民政党を与党とする政党内閣である、第二次若槻礼次郎内閣でした。幣原喜重郎を外相にすえた若槻内閣のことですから、この事件が関東軍によって起こされた陰謀ではないかとの正確な判断が最初からありました。---

 それでは、なぜ内閣は腰が引けたのか。つまり、軍を強く抑えられなかったのか。現在の研究からわかっているのは、若槻内閣が出先軍の造反に対して、きっちりと結束していなかったことが一つ挙げられます。--- 今の世のなかは、特定の思想信条を持っているからといって、国家や国家機関によって危害を加えられたらり拘束されたりすることは、まず、ないといってよいでしょう。現在「その筋」といえば、暴力団のことを指しますが、当時は、軍、そのなかでも海軍ではなく陸軍と警察を指すのが一般的でした。つまり、戦前においては、「その筋」の人々がなにをやらかすのかわからない、怖い存在であると思われていた。--- 実際、--- 井上準之助元蔵相が、井上日昭率いる右翼団体である血盟団員によって殺害されています。また政友会総裁で、第二次若槻内閣の後、内閣を組織した犬養毅首相も、32年6月、5・15事件で命を落としました。ある立場を表明するのが、まさに命がけの時代だったのです。---

 満州事変が起きたとき、国民政府主席で行政院長であった蒋介石は、江西省の南昌というところで、この地域を本拠地とする中国内の共産党の紅軍の討伐に出かけていて、首都である南京を留守にしていた。--- 蒋介石は考えた。日本側には、いまだ幣原外相がいる。彼は信頼にあたいする外相だけれど、どうも日本と中国、二国間の話し合いで事変の解決をはかりたいと考えているらしい。けれども、自分がどのようなよい条件で、日本側と妥結したとしても、自分の敵である共産党、広東派は、蒋介石が中国を犠牲にして日本と妥協した、つまり売国奴といいつのるだろう。だから、自分は、事件の解決を国際的な場、国際連盟に委ねる、このように考えるのです。---

 9月21日、満州事変は、中国が連盟に訴えたことで、その処理が連盟に委ねられることになりました。---

 当時のヨーロッパでだんだんと明らかになってきた、イギリス・フランスとドイツの対立、これは、アメリカ発の世界恐慌の結果、ドイツ政府がこれまでイギリスやフランス政府に支払ってきた第一次世界大戦の賠償金支払いが遅れたことにより生じた対立ですが、イギリスとしてはこちらに対処したい。ですから、関東軍や日本がよっぽどひどいことをしなければ、イギリスは東アジアの秩序は日本に依拠して確保したかった。---

 基本的には、このような観点から発出された調査団ですから、関東軍や日本側がよっぽどひどいことをしなければ、日本側有利の報告書が書かれたことでしょう。---

 さて、日本中が注目していた報告書ですが、32年10月2日、スイスのジュネーブと、北京、そして東京で、報告書の全文が公表されます。まず、日本側に有利な部分は、経済的な権益に配慮したところでしょう。--- ただ、9月18日の日本軍の軍事行動は、合法的な自衛の措置とは認められないと書かれていました。--- そして、日本は満州地域における「中国的特性」を容認しなければならないと求めていました。簡単にいえば、日本は満州が中国の主権下にあることを認めなさいということですね。

 吉野作造といえば、大正デモクラシーを支えた知識人ということは知っていますね。---

 吉野は、土地も狭く、資源に恵まれない日本が、「土地及び資源の国際的均分」を主張するのは理屈として正しい、とまず述べます。しかし、土地や資源の過不足の調整は、「強力なる国際組織の統制」によってなされれるべきだ、「渇しても盗泉の水は飲むな」と子供の頃から日本人は教えられてきたはずではなかっのか、と嘆きます。

 この時点で政党が戦争反対の声を挙げられなかった理由は、大きく二つの流れで説明できると思います。一つには、中国に対する日本の侵略や干渉に最も早くから反対していた日本共産党員やその周辺の人々が、1928年3月15日、一斉に検挙されるという3・15事件が起こり(488人起訴)、その翌年の4月16日に、3・15事件の時点では逃亡できた共産党の大物党員などの検挙がなされた4・16事件が挙げられます(339人起訴)。ともに、田中義一内閣でなされたことです。1925年に成立していた、いわゆる男子普通選挙法による初めての衆議院議員選挙が28年2月にあり、その際、共産党が公然と活動を開始したことに対し危機感を強めた田中内閣が検挙を断行する。つまり、戦争に反対する勢力が治安維持法違反ということで、すべて監獄に入れられてしまっていたことですね。---

 二つには、共産党に次いで、おそらく戦争に最も反対すると思われた合法無産政党の内部事情が関係してきます。--- 全国労農大衆党は「服務兵士家族の国家保障」を選挙スローガンの一つに掲げます。--- 満州事変に出征した兵士や現役として兵営に徴集された兵士が、それ以前に勤めていた会社や商店から解雇されないように、また出征中・在営中の賃金を保障されるように雇用主に求めたものでした。--- 当時、最も強く圧力をかけて、雇用主からの保障を勝ち取っていたのは、党の陸軍省だったのです。つまり、全国労農大衆党は、「帝国主義戦争反対」をスローガンに掲げて選挙を戦ったのですが、兵士の待遇改善を考えると、どうしても陸軍側を怒らせるスローガンは通りにくい。よって戦争の後押しにもなる兵士家族jの保障を、ともにスローガンとしてしまうのです。---

 吉野作造のお話でいいたかったことは、リットン報告書が発表された1932年10月の時点で、日本社会のなかに、どれほど苦しくとも不正はするまいといった古く良き時代の常識や余裕がなくなっていて、しかも日本側には、日露戦争に際して日本が世界に向かって正々堂々と主張できたような、戦争を説明するための正当性がどうも欠けている、そのような状態にあったということです。

 ただ、当時の日本人が、世界が日本の主張を認めないならば、国際連盟を脱退してしまうぞ、というような二つに一つという選択肢だけを考えていたかというと、実はそうではない。当時の人々が、一見、勇ましいことを述べているときには注意が必要で、軍部の力を怖れて、表だけは強そうなことをいったりすることがありました。---

 連盟脱退のときの外相は内田康哉でした。--- 満州国承認の決意を表明した際、「国土を焦土にしても」という強い言葉を使う。--- このとき内田としては、満州国に関する問題で日本が強く出れば、おそらく中国の国民政府のなかにいる対宥和派の人々が日本との直接交渉に乗りだしてくるだろう、そういうもくろみがあったのです。---

 この、天皇に対する内田の奏上(天皇に対して申し上げるという意味)を聞いて、とても不安に思った人物がいました。それは、牧野伸顕内大臣でした。--- その牧野は自分の日記に「お上は恐れながら、全然ご納得あそばされたるようにあらせられず」と書いています。---

 内田のやり方に不安を感じていたのは天皇や牧野だけではありませんでした。パリ講和会議で牧野と組んで日本の正当性をアピールしていた、あの松岡洋右もその一人でした。--- 松岡が内田外相に対して、そろそろ強硬姿勢をとるのをやめないと、イギリスなどが日本をなんとか連盟に留まらせるように頑張っている妥協策もうまくいかないですよ、どこで妥協点を見だすか、よく自覚されたほうがよいですよ、と書いて送った電報が残っています--- 。

 松岡だけが妥協しろといっていたのではなくて、たとえば、連盟の会議のために陸軍から派遣されていた建川美次もまた、陸軍大臣に宛てた秘密電報で、32年12月15日、「この際、大きく出て、彼らの加入に同意せられてはいかがかと存す」と書いていました。---陸軍の随員までもが、妥協しろと書き送っていた点に注意してください。---

 内田の作戦をダメにしたのは、もちろん、昭和戦前期においていつも問題を起こす問題児・陸軍でありました。1933年2月、陸軍は、満州国の南部分、万里の長城の北部分にあたる中国の熱河省に、軍隊を侵攻させたのです。---

--- 陸軍の頭では、満州国内にある日本の軍隊が、治安維持のために満州国内の一地域である熱河地方に軍隊を動かすだけだ、と理解していた。天皇としても、そのように説明されれば、なんの疑念も生じなかったでしょう。ただ、そこはさすがに海軍の誇る大秀才であった斎藤首相が、とんでもないことを陸軍はやってしまったのかもしれないと気づくわけですね。---

--- 33年2月というのは、まさに、連盟が和協案を提議して、日本側に妥協を迫っているときでした。その連盟の努力中に、れっきとした中国の土地である熱河地域に日本軍が侵攻することは、「第15条による約束を無視して戦争に訴えたる」行為、つまり、連盟が努力している最中に新しい戦争を始めた行為そのものに該当してしまう。---

 33年2月8日、齊藤首相は天皇のところに駆け込み、熱河作戦を決定した閣議決定を取り消し、また、天皇の裁可も取り消してほしいと頼みます。--- このとき、齊藤首相と天皇の考えのとおりになっていれば、日本の歴史はまた別の道を歩んだかもしれないと私は思います。しかし、侍従武官の奈良や元老の西園寺公望の考えは、消極的なものでした。もしここで天皇が一度出した許可を撤回したとなれば、天皇の権威が決定的に失われる、そしてもっと困ったことには、おそらく、陸軍などの勢力は天皇に対して公然と反抗しはじめるだろう、こう考えるのですね。そして、侍従武官や元老は天皇に対して、齊藤首相の要望を許可してはいけないとアドバイスする。---

 クーデターを怖れる元老や宮中側近に阻まれた斎藤首相は、やむなく、2月20日の閣議で、このままでは連盟から経済制裁を受ける怖れが出てくること、また除名という日本の名誉にとって最も避けたい事態も考えられるとして、連盟の準備していた日本への勧告案が総会で採決された場合には自ら連盟を脱退してしまう、という方策を選択することになりました。---

 それでは、いよいよ日中戦争に向けた話に入ります。---

 一つ目に考えたいことは、当時の社会のなかで軍部がどのように見られていたかということです。---

--- 1930年代の産業別の就業人口を見てみますと、農業に従事する人は46・8%もいました。国民の約半分が農民だったのですね。ですが、1928年から政党内閣のもとで行われた、25歳以上の男子に認められた、いわゆる普通選挙によってなされた選挙は3回あったのですが、その農民が望んでいた政策は、普選を通じてもなかなか実現されなかった。---

--- 政友会の選挙スローガンなどに農民救済や国民保健や労働政策の項目がなかったのに対して、陸軍はすごいですよ。たとえば、農民救済の項目では、義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護をめざすなどの項目が掲げられ、労働問題については、労働組合法の制定、適正な労働争議調停機関の設置などが掲げられていた。戦争が始まれば、もちろん、こういった陸軍の描いた一見美しいスローガンは絵に描いた餅になるわけですし、農民や労働者の生活がまっさきに苦しくなるのですが、政治や社会を変革してくれる主体として陸軍に期待せざるをえない国民の目線は、確かにあったと思います。---

 陸軍の統制派が、このように、国民の生活の保護などを積極的に言い出した理由は、第一には、来るべき戦争に対して国民はどうすればよいのかを軍部なりに分析した結果でした。--- 今後の戦争の勝敗を決するのは「国民の組織」だと結論づける。就業人口の半数を占め、兵士の供給源である農民、これらの人々をどううまく組織するか、この点に戦争に勝利するカギがあると見ていたのですね。---

--- 日本が中国と対立を深めた要因として、もちろん経済的な問題もありました。日本は満州国をつくったわけですが、その後、万里の長城以南の中国本土と日本の貿易が、がくんと落ち込むわけです。本来、中国の華中地域、上海や杭州などは、満州や中国の華北地域との密接な経済関係のうえに繁栄していた。--- 人為的に、華北と満州地域を日本に奪われた華中の経済力は落ち込んでしまう。ですから、中国が日本製品をボイコットしたという話ではなく、日本の対中貿易もがくんと落ち込まざるをえない。---

 このような背景をしっかり考えれば、日本の対中国貿易が減ったのは日本自身の政策が悪かったとわかるはずです。しかし、日本はこのような背景を国民に説明することなしに、プロパガンダによって「貿易が10ポイントも減った。これは中国政府が日本製品をボイコットしているからだ」と宣伝し、中国に政策を変えろと要求していました。

 日中戦争は偶発的な戦闘から始まります。この戦争がなぜ拡大したのか。--- まずは中国の外交戦略から見てゆきましょう。蒋介石は軍のトップとして中国国民政府を率いた人でした。彼は、軍事に関しては自ら行うわけですが、外交などの分野では、外務官僚といった専門のキャリアを持った人だけではなく、優れた才能を持つ人物を抜擢したことでも知られています。

 たとえば、1938年に駐米国大使となった胡適は、北京大学教授で社会思想の専門家でした。ものすごく頭のよい人。---

 日中戦争が始まる前の1935年、胡適は「日本切腹、中国介錯論」を唱えます。--- それでは、当時の世界に対する胡適の見方を見てゆきましょう。

 まず、中国は、この時点で世界の二大大国になることが明らかになってきたアメリカとソ連、この二国の力を借りなければ救われないと見なします。日本があれだけ中国に対して思うままにふるまえるのは、アメリカの海軍増強と、ソビエトの第二次五ヵ年計画がいまだに完成していないからである。海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍力とソビエトの陸軍力しかない。

 このことを日本側はよく自覚しているので、この二国のそれぞれの軍備が完成しないうちに、日本は中国に決定的なダメージを与えるために戦争をしかけてくるだろう。つまり、日米戦争や日ソ戦争が始まるより前に日本は中国と戦争を始めるはずだと。--- 胡適の考えは続きます。これまで中国人は、アメリカやソビエトが日本と中国の紛争、たとえば、満州事変や華北分離工作など、こういったものに干渉してくれることを望んできた。けれどもアメリカもソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、つまり、土俵の内側に引き込むにはどうすべきか ─── それを胡適は考えたのです。---

 胡適は「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、2、3年間、負け続けることだ」といいます。このような考え方を蒋介石や汪兆銘の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。日本でしたら、このようなことは、閣議や御前会議では死んでもいえないはずです。これだけ腹の据わった人は面白い。---

 こうした胡適の論は、もちろんそのまま外交政策になったわけではなく、蒋介石や汪兆銘などから、「君はまだ若い」などといわれて、抑えられていたでしょう。しかし、このようなことを堂々と述べていた人物が、駐米大使となって活躍する。私が、こうした中国の政府内の議論を見ていて感心するのは、「政治」がきちんとあるということです。---

--- しかし、いま一人、優るとも劣らない迫力のある、これまたものすごく優秀な政治家を紹介しておきましょう。この人物の名前は汪兆銘といいます。この人は一般的には、日本の謀略に乗って、国民政府のナンバー2であった蒋介石を裏切り、1938年末、今のベトナムのハノイに脱出して、のちに日本側の傀儡政府を南京につくった人物、つまり、汪兆銘政権の主席となって、南京・上海周辺地域だけを治めた人として知られています。

 汪兆銘は、35年の時点で胡適と論争しています。「胡適のいうことはよくわかる。けれども、そのように3年、4年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう」と反論します。--- 胡適の主張する「日本切腹、中国介錯論」はダメだといって、とにかく、中国は日本と決定的に争ってはダメなのだ、争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下になってしまう、そのような見込みを持って日本と妥協する道を選択します。

 これまた、究極の選択ですね。---

 ここまで覚悟している人たちが中国にいたのですから、絶対に戦争は中途半端なかたちでは終わりません。日本軍によって中国は1938年10月ぐらいまでに武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていました。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態なのです。しかし、中国は戦争を止めようとはいいません。胡適などの深い決意、そして汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。 

 


 

 なるほど ・・・・・・・・。

 私は、中国に対する印象を、周りの大人たちが口にする情報からつくっていました。

 私が仕入れていた情報は、偏ったものであったことがよく分かりました。

 中国について、もっと研究したいと思います。

 そして、

 「今の世の中は、特定の思想信条をもっているからといって、国家や国家機関によって危害を加えられたり拘束されたりすることは、まず、ないといってよいでしょう。現在、「その筋」といえば、暴力団のことを指しますが、当時は軍、・・・・・ 」の箇所です。

 日本の現在は、安心していられない状況になってきているように思います。 

 「美しい日本をつくる」という美辞麗句こそ最も警戒しなければならないスローガンだということを、私は言い続けます。

 

 

 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ⑤

3章  第1次世界大戦  日本が抱いた主観的な挫折

--- この戦争は、セルビア、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国とオーストリア、ドイツ、トルコなどの同盟国が戦った世界規模の戦争で、開戦は1914(大正3)年7月28日。ドイツが休戦協定を受け入れ、戦争が終結したのは1918年11月11日のことでした。---

 まずは戦死者と戦傷者の数を、世界と日本の場合とでくらべてみましょう。世界全体で戦死者が約1千万人、戦傷者が約2千万人出ましたが、日本の場合は青島攻略戦での戦死傷者が1250人とだけ記録されています。ものすごく違っていますね。---

 ですから、この戦争でなにが変わったかという点について、世界の場合と日本の場合とで分けて考えてみましょう。まず、世界という点では、ヨーロッパで長い伝統を持っていた三つの王朝が崩壊してしまった。これが最も大きな変化といえます。一つ目がロシア。連合国の一員であったロシアでは、長引く戦争の混乱から国内に革命が起きてロマノフ王朝が崩壊します。--- 二つ目がドイツ。--- 18年11月、国内で労働者による武装蜂起が起き、皇帝だったヴィルヘルム2世が逃亡した結果、ホーエンツォレルン朝が崩壊します。三つ目がオーストリア。--- 敗戦によってハプスブルク帝国が亡くなります。---

  日本においては、天皇を中心とした立憲君主制による統治はゆるぎませんでした。けれども、幼少期にかかった病気の影響から元来病弱であった大正天皇の病状のさらなる悪化や、シベリア出兵(ロシアがドイツと単独に講和条約を結び、連合国を離脱したことで、戦線の崩壊を怖れた連合国側がロシアの内戦に干渉戦争をしかけたもの。日本は最も積極的に参加)が噂されるなかで起きた米価高騰に対し各地で起きた米騒動の状況を見て、元老・山県有朋が原敬を首相にする決意をしたことは最も大きな変化でした。これまで首相を天皇に推薦する際、最も力を持っていた山県は、政党内閣の誕生に反対していました。しかし、内外の状況の悪化を見て、原を首相とし政友会を与党とする政党内閣を誕生させることもやむをえない、と考えるようになったのです。---

--- あまりに犠牲の多かった戦争だったので、戦争が二度と起こらないような国際協調の仕組みをつくろうということで、1920年、国際連盟が設立されました。---

 戦争の影響の二つ目は、帝国主義の時代にはあたりまえだった植民地というものに対して批判的な考え方が生まれたことです。植民地獲得競争が大戦の原因の一つとなったとの深い反省からです。--- 旧ドイツ領植民地を連合国側が処分するににあたっては、国際連盟がそれぞれの連合国に対して、その地域の統治を委任するというかたちをとることにしました。事実、日本がこの戦争で獲得した赤道以北の旧ドイツ領の南洋諸島などは、委任統治権を日本に与えるというかたちがとられました。---

 日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島を、日露戦争で関東州(旅順・大連の租借地)と中東鉄道南支線(長春・旅順間)、その他の付属の炭鉱、沿線の土地を獲得し、さらに日露戦争の5年後の1910(明治43)年に韓国を併合しました。そして、第一次世界大戦では、山東半島の旧ドイツ権益と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を得たのです。あいかわらず着々とした獲得ぶりです。---

--- 欧米の帝国主義国であるイギリス、フランス、ロシアのケースを考えてみましょう。他の帝国主義国はどのような理由で植民地を拡大することが多かったのか。--- 海外の植民地を、国内の過剰人口のはけ口として、また国内の失業問題の解決策として用いるといった発想で、社会政策的な理由から植民地の獲得がなされる場合です。ビスマルクやヴィルヘルム2世時代のドイツなどがこのような政策をとりました。このような例にくらべると、日本の場合は、貿易のため布教のため社会政策のためというよりは、第一には安全保障上の考慮というものが大きく働いていたといえそうですね。このような発想で植民地を支配していた日本という国は、ピーティー先生のいうとおり、確かに珍しいのかもしれない。---

 実はこの第一次世界大戦から、みなさんが海外に遊びに行ったりするような島々が、列強の国々の念頭に置かれるようになるのです。アメリカはあまり植民地を持たない国だったのですが、1898年の米西戦争という、スペインとの戦争でフィリピンとグアムを獲得します。そしてハワイ、サモアも併合する。日本とアメリカでは、太平洋の反対側の国を恐ろしいと思うかどうかという点で、アメリカのほうが日本よりも早くそう思った可能性がありますね。---

 どうしてこのような怖れが広がったかといえば、その根には、前年の1906年4月18日、サンフランシスコで起こった大地震がありました。サンフランシスコにはチャイナタウン(中国人街)がたくさんあって、大勢の中国人がいました。そして中国からアメリカへ渡った移民たちはアメリカ人労働者より低賃金で喜んで働くという点でアメリカ社会から敵視されていて、差別的な状況下で暮らしていました。大地震が起こったとき、アメリカ人は大きな恐怖に襲われて、チャイナタウンの中国人が襲ってくるのではないかと考えるのです。このような雰囲気のなかで大地震が起こったために、くわしい数値は不明ですが、チャイナタウンの中国人に対する暴行と略奪が起こりました。そして同じ現象が日本でも生じる。1923(大正12)年9月1日に起きた関東大地震の際、中国人や朝鮮人に対する虐殺事件が起きました。その背景には「ふだん虐げられている朝鮮人が日本人を襲ってくるかもしれない」との根拠のない流言がありました。数千人の朝鮮人と約200人の中国人が犠牲になったといいます。アメリカと日本はともに大地震によるウォー・スケアを体験した国だった。

 カリフォルニア州の白人から目れば、中国人も日本人も同じ東洋人です。--- カリフォルニアでは、日本人移民に対して、低賃金で働き、アメリカ社会の一体性を混乱させる者と決めつけ、06年には日本人学童の公立学校への入学拒否、07年には日本人移民を排斥する条項(ハワイ、メキシコ、カナダなど米国本土以外を経由した日本人移民を排斥する条項)を含む連邦移民法も可決されてしまいます。ロシアを打ち負かした好戦的な国家というイメージが、急速にアメリカ社会のなかでふくらんでいったことがわかるでしょう。---

 第一次世界大戦が日本に与えた影響は、おそらく第二次世界大戦の次、もしくは第二次世界大戦と同じくらい大きかった。---

 ヨーロッパは3千万単位の死傷者が出たのに、日本では千人単位。日本の死傷者は非常に少ない。--- ですがこの戦争の結果、日本国内においてはたくさんの「国家改造論」が登場して、とにかく日本は変わらなければ国が亡びる、とまでの危機感を社会に訴える人々や集団がたくさん生まれました。

 なぜ、このような強い危機感が戦後に生まれたのか。---

--- 日本が参戦する1914年8月の状況を、少しくわしく見てゆきましょう。第二次大隈内閣で、外相は加藤高明でした。--- 加藤外相は、幕末維新期から活躍していた政治家とは違い、東京帝国大学法学部を卒業し、まずは三菱に入り、その後に大蔵省を経て外務官僚となった人間です。つまり、明治国家が安定期に入ってからの世代でした。---

 駐英大使を務めたこともある加藤ですから、加藤が「日英同盟協約の予期せる全般の利益を防護する」との名目をドイツに対する最後通牒に書き入れ、ドイツとの戦争に飛び込んでいったとき、人々は、英国病の加藤だから仕方がない、と思ったのです。--- 実は日英同盟の名目で日本が参戦することに、イギリス側がまず反対するのです。---

---  イギリスにとって最も嫌なのは、対中貿易の利益が減ることです。日本が旧ドイツ領を占領するのは嫌ではない。---日本が中国に対してなんらか措置をとることで、中国に擾乱が起こることをイギリスは警戒した。---イギリスは、中国で南北の擾乱が起こることによって、上海・香港を拠点とする中国への貿易額が下がることが、なにより苦痛で心配だったわけです。---

 そしてアメリカも、日本の参戦にあたって、実はうるさいことをいっていたのです。日本がドイツに対して1914年8月23日、宣戦布告を行ったとき、アメリカはこういうことをいう。--- 「日本は戦争するのですか。わかりました。けれども、日本は中国でなにかしようとなどと思わないですね。領土拡張などはしない、とアメリカは考えていますよ」、と日本の行動を縛るコメントをしているわけです。また、--- 中国に内乱や革命などが起きたとき、日本はまずアメリカに相談してねと、こういっている。

 このようなアメリカ側の覚書が二国の政府間だけの秘密であればなんにも問題はなかったのです。しかし、ニューヨークからの特電として日本側の野党に知られてしまう。---

 自主独立、宣戦布告の権利、こうした基本的な日本の主権をアメリカが侵したのではないか、というのが政友会の政府批判でした。---

 野党であった政友会の議論は、むろん、政府を攻撃するための方策として、あえて宣戦布告をめぐる主権への、英米からの干渉と騒ぎ立てた側面はあります。ただ、1914年9月の臨時議会でのこの議論は、のちに、19年のパリ講和会議の際に、英米仏と日本との間で戦われた激論につながってゆくのです。---

 戦争が終わり、1919(大正8)年1月18日からパリ講和会議が始まります。---

 日本が批判をあびたのは山東問題のことです。日本は、1914年8月、「中国に還付するの目的をもって」といいながら開戦したのに、15年5月、21ヵ条要求を袁世凱につきつけて、山東に関する条約というものを無理矢理でっちあげた、と。--- 手紙文からは松岡の苦悩が伝わってくるようです。自分は頑張ってプロパガンダをした。けれど、他の人だって強盗を働いているのだから自分が咎められる筋合いはないという弁明は、「人をして首肯せしめるは疑問」、つまり本当に人を納得させることはできないといっている。---松岡は、日本政府に対してかなり批判的な気持ちを抱きながら、パリ講和会議での自分の職務を任じていたことがわかる。世界を説得できていないことを自覚しつつ報道係を務める。これはなかなかつらいことだったでしょう。---

 日本で一番伝統のある華族に生まれた若き貴公子・近衛は、パリで大いにぼやき、憤慨していました。引用した部分を要約しますと、こうなります。パリ講和会議に出てみると、理想だのなんだのいっても、しょせんは力の支配という鉄則はここでも貫徹しているようだ。内容の立派な人種平等案は、実力不足の日本が提出したがゆえに否決され、内容的に見てあまり感心しないモンロー主義(ヨーロッパの政争などから離れてアメリカ独自の道を追求しようとする考え方)などは、力のあるアメリカが提出したから連盟規約の条文として実現してしまった、と。---

 アメリカ大統領ウィルソンは、大戦が終結する前から、第一次世界大戦後の構想を考えていました。連合国の一員であったロシアが国内の革命のために連合国から脱落し、ロシア革命を率いたボリシェビキのレーニンとトロツキーは、帝政ロシア時代の秘密外交文書などを暴露します。連合国のイギリスやフランスや日本が、いかに帝政ロシアとの間で、戦後の植民地の再分割などについて、えげつない取り決めをしていたのかを暴いてしまったのです。---

 そのような状況を目にしたウィルソンは、連合国の戦争目的をあらたあめて理想化しなければ世界の人々を幻滅させてしまう、あるいはボリシェビキに負けてしまう、との危機感にとらわれます。その結果が、1918年1月の年頭のアメリカ議会において発表された、戦後世界はこうあるべきだとの理想、いわゆる、ウィルソンンの「14ヵ条」でした。その箇条のなかで最も有名なものが、民族自決主義でした。--- ただ、ウィルソンとともにアメリカ外交を担っていたランシング国務長官(日本の外務大臣にあたる職)が、1918年12月30日の日記に「この宣言はダイナマイトを積んでいる。決して実現されない希望を呼び起こす」と書いたように、世界各地の植民地の人々に大きな希望を抱かせることになりました。

 大きな希望を抱いた地域の一つの例が、日本統治下の朝鮮でした。ウィルソンは朝鮮に対して民族自決の原則が適用されるとは考えていませんでした。ランシングの懸念が現実のものとなります。朝鮮独立運動が起こったのです。1910(明治43)年以降、日本の植民地とされた朝鮮では、ウィルソンの意図を拡大解釈することで独立への希望をつなぎます。

 同時期の1919年、高宗という、大韓帝国時代の皇帝だった人物が崩御します。3月3日に予定されたお葬式を外形的なカモフラージュに使いながら、同年の3月1日を期し、数千から1万人以上の人々がソウルで独立運動を起こしたのです。---

 このときのことは、2007年に刊行された、朝鮮軍司令官であった宇都宮太郎という人の日記(『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記』宇都宮太郎関係資料研究会編、岩波書店)に書かれています。---

--- 宇都宮は運動の主導勢力を、天道教徒・キリスト教徒・学生をはじめとする「新進有意」(前途が楽しみな優秀で若い)の朝鮮人であると判断しており、これは研究史的にも正しい判断だと思われます。また、宇都宮は独立運動の要因を、日本が「無理に強行したる併合」に求め、併合後の朝鮮人への有形無形の差別に起因すると率直に書いていました。---

--- しかし、アメリカが欧州の帝国主義国間の抗争に利用されるのを怖れたアメリカ議会はウィルソンの説得に耳を貸そうとはせず、連盟とともに歩もうとするウィルソンを強く批判します。ウィルソンを批判する際にアメリカ議会がとった方法は、アメリカの世論に訴えるということでした。ここで日本と3・1運動が唐突に登場するのです。

 なかなかに煽動的な内容ですよ。議会はこういいます。ウィルソン大統領は、パリ講和会議でヴェルサイユ条約をドイツ側に呑ませるのに必死になっている。しかし、そのヴェルサイユ条約というのは中国を犠牲にして山東半島に対する日本の要求をすべて呑んだ不当な条約なのである。日本は山東半島を植民地と同様に支配するだろう。だが、日本の植民地支配というものは、朝鮮で起こった3・1独立運動によって明らかになったような、非常に苛酷なものである。このような苛酷な植民地支配を中国本土に及ぼそうとしている日本に対し、日本をヴェルサイユ条約調印国とするため、ウィルソンは日本に妥協したのである ─── 。

 このような批判がアメリカ議会でなされていることを知った日本側は、ひどく衝撃を受けました。--- パリ講和会議で日本側が負った衝撃や傷は、1930年代になってから、深く重くジワリと効いてくるのです。

 


 

 その当時の、首相や外交官や国民の気持ちは分かりましたが、だからといって、武力による力の誇示に走るのは思慮に欠けると思います。

 歴史の勉強が、不足していたのでしょうね。

 それは、日本だけでなく、世界の他の国々も含めて。 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ④

2章  日露戦争 朝鮮か満州か、それが問題
 
--- ロシアを相手に戦争をした日本は、この戦争にぎりぎりのところで勝ちました。その結果、日本は、欧米をはじめとする大国に、大使館を置ける国となったのです。当時のような時代では、大国に対して不平等な地位にある国は大使館を置くことはできず、公使館どまりです。--- 日清戦争の結果、アジアからの独立がまずは達成され、日露戦争の結果、西欧からの独立も達成された、ということができるかもしれません。日清戦争が1984年から始まり、日露戦争が1904年から始まったのですから、その間、ちょうど10年ということになります。10年の間に2回の戦争を行って、一つひとつ、独立という目標を達成していったというイメージでしょうか。いかにも真面目ですね。 
 
 さて、アメリカのスタンフォード大学にマーク・ピーティー先生という方がいますが、ピーティー先生は『植民地』という本のなかで、日本の為政者の間には、戦略的な思考とか、安全保障観の一致が広く存在していたと書いています。不平等条約を一つひとつ力で撃破してゆく、そうした方策への、政府の為政者の考え方の一致ということですね。ただ、ここで忘れてはならないことは、山県とシュタイン先生との間で話題となっていた、あの、日本にとっての朝鮮半島の重要性という点です。日清戦争で朝鮮半島の問題は解決したのではなかったか、普通は思いますよね。でも、解決されたのは朝鮮をめぐる中国と日本の関係であって、朝鮮をめぐるロシアと日本の間の問題ではなかったのです。
 
 日露戦争への過程を見ると、再び、朝鮮半島の問題が日本にとって悩ましい、島国としての安全保障観を大きくゆるがす問題となって迫ってくることがわかります。---
 
 日露戦争によって不平等条約の改正などが達成されるわけですが、戦争の結果としていちばん大きいのは、戦争の5年後の1910年(明治43)年、日本が韓国を併合し、植民地としてしまったことです。このことは、島国であった日本が、中国やロシアと直接接する韓半島(朝鮮半島)を国土に編入し、ユーラシア大陸に地続きの土地を持ってしまったことを意味します。---
 
 なお、ここまでのお話で朝鮮と呼称してきましたのは、朝鮮の正式の国号が大朝鮮国であったことから、これを略してこう呼んできたものです。朝鮮は、1897年に国号を大韓帝国と改めます。日清戦後、日露戦争前の時期においては、朝鮮というよりは韓国、朝鮮半島というよりは韓半島というように、当時の日本側でも呼んでいたのです。
 
 日露戦争はどのくらい大きな戦争だったのかということを、まずは確認しておきましょう。データの出典によって、数値はまちまちです。ほぼ1年半の間に、日本側もロシア側も約20万人以上の戦死者を出しました。---
 
 日清戦争後に、ロシア・ドイツ・フランス三国による三国干渉がなされ、日本側は下関条約で獲得した遼東半島を清国に返すという事態になった--- 三国干渉は日本にとってメンツがつぶれたというだけでなく、朝鮮と清、二つの国家が日本に対して、今後どういう態度をとるかという点で、大きな意味を持っていました。
  
 簡単にいえば、「日本は弱いじゃないか。ロシアのいいなりじゃないか」ということですね。朝鮮の朝廷内では、日本側に不満を持っていた勢力が閔妃(明成皇后)のもとに集まるようになります。また、朝鮮政府内にもロシアに接近しようとする親露派が多くなりました。このような転換は、1895年7月、日清戦争が終わって3ヵ月後にはもう起こってくるのですね。実にシビアに転換がなされる。---
 
 ということで、日清戦争の勝利で、朝鮮国内に日本の圧倒的な優位が確立されたかに見えたのは一瞬で、その後に続いた事態は、韓国の、近代国家への模索と、日本とロシアが韓国をめぐって均衡しているという状態です。
 
 日本に対して三国干渉をしてくれたロシアですから、日清戦争後の中国が、ロシアとよい関係に立ったことは予想できますね。このときの中国、つまり、清国ですが、その政治を動かしていたのは李鴻章でした。---
 
 1896年、ロシアの皇帝、ニコライ二世が戴冠式を行います。そこに李鴻章を招いて、どうも賄賂を贈った。その額がははんぱではない。--- 李鴻章の訪露をきっかけに、1896年6月、中国とロシアは「露清防敵相互援助条約」という秘密条約を結びます。内容は、日本が中国、あるいはロシアを攻撃した際には、ロシアと中国が一致して日本にあたるという、れっきとした対日攻守同盟でした。これは世の中に公にされない密約でした。
 
 この条約では、さらに、中国とロシアの間で、黒竜江・吉林省を通ってウラジオストックに通ずる中東鉄道(東清鉄道とも呼ばれます)の敷設権を、ロシアとフランスの銀行に与える条約も締結されました。---
 
--- 中国がロシアと手を組んで、中国とロシアの合弁会社によって中東鉄道とその南支線が敷設されてしまえば、--- 遼東半島の南に凍らない港を持つことができてしまう。つまり、極東の海に海軍を興すことができてしまう。鉄道敷設に関して、中国とロシアの間で96年と98年の二度にわたって結ばれた条約は、日本にとって悪夢を見ているようなものだったに違いありません。---
 
--- 1900年、北清事変が起こってしまう。これは、「扶清滅洋」をスローガンとした排外的な団体である義和団が中国各地で勢力を得て引き起こした農民闘争です。---
 
 ロシアはこの事変をチャンスと見ました。北満州に広がるロシアの権益を義和団から守るのだと称して、黒竜江沿岸地域の一時的占領に着手します。
 
 このあたりから、中国とロシアの協調的な関係は変わってきます。なんだかロシアは怪しいぞ、信用していいのかな、ということになるわけです。--- 中国国内には「ロシアについていていいのだろうか」との反応が生じる。これが中国側の変化です。そしてその翌年、1901年に李鴻章が死ぬのです。
 
 
 ロシアは中国の首都である北京にもたくさんの兵を出していました。ロシアは、列国の連合軍(日本も参加していました)が義和団を鎮圧するまで、自分の権益を守るためだよ、ということを理由に軍隊を出すのです。一方で、1902年までには段階的に撤兵しますよという条約を、中国側と結びました。
 
 さて、北清事変から1年たっても2年たっても、段階的に撤兵するはずのロシアは満州から撤兵しません。そこで1902年、イギリスが動きます。--- 中国と約束したはずの撤兵期限をなかなか守らないという事態を見て、イギリスは日本に同盟を提案するのです。こうして、日英同盟協約が調印されます。---
 
 このときの重要なポイントは、イギリスは、「日本とイギリスは協力しますよ、いいですね」という態度をロシアに見せることで、ロシア側が態度を改めるのを期待していたのですね。
 
 日本でも、1900年に伊藤博文によってつくられた政党である政友会などは、「日英同盟ができた。これはロシアに対して自制を求める同盟だ」と冷静に評価しました。---
 
 日英同盟が結ばれたのは、第一次桂太郎内閣のときでした。議会の376議席中、圧倒的多数を占めていた政友会と憲政本党という二つの政党は、ロシアとの戦争準備のために政府が海軍増強を続けようとの説得に応じませんでした。--- 坂野先生は「日本国民のかなりの部分と支配層の一部は、日露戦争の直前までは、むしろ厭戦的であった」と述べています。---
 
 そして中国の国内も変わってゆきます。--- 内政についても変わってゆくのです。19世紀末の1898年、戊戌の変法というのですが、清朝の開明的な一部の勢力によって、いくつかの改革が進められました。立憲君主制への道をめざすのです。---
 
 改革の内容は、科挙という、官僚を選ぶための試験を廃止しようとか、政府や地方の省のお金で優秀な官僚や学生を留学させようとか、軍の近代化をははかろうといったことです。ロシアの態度に中国が疑問を持ちはじめた1902年あたりから日露戦争後までは、中国において日本留学ブームが到来したといえます。---
 
 
 それでは日露戦争にいたるまでの日本とロシアの動きを見てみましょう。---
 
 一部の人々は早期開戦を唱えていたけれど、桂首相や元老のほとんどは、戦争の前にはまずは外交だと。日露交渉に期待をかけていたと思ってまちがいありません。---
 
 この頃、最長老の元老は二人いました。伊藤博文と山県有朋です。伊藤は日露戦争の後、ハルビンで、韓国の独立運動家である安重根に殺されてしまいますが、とにかく日露戦争前には、この二人が最も重要な、明治天皇の相談役でした。この二人の元老、そして桂首相をはじめとする閣僚、議会の政党勢力は実のところ、開戦には非常に慎重でした。---
 
--- ロシア側の史料や日本側の史料、これが公開されて明らかになったところでは、どうも、はやり朝鮮半島、韓半島のことですが、その戦略的な安全保障の観点から、日本はロシアと戦ったという説明ができそうです。---
 
 日本がロシアから言質をとりたかったのは、明らかに韓国における日本の優越権でした。--- ロシアは、韓国については日本が勢力圏に入れてしまうのを認めなさい、と日本は主張していました。そのかわり、確かにロシアの満州占領はまずいけれども、しかし、満州における鉄道の沿線はロシアが勢力圏としていい、中東鉄道とその南支線などはロシアが「特殊なる利益」を持っていると日本側は認めます、との主張です。---
 
 これに対してロシア側がなんと答えていたかを見ると、ああ、大きな国は強く出るのだな、と思います。「そもそも日本は、満州について論じる資格がない」と。---
 
 それではどのような条件とするかというと、まあ、これが大変にずうずうしい((笑)。--- 条件とは、ロシアが朝鮮海峡を自由に航行できる権利を日本側が認めること。--- さらに北緯39度以北の韓国を中立化して、日本が韓国領土の軍事的使用をしないならいいですよ、こういいます。のちに朝鮮戦争というものが第二次世界大戦後に起こり、半島は、北朝鮮と韓国に分断されるわけですが、その際、北緯38度線近辺が軍事境界線となりますね。このあたりは地形的に分けられるとの判断が、もともと生じやすい地形だったのでしょうか。
 
 この、韓国に関するロシア側の提議は、日本側にとっては絶対に認められなかった要求でした。---
 
 これまで見てきたように、韓国問題は日本にとっては絶対に譲れない問題でした。---
 
 ロシアは、日本がこれほど韓国問題を重要視していることに気づいていなかったふしがあります。それはなぜでしょうか。ロシアは、日本が先制攻撃をしかけるまで、日本側が戦争に踏み切るとは思っていなかった。--- ロシアは日本の考えを正確に理解していなかったと思われます。---
 
 
--- 日本は日露戦争を準備する段階で、ロシアを非難するために、つまり戦争の正当化を日本が大々的に宣伝するときにできたことは、満州についての門戸開放、このスローガンだけだったのですね。アメリカやイギリスが本気になって日本を応援し、お金を貸し、軍艦の購入に便宜をはかってくれるためには、大義がなければならない。アメリカ、イギリスにとって、韓国問題というのは、もう過去の話でした。---
 
 英米にとって死活的だったのは、やはり満州でした。大豆という世界的な輸出品を産する中国東北部をロシアが占領したままにするのか、中国の首府である北京にすぐ近い位置にロシアの軍隊がいて、陸からも海からもロシアが中国に最も影響力を及ぼせるような状態は、嫌だねぇと。このあたりの事情は日本側もよく理解していて、ロシアを非難する際に、韓国のことはあまりいわずに、満州、あくまで、満州の門戸開放、という。---
 
 ここに紹介したのは、原が日露開戦後に記した日記です。内容を簡単に要約しますと、こうです。日本の国民の多くは、戦争を欲していなかった。政府が七博士や対露同志会などの強硬派にロシア強硬論を唱えさせたのは、日露交渉を有利に展開するためだけの話だったのに、意外にも本当に開戦ということになってしまったのだ、と。---
 
 全世界において、満州市場は1900年から05年、拡大の一途をたどっていました。たまたまそこでロシアが、鉄道運賃を差別します、港の関税、使用税は自分の国だけ安くして、アメリカやドイツやイギリスからは高くとりますよ、といっていたとすれば、他国は警戒する。
   
 日本が遅れてきた帝国である一つの悲しさは、欧米に向けて語る戦争の正当化の論理と、自らの死活的に重要なものを説明する言葉がズレてしまうことです。
 
 日清戦争は帝国主義時代の代理戦争でしたが、日露戦争もやはり代理戦争です。ロシアに財政的援助を与えるのがドイツ・フランス、日本に財政的援助を与えるのがイギリス・アメリカです。---
 
 それでは、この頃の中国の動きを見てみましょう。日清戦争の後、ロシアと協調していた中国が、それからどのように変わっていったか。これもまた複雑怪奇です。--- 清国は「ロシアがお金をくれたのはうれしい。けれどロシアについたままだと、どうも国をとられてしまうんじゃないか」と思うようになる。だったら、ロシアより弱い日本と協調して満州を門戸開放してもらったほうがよい、開放までならいいじゃないか、と日本に近づく。
 
 日露戦争中、中国は中立の立場をとっているのですが、日本軍がロシアと戦っているとき、中国側は日本にお金を寄附してくれます。---
 
 最も重要だったのは戦場における中国側の協力です。このときの戦場は満州でした。奉天、旅順、大連、金州。万里の長城以南には入りませんが。もちろん満州には満州人や中国人が住んでいます。ここでの諜報作戦は、日本軍が圧倒的に勝ちました。それは中国の、中立とはいえ日本を援助する地域の官僚たちのバックアップがあったからです。土地勘のある農民たちが日本軍の諜報のために働いてくれた。--- いま話したような地道な諜報で日本側はかなり成果をあげる。これが、日露戦争における日本軍の辛くもの勝利をもたらしたといえるようです。
 
 日露戦争で日本はなにを獲得できたか。---
 
 ロシアが黒龍江省、吉林省、遼寧省という三つの省を占領していたことで排除されていた国々が平等に満州に入れるようになった。アメリカやイギリス、そして戦争中、ロシアを援助していたドイツやフランスも含まれます。「さあ、帝国主義国のみなさん、いらっしゃい」と中国東北部を開いた。これが日露戦争でした。
 
 それでは、日露戦争によって、日本の国内ではなにが変化したのでしょうか。--- まずは、不平等条約の改正について1911年に実現できる確約を列国から得た点。では、国内的な変化でいうとなにか。--- 初めての政党内閣ができたことでした。憲政党を与党として第一次大隈内閣ができました。--- 桂内閣は基本的に、ものすごい増税によってこの戦争をまかないました。--- 戦争前の1900年、山県内閣は衆議院選挙法を改正しました。それまでは直接国税を15円納めていなければ選挙権を持てなかったのですが、5円下げて10円以上の納税者にした。その結果、選挙権者は98万人になったのだそうです。---
 
 ですから、日露戦争後の国会や地方議会、県会などに出てくる人たちの質が変わります。これはすごく大きかった。---
たとえば会社を経営していたり、銀行などの給料のいいところに勤めているような人が払う直接税は営業税、所得税です。戦争時の増税によって、10円を超える税を納める人が増えた。選挙権を持つ人のなかに、会社経営者や銀行家などの金持ちが増えただろうというのは想像がつきます。--- 日露戦争後、地方の商工会議所などで活動していた実業家が初めて団体を組織して政党を名乗った。実業家である議員が公然と活動を始めたということです。--- だからたとえば都市商工業者などが、「新聞記者あがりの彼は弁が立つ。帝国議会へ彼を送り込むんだ」と思ったとき、その人を送り込めるようになった。---
 
 
 日露戦争後、増税がなされたことで、選挙資格を制限する直接国税10円を結果的に払う層が1・6倍になり、選挙権を持つ人が150万を超えたこと、これが大切なポイントです。 
 
 
 

 
 
 
 国土を拡張することに必死だった時代。
 
 今は、それを「横暴」と解釈します。
 
 読んでいて、苦しいです。 
 
 
  

それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ③

1章  日清戦争「侵略・被侵略」では見えてこないもの

--- ところで、日中関係を考えていく際に気をつけるべきことをきっちりと述べた先生がいました。アメリカの歴史学者でウォーレン・F・キンボールという人です。--- そのキンボール先生は、日中関係について、こんなふうに述べています。---

 学者先生なのでちょっと難しい表現をしていますが、要するに、日本と中国は、東アジアでの日中両国の関係においてどちらがリードするか、そのことをめぐって長いこと競争をしてきた国であって、そのリーダーシップをめぐる競争という点では、軍事衝突などは、文化、経済、社会、そして知識人の思想やイデオロギーをめぐる競争の、ほんの一側面にすぎないとの見方です。---

 日本が中国を侵略する、中国が日本に侵略されるという物語ではなく、日本と中国が競いあう物語として過去を見る。日本の戦争責任を否定するのでは全くなく、侵略・被侵略といった文脈ではかえって見にくくなっていた、19世紀から20世紀前半における中国の文化的、社会的、経済的戦略を、日本側のそれと比較しながら見ることで、日中関係を語りたいわけです。

 さて、ここからは19世紀後半、イギリスやアメリカやロシアが東アジアにやってくる時代まで、話をさかのぼらせましょう。---

           ----------------------------------------

 東アジアを舞台としたロシアの南下を、イギリス帝国全体としての利益にはならないと考えていたイギリスは、日本に対しては、とにかく列国間の対立や紛争に巻き込まれないだけの能力を持つように、すばやく法典編纂を行ってくださいね、とのスタンスで臨みました。事実、大日本国憲法は1889年(明治22)年に完成します。---

 さて、日本とは異なる道を歩む国がいました。それが中国です。中国は日清戦争(1894-95年)後、列強の勢力圏争いのもとで、国土のなかに列強の多くの利権を抱えるようになります。しかし、19世紀半ばの中国は、いまだそうした事態にみまわれていませんでした。この時点での列強から見た場合、中国は「華夷秩序」という、列強にとっては大変うまみのある資産をたくさん持った国として映りました。---

--- 華夷秩序というのは、--- 世界、そして文明の中心である中国は、周辺地域に対して、「徳」を及ぼすものであり、その感化が人々に及ぶ度合いに応じて形成される属人的秩序なのだと。そのなかで、中国と東アジアとの関係を律する国際秩序を朝貢体制と呼びます。---

 列強にとっては、こうした中国を中心とする、交易と礼に基づく東アジアの秩序というものは便利でした。たとえば安南と呼ばれたベトナムであっても、朝鮮半島の李王朝(国号は大朝鮮国)であっても、列強がこうした地域・国々と貿易を行いたければ、とにかく、まずは清国と話をつけさえすればよくなる。列強にとってみれば、朝貢体制のもとで李王朝や安南と話がしやすくなればこれは使わなければ損だということです。

 そのような意味で朝貢体制は「きわめて安価な安全保障のための装置」だともいえますね。そもそも、朝貢関係にある国と中国とは、儀礼上の手続きをきちんと行っている限り、中国側が朝貢国の内政や外交に干渉することはありませんでした。--- 中国が大家さんみたいな役割を果たしていたというとイメージしやすいかな。---

 日清戦争は1894年(明治27)年に始まって翌年に終わる、10ヵ月ぐらいの短い戦争です。---

 列強が朝貢体制という安価な安全保障体制に便乗している間に、中国は少しずつ変わっていきます。このときの中心人物は李鴻章です。---

 この李鴻章は1880年代、中国の軍隊を近代的なものに改革しようとしました。そのうえで、81年、李鴻章は、中国の西側の方策に手をかけます。--- 中国の一番西に、新疆のイリ地方という地域があります。このあたりの地域はイスラム圏ですが、中国としては清国の華夷秩序内の領域だとの認識がある。さてこのイリ地方で、ヤクーブ・ベクという人物がロシアの援助を受けつつ、新国家をつくりあげてしまう事態が起きます。そうすると清国はすばやく軍隊を出してこれを滅ぼします。ロシアに対しては、清国領土の一部を割譲して満足してもらうことで話をつけ、イリ条約というものをロシアと結び、イリ地方の秩序回復に努めました。つまり、李鴻章はこの問題に武力で対応したのです。

 李鴻章のこうした決断力を目にした列強は、「ああ、中国は変わったな」と思ったのではないですか。---

 で、この次が大事です。中国は朝鮮への態度も変えていきます。これまでは「礼部」という名前を持つお役所が対朝鮮政策をとりしきっていました。それを李鴻章は改めて、1881年、朝鮮や安南=ベトナムを担当する場所を、自らが目を光らせることのできる場所、つまり直轄下に置きます。

 そしてちょうどこの頃、朝鮮では李王朝が揺れ動きます。日本はすでに、1876年に不平等条約であった日朝修好条規を朝鮮との間に締結していました。朝鮮は「自主の邦」としながらも、領事裁判権を認めさせ、関税自主権を奪うものでした。

 中国につこうか日本につこうかということのなかで、82年(明治15)7月、壬午事変(韓国側呼称は壬午軍変)が起きます。--- この反乱の鎮圧にあたったのが清国で、清国は事変に乗じて政権についた大院君を清国に連行し、閔氏政権を復活させる一方で、朝鮮への関与を積極化しました。---

 1884(明治17)年12月、清国の影響下にある閔氏政権を打倒するため、日本公使館の援助を受けた金玉均ら(親日改革派 独立党)の人々が、甲申事変(甲申政変)を起こします。日本公使館側は、フランスと清国との間で起こっていた清仏戦争に清国が気をとられている間を狙って、事件を起こしたのでした。しかし、これも清国によって鎮圧されてしまったことで、朝鮮政府に対する日本の影響力は決定的に低下しました。

 李鴻章は袁世凱(この人はのちに中華民国の初代大総統になる人です)を駐箚朝鮮総理という肩書で送り込み、また、中国の天津で開かれた伊藤博文との話し合いにおいて、85(明治18)年4月、天津条約を締結します。--- 両国は朝鮮から双方の軍隊を撤兵するかわりに、朝鮮に出兵するときには事前通告することに決し、これからしばらくの間は、朝鮮をめぐる日清間の衝突は回避されることになりました。---

 ロシア、フランス、日本というような国々が清国の華夷秩序=朝貢体制に挑戦するような紛争を起こしたとき、清国がきちんと一つひとつ対応をとるようになった。また、そうするだけの力をつけてきた。ですから、80年代半ばの時点においては、日本型の発展の方向性、中国型の発展の方向性、どちらもが、可能性が十分あった。---

 それでは、このように中国が強い方向に変化しつつあったとき、日本ではなにが起きていたのでしょう。かつての人々が残した言葉から、当時の日本人が東アジア情勢をどう考えていたのかを見ておきましょう。---

 その福沢が、1885年に書いたのが『脱亜論』 でした。---

 [日本はアジアの東端にあるとはいえ、日本国民の精神は欧化に親しんでいる。しかし不幸なのは、日本の隣に中国と朝鮮という国家があることにある。私から見ればこの二国は、西欧文明に東がだんだんと進みその影響力を大きくしてくるなかで、独立を維持するだけの方策がないだろう。中国と朝鮮の国土は列強など文明国によって必ず分割されてしまうだろう。日本には中国や朝鮮の開化を待って一緒にアジアを担っていくだけの時間がない。むしろ、中国と朝鮮という列から離れて西欧列強と一緒になり、中国と朝鮮と接する方法も、隣の国だからという配慮はせずに、西洋人が両国に対してするよような作法で行えばよいのだ。] 

--- これは率直に、朝鮮国内の近代化論者への支援を通じての日本の朝鮮進出は不可能になった、との敗北宣言だと読むべきだと坂野先生は言います。---

 欧米列強によるアジア分割が迫っているから、日本は泣く泣く連帯をあきらめて朝鮮や中国を捨てる、というような文意ではなく、朝鮮に日本が進出するには内部から改革する方法ではなく、中国を討ってから朝鮮に進出するという武力路線で行きますね、と、このように理解すべきだというのです。---

 福沢を見た後には山県有朋を見てみましょう。---

 山県は、シュタイン先生に会う前からすでに、--- 日本の政治と戦略は、中国の影響力から朝鮮を引き離し、ヨーロッパの強国(これはロシアが念頭に置かれているでしょう)が朝鮮を領有してしまわないようにする、--- 中国から朝鮮を引き離すという点で、先ほど見ました福沢の意見と同じであるということも確認しておきましょう。--- 朝鮮をただちに占領する必要はない、スイスやベルギー、あるいはスエズ運河の例のように、朝鮮を中立国とすることについて、イギリス・ロシア・清国・ドイツ・フランスなど複数の国家から承認をとるようにすればよい、これがシュタイン先生の教えでありました。---

 ウィーンから戻った山県は、1889年12月、黒田清隆から内閣を引き継ぎ、90年11月25日に召集された第1回帝国議会で、定数300議席中の過半数を占めていた民党の人たちに、海軍建造費などの軍拡予算について、賛成してもらわなければいけない立場になるわけです。--- 

 当時の選挙権と被選挙権は直接国税15円以上を納める人々だけに認められましたから、選挙権を持つ人も、立候補しようとする人も、お金持ち、つまり地主が多かった。地主であれば、地租という税金が安くなるにこしたことはないので、立憲自由党の大部分を占めた地主層は、政府の進める富国強兵などよりも、とにかく民力休養=地租を安くする、という考えを持っていました。---

--- どうも日本の民権派、のちに民党の議席を占めてゆくはずの人々の議論を聞いていますと、反政府とはいいつつ、国のゆく道を左右する根本のところでは一致している。政府が薩長藩閥だけで中枢を占めていることや、北海道開拓などで国の予算を無駄遣いしていることを批判するという点では反政府なのですが、国会が果たすべき役割、あるいは対外的に日本はどうすべきかという点では、実のところ、民権派と福沢や山県の間には、差異があまりなかった。---

 福沢がいうのは、清国人は古い考えに囚われ、普通の道理を理解しない。朝鮮の改革に同意しないばかりかそれを妨害するので、日本はやむをえず、文明開化のために武力に訴えるのだ、日本軍は文明を中国に知らしめるための軍隊なんだ、という論理構造になっています。---

 今だったら国家公務員の一種試験など、試験による官僚の任用がなされていますし、内閣の大臣になろうとすれば、その半数は国会議員から選ばれるから、国会議員を狙っておけば大臣にだってなれる。けれども当時、このような政党を基礎とする議院内閣制や国家の試験制度ができる前の人事は、藩閥政府が握っていました。それで福沢は、朝鮮が日本の自由になるなら、つまり日本の勢力圏内に入れば、その新たな領土に対して、今こそ、政党員が新天地に出かけていってポストを取ったらどうか、こういいます。実際、日清戦争後には台湾が割譲され、朝鮮に対する日本の影響力は格段に大きくなりました。台湾総督府ができ、その後、日露戦争を経て朝鮮総督府もできる。これは、数千人規模の新しいポストができるということです。--- 日清戦争後、日本は台湾を植民地として獲得するのですが、そこに官庁ができて、日本人が行く。その数には驚かされました。小学校の先生、農業試験場などの技師、裁判所の裁判官、警察官、そして軍人も。太平洋戦争が終結したときの数字でいえば、台湾総督府には、4万3870名の日本人官僚がいました。官僚のポストの数からいえば、これはかなり大きな数です。だから市場拡大とともに、福沢がいったのは、「今こそ民党は新たな植民地を獲得して、そこで官僚という、いままで自分たちが食い込めなかった行政に食い込め」ということなのです。自由党などが戦争に対して議会でそれほど強く抵抗しなかった理由の一つです。---

 最後に、日清戦争へと引っ張っていったのは、やはり外相の陸奥宗光だったということをお話します。---

--- 列強と条約改正を達成するには、日本の発展ぶりを鹿鳴館などで見せようと思ってもだめである。最終的には日本の進歩や日本の開化を欧米にわからせるには、日本がアジアのなかでも特別な文明、軍事力も備わった国であるとの実証を列強の目に具体的に見せなければだめなのだ、と。--- こういう人が外務大臣であるということは、朝鮮政府の財政改革を進めるか進めないかという話を名目として、日本と清国とが争った際、いかにして開戦にもっていくかという日本政府の立場を考えるうえでは大きかったと思います。---

 1894年、朝鮮国内で朝鮮政府に抵抗するための農民反乱が起きます。---

 清国はこの頃、力に訴えてでも朝鮮を守ろうとしていました。--- そして、李鴻章は巡洋艦2隻を派遣し、陸兵も2千余名、すばやく朝鮮に送ります。そして、6月6日、清国は日本に向かって、では今から朝鮮に出兵しますね、と断りを入れました。これは、当時、日本と中国の間に、朝鮮に関する取り決めがあったためです。--- そして日本側も、6月7日、中国に出兵する旨を連絡します。

 しかし、6月11日、外国の干渉を嫌う朝鮮政府が農民軍側の要求をほぼ受け入れたことで、反乱は急速に鎮まり、清国軍はなにもしないで撤収しようかという雰囲気に包まれました。ところが、この前日、朝鮮政府も、出兵した清国側も驚くことが起きていました。6月10日、日本側がソウルに、数は少ないとはいえ、海軍陸戦隊430名を入城させるという、信じれられないような早業を見せたのです。続く6月16日には、日本側は陸兵を4千名、仁川に上陸させています。---

 しかし、朝鮮の農民たちの反乱は鎮まってしまった。日本軍と清国軍が朝鮮で対峙してしまうことになります。日清戦争自体は、この1ヶ月後、1894年7月末(宣戦布告は8月1日)に始まるのですが、それではこの間、なにをやっていたのでしょう。

 陸奥宗光は日本と清国が一緒に朝鮮政府に改革を要求しましょう、と提案します。---

--- つまり、経済改革要求は誰も強く批判はできないものですよね。--- 中国側は、共同で撤兵することがまずは大切、と正論を述べます。そして、日本が持ちかけた内政改革要求については、「じゃあ日本が勝手にやれば」といいます。朝鮮政府の内部には親中国派が多いわけですから、日本のいうことを聞く勢力はいないわけですね。---

 陸奥が「兵隊は退かない。日本は朝鮮の改革を日本だけでも行う決意だよ」などと強く出たとき、清国側は、大変に頭にいい反論をして日本側を弱らせました。--- 清国側は「朝鮮王朝、李王朝は独立であるといいだしたのはあなたじゃないですか」ときっちり日本に反論しました。--- 朝鮮は「自主の邦」であると言い続けていたその日本が内政干渉ともとれる改革の強制をやるのですか、という清国側からの反論がありました。--- これが日清戦争直前の状況でした。このように見てくると、朝鮮政府の内政改革を進めるか進めないかについての日本側の主張はかなり強引なものでしたが、最終的には、朝鮮が「自主の邦」かそうでないかなどを清国が決める立場にある状態そのものを武力で崩してしまおう、と日本側は決意します。

 そして日清戦争は起こります。---

 イギリスが「日本がやる気なら、やってもいいですよ」と背中を押すのが1894年7月16日。これは、日英通商航海条約の締結というかたちをとりました。--- そしてロシアの代理が清国ということになる。日清戦争後、中国の李鴻章がロシアに接近するのは、戦争前の代理戦争の対立図式を正確に反映したものでした。

 それでは日清戦争が終わった後の日本を見てみましょう。--- 1894年7月の日英通商航海条約では、領事裁判権が廃止され、関税自主権の原則回復がなされました。また清国からの賠償金2億両(遼東半島還付金も含めれば約3.6億円)は巨額なものでした。日清戦争時点の日本の国家予算が約1億でしたから、国家予算の3倍もの賠償金が手に入ったのです。---

 それでは、国内の政治においてはなにが最も変わったでしょうか。---

 戦争には勝ったはずなのに、ロシア、ドイツ、フランスが文句をつけたからといって中国に遼東半島を返さなければならなくなった。これは戦争には強くても、外交が弱かったせいだ。政府が弱腰なために、国民が血を流して得たものを勝手に返してしまった。政府がそういう勝手なことをできてしまうのは、国民に選挙権が十分にないからだ、との考えを抱いたというわけです。

 宣戦講和の権利は内閣、もしくは国務大臣の輔弼によって天皇が行う。で、議会において、外交についてはあまり議論ができない。法律で抑えることもできない。予算で抑えることもできない。議会はいろいろと制限はあるけれども、しかし、国民の意見を反映させる手段は議会にしかないのだから、少なくとも、国民にあまねく選挙権を持たせて政府に対する圧力の大きさを大きくするしかないのではないか。こう考えるわけですね。三国干渉への強い不満、このような意表をつくようなところからも普通選挙というものが期待されてきたということです。 

 


 

 福沢諭吉、陸奥宗光。

 日本史の授業で教わったこの2人についての印象が違ってきました。

 選挙権についても、この時代の選挙権の中身を改めて知ることができました。

 しかし、このようにして手に入れた普通選挙権が、民意の反映手段として充分に機能していると思えない現在です。 

 

 

 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ②

序章  日本近現代史を考える

--- 2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロの衝撃に接したとき、人々は、テロを「かつてなかった戦争(war like no other)と呼んで、まず、その新しい戦争の形態上の特質、つまり「かたち」に注目しました。---

 ここで、とても重要なことは、次のような点だったのではないでしょうか。内部から日常生活に密着した場での攻撃を受けたアメリカにとって、このテロは、相手国が国を挙げてアメリカに仕掛けてきた戦争というよりは、国内にいる無法者が、なんの罪もない善意の市民を皆殺しにした事件であり、ということは、国家権力によって鎮圧されてよい対象とみなされる。---

 実は、このアメリカの話と似たようなことが、かつての日本でも起きていたのです。---

--- 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中の軍事衝突はまたたくまに全面戦争へと拡大しますが、戦争の開始から半年ほどたった1938年1月16日、近衛内閣が発した声明が「爾後、国民政府を対手とせず」という声明でした。

 戦争の相手国を眼中に入れずにどうする、と普通なら思いますが、当時の軍人たちや近衛首相を補佐し助言するはずのブレインたちは、そうは考えなかった。そう考えなかっただけでなく、戦争に対する、もっと不思議な見方をします。

--- 「今次事変は戦争に非ずして報償なり。報償の為の軍事行動は国際慣例の認むる所」。つまり、今、日本が行っていることは戦争ではなくて、「報償」なのだ、だからこの軍事行動は国際慣例でも認められているものなのだ、と発言しているわけです。---

--- 報償という考え方をわかりやすく説明しますと、相手国が条約に違反したなど、悪いことをした場合、その不法行為をやめさせるため、今度は自らの側が実力行使をしていいですよ、との考え方です。中国が日本との約束を守らなかったから、守らせるために戦闘行為を行っている、というのが当時の日本軍の言い分でした。

--- 近衛のブレインであった人々の書いた史料のなかにも、日中戦争をとても不思議な表現で呼んでいる例が出てきます。彼らはこの戦争を「一種の討匪戦」と見ていました。--- 匪賊、つまり、国内で不法行為を働く悪い人々、ギャングの一団のようなイメージですね。こうしたグループを討つ、という意味です。

 いずれにしても、日中戦争の日本が、これは戦争ではないとして、戦いの相手を認めない感覚を持っていたということに気づいていただければよいのです。ある意味、2001年時点のアメリカと、1937年時点の日本とが、同じ感覚で目の前の戦争を見ている。相手が悪いことをしたのだから武力行使をするのは当然で、しかもその武力行使を、あたかも警察が悪い人を取り締まるかのような感覚でとらえていたことがわかるでしょう。

 時代も背景も異なる二つの戦争をくらべることで、30年代の日本、現代のアメリカという、一見、全く異なるはずの国家に共通する底の部分が見えてくる。歴史の面白さの神髄は、このような比較と相対化にあるといえます。

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 日本国憲法といえば、GHQがつくったものだ、押し付け憲法だとの議論がすぐに出てきますが、そういうことはむしろ本筋ではない。ここで見て置くべき構造は、リンカーンのゲティスバーグでの演説と同じです。巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となるという真理です。

 憲法といえば、大日本帝国憲法のような「不磨の大典」といったイメージが日本の場合は強いかもしれませんが、ゲティスバーグの演説も日本国憲法も、大きくいえば、新しい社会契約、つまり国家を盛り立たせる基本的な秩序や考え方を明らかにしたものといえるでしょう。この、国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方という部分を、広い意味で憲法というのです。

 ゲティスバーグ演説の〝people" の部分も、日本国憲法の「権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」にも、こうした強い理念を打ちださなければならなかった、深い深い理由が背景にある。---

 新しい憲法、社会契約が必要とされる歴史の条件の一つは、「総力戦」という大変なものを戦うために国家目標を掲げなければならないということです。このとき、〝by the people”「国民によって」という言葉が必要になる。総力戦(total war)の一番単純な定義は、前線と銃後の区別がなくなることです。青年男子の人口と動員された兵士の人口が限りなく一致してゆく戦争でもあります。---

 国民を国家につなぎとめるためには、国家は新たな国家目標の設定が不可欠となってくる。その際、大量動員される国民が、戦争遂行を命ずる国家の正当性に疑念を抱くことがないように、戦争目的がまずは明確にされることが多いのです。たとえば、アメリカが第一次世界大戦に参戦する際のスローガンは「デモクラシーが栄える世界するための戦争」、「戦争をなくすための戦争」でしたし、対するドイツ・オーストリア側は「民族的存立を防衛するための戦争」と定義づけました。---

 それでは次に、少し違う角度から考えてみましょう。戦争というものは、敵対する相手国に対して、どういった作用をもたらすと思われますか。---

--- 長谷部先生は、この本のなかで、ルソーの「戦争および戦争状態論」という論文に注目して、こういっています。戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃、というかたちをとるのだと。

 太平洋戦争の後、アメリカによる占領を、「そうか、アメリカは民主主義の先生として、日本にデモクラシーを教えてやる、といった考え方に立ってやって来たのだな」、というようなアメリカ固有の問題として理解してきました。けれども、ルソー先生は、こうした戦争後のアメリカのふるまいを、18世紀に早くもお見通しであったのでした。---

 ルソーは考えます。戦争というのは、ある国の常備兵が3割くらい殺傷された時点で都合よく終わってくれるものではない。また、相手国の王様が降参しましたといって手を挙げたときに終わるものでもない。戦争の最終的な目的というのは、相手国の土地を奪ったり(もちろんそれもありますが)、相手国の兵隊を自らの軍隊に編入したり(もちろんそれもありますが)、そういう次元のレベルのものではないのではないか。ルソーは頭のなかでこうした一般化を進めます。相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいるのです)、これに変容を迫るものこそが戦争だ、といったのです。---

 第二次世界大戦の終結にあたっては、敗北したドイツや日本などの「憲法」=一番大切にしてきた基本的な社会秩序が、英米流の議会制民主主義の方向に書きかえられることになりました。ですから、歴史における数の問題、戦争の目的というところから考えますと、日本国憲法というものは、別に、アメリカが理想主義に燃えてきたからつくってしまったというレベルのものではない。結局、どの国が勝利者としてやってきても、第二次世界大戦の後には、勝利した国が敗れた国の憲法を書きかえるという事態が起こっただろうと思われるのです。---

 アメリカと日本が戦争をする。アメリカが勝利して日本の憲法を書きかえるとなったとき、最も違っていた部分はなにかというあたりを考えてほしいのです。---

--- 戦前期の憲法原理は一言でいえば「国体」でした。「天皇制」と言いかえてかまいません。---

  アメリカは戦争に勝利することで、最終的には日本の天皇制を変えたといえます。現在の日本国憲法の前文部分、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるのもであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」が、リンカーンの演説、人民の人民による人民のための、と同じだ、というところから始めたわけですが、この前文部分のすぐ前に「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書かれています。---

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 歴史という学問は、分析をする主体である自分という人間自体が、その対象となる国家や社会のなかで呼吸をしつつ生きていかなければならない。そのような面倒な環境ですすめられます。となりますと、歴史的な見方というのは、いきおい、国家や社会のなかに生きる自分という人間が、たとえば、なぜ310万人もの人が犠牲となる戦争を日本は行ってしまったのか、なぜ第一次世界大戦の悲惨さに学ぶことなく戦争は繰り返されたのだろうか、という「問い」に深く心を衝き動かされたときに初めて生ずるものなのだと思います。---

 第二次世界大戦が始まる1939年、カー先生は『危機の20年 1919-1939』という本を書きあげます。---この本をカーに書かせたのは、ある一つの「問い」でした。「なぜ20年しか平和は続かなかったのか?」。--- 

 第二次世界大戦が刻々と近づいてくる足音を聞きながら、カーは、普通のイギリス人の多くが信じていた考え方にいらだっていました。普通の人々は、1939年代の大災厄(つまりヒトラーに率いられたドイツがイギリスやアメリカに挑戦したことですが)は、ドイツ、イタリア、日本に対して連盟規約の定めを100パーセント忠実に適用するのを怠ったから起きた、独伊日三国の挑戦を英米仏などの大国が早く跳ね返さなかったから起きた、と単純に考えていました。---

--- それではカーは、自身の問いにどう答えたのか。--- カーの答えは次のようなものでした。

 愚かなために、あるいは邪悪なために、人びとは正しい原理を適用しなかったというのではなく、原理そのものがまちがっていたか、適用できないものであったからだ。

 つまり、敵国であるドイツが悪いのではなく、そもそも国際連盟がまちがっていたのだ、と。敗戦国ドイツに対する連盟の処し方がまちがっていたのだ、と。アメリカやイギリスなどの大国が主導してつくりあげた、第一次世界大戦後の秩序そのものがまちがっていたと正直に述べてしまったわけですね。---

 じゃあ、原理がまちがっていたというとき、日本やドイツを抑制するため、イギリスはなにをすべきだったのか。---

--- イギリスは、連盟の権威をバックにして、単なる言葉や理論によってドイツ、イタリア、日本を抑止できると考えるべきではなかった、とカーは述べています。イギリスがやるべきことは、海軍力の増強しかなかったはずだと。ヴェルサイユ・ワシントン体制という、第一次世界大戦後の世界を連盟中心にまわしていこうとの考え方、あるいは、経済重視の安全保障が大切だとの考え方、こういった考え方は、持てる国の現状維持であるとして批判したのは、ドイツやイタリアや日本でした。カーは、このような主張をしていた現状打開国に対しては、言葉だけでの抑止では通用しなかったはずだと述べます。軍事力の裏づけなしに現状維持国が現状打破国を抑えることなどできなかったのだと。

 ここで、考えなければならないのは、1939年代前半にかけてのイギリスに、海軍軍拡の余力があったかということです。---

 結論としてカーは、海軍増強という力の政策によってドイツを抑え込む力がイギリスになかったのだとすれば、イギリスは連盟を背景にしてドイツを刺激すべきではなかった、といっていることになります。これは、自分の国に対する、なかなかに暗い診断ですよね。海軍増強、それができないないのなら、ドイツと真剣に交渉をすべきだった、こういうのですから。---

--- ロシア革命は1917年に起こりますが、それを起こした人の多くはユダヤ系のロシア人で、後にボリシェビキ(多数派を意味するロシア語です)といわれるグループでした。この人たちは、1789年に起きたフランス革命が、ナポレオンという戦争の天才、軍事的なリーダーシップを持ったカリスマの登場によって変質した結果、ヨーロッパが長い間、戦争状態になったと考えていました。

 そのことを歴史に学んで知っていたボリシェビキは、ロシア革命を進めていくにあたってどうしたか。これは、レーニンの後継者として誰を選ぶかという問題のときにとられた選択です。ナポレオンのような軍事的なカリスマを選んでしまうと、フランス革命の終末がそうだったように、革命が変質してしまう。ならばということで、レーニンが死んだとき、軍事的なカリスマ性を持っていたトロツキーではなく、国内に向けた支配をきっちりやりそうな人、ということでスターリンを後継者として選んでしまうのです。

 スターリンは、第一次世界大戦やその後の反革命勢力と戦う過程で軍事的なリーダーシップを全く持たなかった人でした。---

 ロシア革命を担った人たちが、フランス革命の帰結、ナポレオンの登場ということを知ったうえでスターリンを選んだというのは、かなり大きな連鎖であり、教訓を活かそうとした結果の選択です。--- スターリンは1930年代後半から、赤軍の関係者や農業の指導者など、集団化に反対する人々を粛清したことで悪名高い人ですね。犠牲者は数百万ともいわれる。--- 

 政治家としても他を圧する力があり、軍事的リーダーシップも持っていた西郷。この西郷は、西南戦争で自刃したからよかったものの、政府としては非常に肝を冷やしました。国民的人気もあり、文武両道の指導権を持った西郷のような指導者が、これ以降も現れて、再び政府に対して反乱を起こすようなことがあったら困る、このように政府が考えたであろうことは予測がつきますね。

 統帥権独立という考え方は、山県有朋が、西南戦争の翌年、1878年(明治11)年8月に、近衛砲兵隊が給料への不満から起こした竹橋騒動を見て、また、当時の自由民権運動が軍隊内へ波及しないように、政治から軍隊を隔離しておく、との発想でつくったものです。--- 

 先に、レーニンの後継者がスターリンにされたことで人類の歴史が結果的にこうむってしまった災厄を話しましたが、この西郷の一件と統帥権独立の関係も、人類の歴史が結果的にこうむってしまった災厄の一つといえるかもしれませんね。日中戦争、太平洋戦争のそれぞれの局面で、外交・政治と軍事が緊密な連繋をとれなかったことで、戦争はとどまるところを知らず、自国民にも他国民にも多大の惨禍を与えることになったからです。

 以上の話を思い返してみますと、政治的に重要な判断をしなければならないとき、人は過去の出来事について、誤った評価や教訓を導きだすことがいかに多いか、ということです。ここでは最後に、アメリカ人の歴史家、アーネスト・メイ先生の話を紹介しながら、歴史の誤用という話をしましょう。---

 メイ先生のいいたいことをはっきりいってしまえば、政府を引っぱるような政策形成者は、歴史をたくさん勉強しなさいね、ということですね。メイ先生は、政府の意思決定に携わる人々が、きちんと自分の話を聞くように、第二次世界大戦以前の時期に、アメリカは歴史をいかに誤用したか、冷戦期に入ってどれだけ誤用したか、朝鮮戦争の時期にどれだけ誤用したか、ベトナムの体験でどれだけ誤用したか、それを実に面白く詳細に明らかにしました。---

 メイ先生によれば、アメリカは第二次世界大戦の終結方法を選ぶとき、明らかに歴史を誤用した、といいます。それはなにかといいますと、「無条件降伏」の一件です。

 フランクリン・D・ローズヴェルト大統領は、ドイツやイタリアや日本などの枢軸国に対して、なぜ無条件降伏以外の降伏をさせないように主張したのか、これは第二次世界大戦の終結を遅らせることになりはしなかったか。こう、メイ先生は考えました。つまり、ドイツ、イタリア、日本の三国の国内を観察してみれば、実のところ戦争終結に向けた動きはあった。無条件降伏しか認めない場合と、条件つき降伏交渉を認めた場合と、どちらがアメリカ国民の損害を少なくできたか、こう考えたわけです。むしろ、第一次世界大戦までのすべての戦争においてなされてきたように、降伏条件を戦争の当事国同士で話しあうほうがよかったのではないか、という問いです。---

 メイ先生が二つ目に挙げている、アメリカにおける歴史の誤用の例は、ベトナム戦争になぜ深入りしたか、との点に関することです。---

 第二次世界大戦が終わった段階では、蒋介石率いる中国国民政府が、アメリカやイギリスとともに日本に対して戦い、勝利した国家だったのです。しかし、1945年8月以降、49年10月の中国共産党の勝利にいたる中国における内戦の過程を、アメリカはどうすることもできないでいました。満州事変、日中戦争の時期においてアメリカは、中国の巨大な市場が日本によって独占されるのではないか、門戸開放政策が守られないのではないかと考え、中国国民政府を支持してきたわけです。それが、せっかく敵であった日本が倒れたというのに、また戦中期に大変な額の対中援助を行ったのに、49年以降の中国が共産化してしまった。

 これはアメリカにとっては、嘆きであったでしょう。--- この中国喪失の体験により、アメリカ人のなかに非常に大きなトラウマが生まれました。戦争の最後の部分で、内戦がその国を支配しそうになったとき、あくまで介入して、自らの望む体制をつくりあげなければならない、このような教訓が導きだされました。ですから、北ベトナムと南ベトナムが対立したとき、南ベトナムを傀儡化して北ベトナムを支配するのに止まるのではなく、北ベトナム自体を倒そうとするわけです。

 以上が、ベトナム戦争にアメリカが深入りした際、歴史を誤用したという、アーネスト・メイの解釈です。---

 本日お話ししてきたことをふりかえれば、人類は本当にさまざまなことを考え考えしながらも、大きな災厄を避けられずにきたのだということを感じます。私たちには、いつもすべての情報が与えられるわけではありません。けれども、与えられた情報のなかで、必死に、過去の事例を広い範囲で思い出し、最も適切な事例を探しだし、歴史を選択して用いることができるようにしたいと切に思うのです。歴史を学ぶこと、考えてゆくことは、私たちがこれからどのように生きて、なにを選択してゆくのか、その最も大きな力となるのではないでしょうか。

 


 

 歴史の誤用の話は、衝撃的です。

 為政者には、歴史を広く深く学んでほしい。

 しかし、誤用を招く心配もある。

 では、どうすればよいのでしょう。 

 


それでも、日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子  新潮文庫 ①

はじめに

 これまで中高生というよりは中高年に向けた教養書や専門書を書くことが多かった私が、日清戦争から太平洋戦争までの日本人の選択を、なぜ、高校生と考えようと思ったのか。まずこの点から説明しておきましょう。---

 私の専門は、現在の金融危機と比較させることも多い1929年の大恐慌、そこから始まった世界的な経済危機と戦争の時代、なかでも1930年代の外交と軍事です。---

 みなさんは、30年代の教訓とはなにかと聞かれてすぐに答えられますか。ここでは、二つの点から答えておきましょう。一つには、帝国議会衆議院議員選挙や県議会議員選挙の結果などから見るとわかるのですが、1937年の日中戦争の頃まで、当時の国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革(たとえば、労働者の団結権や団体交渉権を認める法律制定など、戦後、GHQによる諸改革で実現された項目を想起してください)を求めていたということです。二つには、民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出を当時の国民もまた強く待望していいたということです。---

 社会民主主義的な改革要求は既存の政治システム下では無理だということで、疑似的な改革推進者としての軍部への国民の人気が高まっていったのです。そんな馬鹿なという顔をしていますね。しかし陸軍の改革案のなかには、自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の改善など、項目それ自体はとてもよい社会民主主義的な改革項目が盛られていました。

 ここで私が「疑似的な」改革と呼んだ理由は想像できますね。疑似的とは本物とは違うということです。つまり陸軍であれ海軍であれ、軍という組織は国家としての安全保障を第一に考える組織ですから、ソ連との戦争が避けられない、あるいはアメリカとの戦争が必要となれば、国民生活の安定のための改革要求などは最初に放棄される運命にありました。

 ここまでで述べたかったことは、国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らないとの危惧であり教訓です。---

--- 現代における政治システムの機能不全とはいかなる事態をいうのでしょうか。一つに、現在の選挙制度からくる桎梏が挙げられます。衆議院議員選挙においては比例代表制も併用してはいますが、議席の6割以上は小選挙区から選ばれます。一選挙区ごとに一人の当選者を選ぶ小選挙区制下では、与党は、国民に人気がないときには解散総選挙を行いません。これは2008年から09年にまさに起こったことでしたが、本来ならば国民の支持を失ったときにこそ選挙がなされなければならないはずです。しかしそれはなされない。

 政治システムの機能不全の二つ目は、小選挙区制下においては、投票に熱意を持ち、かつ人口的な集団として多数を占める世代の意見が突出して尊重されうるとの点にあります。2005年の統計では、総人口に占める65歳以上の高齢者の割合は2割に達しました。そもそも人口の2割を占める高齢者、さらに高齢者の方々は真面目ですから投票率も高く、たとえば郵政民営化を一点突破のテーマとして自民党が大勝した05年の選挙では、60歳以上の投票率は8割を超えました。それに対して20歳台の投票率は4割台と低迷しました。そうであれば、小選挙区制下にあっては、確実な票をはじきだしてくれる高齢者世代の世論や意見を為政者は絶対に無視できない構造が出来上がります。地主の支持層が多かった戦前の政友会などが、自作農創設や小作法の制定などを実現できなかった構造とよく似ています。---

 そのように考えますと、これからの日本の政治は若年層贔屓と批判されるくらいでちょうどよいと腹をくくり、若い人々に光をあててゆく覚悟がなければ公正には機能しないのではないかと思われるのです。教育においてもしかり。若い人々を最優先として、早期に最良のメニューを多数準備することが肝要だと思います。---

 この本は、2007年の年末から翌年のお正月にかけて5日間にわたって行なった講義をもとに、序章から5章までで構成されています。序章では、対象を見る際に歴史家はどのように頭を働かせるものなのか、さらに世界的に著名な歴史家たちが「出来事」とは別に立てた「問い」の凄さを味わいながら、歴史がどれだけ面白く見えてくるものなおかをお話ししました。1章で日清戦争、2章で日露戦争、3章で第一次世界大戦、4章で満州事変と日中戦争、5章で太平洋戦争を扱っています。---

 つまるところ時々の戦争は、国際関係、地域秩序、当該国家や社会に対していかなる影響を及ぼしたのか、また時々の戦争の前と後でいかなる変化が起きたのか、本書のテーマはここにあります。 

 


 

 という書き出しで始まりました。

 すごく面白い内容です。

 私が高校で日本史を習ったときは、日本の近現代史は時間切れで終わりました。

 近現代史を教えることに教員側に抵抗があったのか、あるいは、近現代史をどのように教えればよいのか、当時はまだ教える側の足場が固まっていなかったのか。

 いずれにせよ、私たちの世代は殆どが、近現代史をまともに教わって来ませんでした。

 ですから、この本を読んで、知らなかったことをたくさん知りました。

 「そうだったのか!」と、目から鱗が落ちる思いを味わったこと度々でした。

 こんな授業を受けることが出来ていたら、もう少し世の中を見る目が違ってきたであろうにと思ったりしました。

 この講義を受けたのは、神奈川県の私立・栄光学園の中高生。しかも、歴史研究部のメンバーが中心です。

 東大の学部生と大学院生に日本近現代史を教え、自身も東京都の私立・桜蔭学園で中高生活を送った後、東大に進んだ著者です。

 こういう組み合わせの講義と聞けば、少々鼻白む想いもしますが、そういう気分を忘れさせてくれるほど面白い内容の講義でした。

 非常に密度の高い、それでいて、非常に分かりやすくて面白い講義です。

 そういう講義のお零れにあずかることができることを、嬉しいと思わせてくれる本です。 


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